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洲崎飛行場(江東区豊洲)跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2016年6月訪問 2019/5/26更新  

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1937年測量 地図種別:旧1万地形図  リスト番号:o177、A002-1MA-0016  図名:洲﨑、新橋
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

父島ではなく、江東区にあった洲崎飛行場についての記事です。

当飛行場については佐藤正孝さんから情報いただきました。佐藤正孝さんどうもありがとうございましたm(_ _)m

洲崎飛行場は元々江東区塩浜2丁目にありました  

洲崎飛行場がいつ頃開設したか不明なのですが、1920年に当飛行場にて東京~大阪無着陸往復競技会が開催されており、

また1921年6月にも、当飛行場にて帝国飛行協会主催の第二回懸賞飛行大会が実施されたことは、

大会に参加した玉井氏ご本人が日本民間航空史話に手記をまとめています。

ということで、当飛行場は遅くとも1920年には既にありました。

 

アジ歴に洲崎飛行場について扱った資料があります(下記リンク参照)。

この資料では、当飛行場が「7号埋立地にあった」と記述しているのですが加えて、

「この(飛行)場は1937年12月、深川5号埋立地から移設された」

とも記しています。

以前の記事で書きましたが、この資料は元々海軍の水路部作成のものですから信憑性の高い情報です。

突然「7号」とか「5号」とか出てきますが、

「5号埋立地」は現在の豊洲1~5丁目に、そして「7号埋立地」は辰巳1,2丁目にそれぞれ該当します。

上の地図にある通り、 この二箇所は元々洲崎飛行場のあった塩浜2丁目とは別の場所で、

塩浜2丁目は「1号埋立地」に当たります。

つまり、洲崎飛行場は 「1号埋立地」→「5号埋立地」→「7号埋立地」と移っていったことになります。

現在の住所だと、塩浜→豊洲→辰巳と、江東区内で移転を繰り返しました。

「移転を繰り返しました」と書きましたが、もしかしたら移転はこの三箇所に留まらない可能性もあります。

ということで、塩浜の初代飛行場は以前お邪魔したので、今回先ずは2代目の「5号埋立地」、豊洲に向かったのでした。

 



5号埋立地は範囲がかなり広くて、この敷地のどの部分が飛行場として使用されていたのか、

長いこと不明だったのですが、 WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校(下記リンク参照)

の中に飛行場敷地、そして滑走地区の図が出ていました。

同図には、朝凪橋(青マーカー)の南側に、田中飛行研究所、帝国飛行協会事務所、吹き流しがあり、

橋の北側、豊洲運河に沿って、東京飛行学校、亜細亜航空学校、在郷軍人格納庫、小栗飛行研究所の

各施設が描かれています。

また同サイトによりますと、当地は帝国飛行協会が東京市から管理を委託されていて、

民間航空学校の飛行場として使用されていたとあります。


DSC_0002.jpg

赤マーカー地点。

現在はすっかり高層の建物が整然と立ち並び、ここに飛行場があったとはとても想像つきません。

「WEB版 航空と文化/空のパイオニア」によりますと、

亜細亜航空学校は昭和13年4月に、第5号埋立地から第7号埋立地へ移転したとあります。

これは、皇紀2600年(昭和15年)に、国家的記念事業として万国博覧会の開催が計画決定され、

第5号埋立地が陳列館等の建設予定地となっており、所有者である東京市から立ち退きを求められたため。

と記されています。

三代目の辰巳の飛行場については次の記事で。


      東京都・洲崎飛行場(江東区豊洲)跡地     

洲崎飛行場(江東区豊洲) データ
空港種別:陸上飛行場
所在地:
座 標:N35°39′29″E139°47′44″?
標 高:2m
面 積:38.3ha?
着陸帯:900m×400m?
方 位:14/32?
(座標、標高、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1933年04月 21日、亜細亜航空学校創立
1936年   この頃、東京飛行学校、小栗飛行学校、田中飛行研究所、亜細亜航空学校があった
1937年12月 深川7号埋立地に移設
1938年04月 亜細亜航空学校、7号埋立地に移転

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
アジ歴:深川7號埋立地    
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