So-net無料ブログ作成
├国内の空港、飛行場 ブログトップ
前の5件 | -

■飛行場/跡地リストA■ 北海道~関東 [├国内の空港、飛行場]

字数制限のため二分割してあります。続き   
五十音順飛行場索引 場所が分からない飛行場   情報お待ちしておりますm(_ _)m
最終更新:2018/10/15 栃木県・黒磯滑空場跡地 追加


より大きな地図で 空港、飛行機関係の場所 を表示

4.PNG

 

 北海道 
■道北■ (残:1 稚内不時着陸場跡地)     
礼文空港     
利尻空港  
稚内空港   
稚内水上基地跡地
    
サロベツフライトクラブ滑走路
   
浅茅野第一飛行場跡地
   
浅茅野第二飛行場跡地
  
名寄駐屯地滑走路
   
愛別飛行場(運用当時)
    
 愛別飛行場(廃止後)
  
当麻滑空場    
トムラウシフライトクラブ
   
新得(西部地区)農道離着陸場
     
旭川飛行場    
旭川空港  
美瑛滑空場  
上富良野演習場飛行場
   

■道東■ (残:2 弟子屈不時着陸場跡地、中標津不時着陸場跡地)     
紋別(オホーツク紋別)空港
  
旧紋別空港跡地
   
遠軽駐屯地滑走路
   
北見地区農道離着陸場
    
旧女満別空港跡地     
女満別空港    
美幌航空公園    
美幌第一飛行場跡地    
美幌第三飛行場跡地
    
標津第二飛行場跡地   
旧中標津空港跡地      
中標津(根室中標津)空港       
計根別第一飛行場跡地     
計根別第二飛行場跡地    
計根別第三飛行場跡地    
計根別飛行場    
計根別第五飛行場跡地    
弟子屈飛行場跡地
   
別寒辺飛行場
   
矢臼別飛行場
   
根室第一飛行場跡地
   
根室第二(牧ノ内)飛行場跡地
    
愛国飛行場跡地     
釧路(たんちょう釧路)空港
    
フライトパーク白糠
    
足寄芽登飛行場
  
上士幌航空公園  
然別演習場滑走路
   
帯広第二飛行場跡地
        
十勝飛行場    
帯広緑ヶ丘飛行場跡地       
音更飛行場跡地       
ホープランド飛行場     
豊頃(MICとよころ)飛行場(運用当時)       
豊頃(MICとよころ)飛行場(廃止後)  
豊頃町滑空場跡地   
帯広(とかち帯広)空港
      
上更別飛行場跡地
   
大樹町多目的航空公園
    
広尾(小紋別、豊似)飛行場跡地
   
能取水上基地跡地
  
厚岸水上機基地跡地
  
厚岸飛行場跡地  
北斗場外離着陸場跡地
  
トムラウシの飛行場
  
千代田滑空場跡地
   

■道央■ (残:1 富浦不時着陸場跡地)
深川市グライダー滑空場
   
赤平航空公園  
たきかわスカイパーク    
滝川駐屯地飛行場
   
美唄農道離着陸場(スカイポート美唄)
    
新篠津滑空場      
UFO PARK 飛行場
   
孫別演習場の滑走路
   
北大夕張川滑空場
   
南幌場外離着陸場   
王子江別飛行場跡地     
丘珠空港(札幌第二飛行場、新札幌飛行場、札幌飛行場)   
札幌第一(北海タイムス社、札幌)飛行場跡地
   
札幌興農園(興農園耕地)飛行場跡地
   
島松演習場滑走路
   
北千歳駐屯地滑走路
   
千歳飛行場(千歳着陸場、千歳第一航空基地)
   
新千歳空港
    
千歳第二、第三飛行場跡地      
日本航空学園千歳校
     
鯉沼スカイパーク   
沼ノ端飛行場跡地   
新冠飛行場  
苫小牧不時着陸場跡地   
雲雀ヶ丘飛行場跡地  
アップルポート余市
  
倶知安駐屯地滑走路
  
大滝飛行場
 
白老滑空場  
敷生飛行場跡地  
幌別駐屯地滑走路跡地
  
室蘭飛行場跡地
    
小樽航空水上基地跡地
   

■道南■ (COMPLETE)    
八雲(室蘭八雲)飛行場
    
奥尻空港
    
旧奥尻空港跡地     
鹿部飛行場    
函館(赤川)飛行場跡地
   
函館空港
     

 東 北 
■青森県■ (COMPLETE)     
樺山飛行場跡地
     
大湊航空基地
      
青森(油川)飛行場跡地
      
旧青森空港跡地
     
青森空港
     
淋代海岸滑走路跡地
    
三沢空港
    
カワヨグリーン牧場滑走路
     
八戸駐屯地飛行場
      
八戸航空基地飛行場
    
三本木(三沢第二)飛行場跡地
  
茂浦水上機基地
  

■岩手県■ (COMPLETE)   
騎兵連隊滑走路跡地
      
鶯宿滑空訓練所跡地
    
山田水上機基地跡地
     
花巻(いわて花巻)空港
    
岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地
    
岩手県第二滑空訓練所跡地
     
金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地
    
小山(水澤)飛行場跡地
    

■宮城県■ (COMPLETE)   
瀬峰場外離着陸場(セミネ飛行場)
     
四壇原(高清水)飛行場跡地
   
王城寺原秘匿飛行場跡地   
航空自衛隊松島基地
     
利府森郷場外離着陸場
     
霞目飛行場
    
青野木場外離着陸場
  
仙台空港(旧増田陸軍飛行場)
 
角田滑空場
  
宮城野原陸軍練兵場跡地
  
追廻練兵場跡地
  

■秋田県■ (残:1 北楢岡飛行場跡地)    
能代陸軍(東雲)飛行場跡地
     
ハイランド滑空場跡地
    
大館能代(あきた北)空港
     
田代菜の花飛行場
   
大潟場外離着陸場跡地
      
旧秋田空港跡地
     
四ツ小屋滑空場
     
秋田空港
   
稲沢場外MLP専用飛行場
    
六郷(明田地)飛行場跡地
     
土浦海軍航空隊秋田基地跡地
  
後三年滑空機練習所跡地 
佐藤章飛行士発着跡地 

■山形県■ (COMPLETE)   
庄内空港(おいしい庄内空港)
  
真室川飛行場跡地
  
升形飛行場(滑空場)跡地
  
大蔵村南山の場外離着陸場
  
玉野原飛行場跡地
  
山形空港(おいしい山形空港)
  
日飛(漆山)飛行場跡地
  
むつみ飛行場  
八幡原飛行場跡地 
寒河江の滑空場跡地(推定位置) 

■福島県■ (COMPLETE) 
ふくしまスカイパーク
  
梁川場外離着陸場
  
阿武隈フライングクラブ飛行場
   
原町陸軍飛行場跡地
 
磐城陸軍飛行場跡地
   
馬場平飛行場跡地
   
第二郡山航空基地(金谷飛行場)跡地
   
矢吹陸軍飛行場跡地      
福島空港
   
棚倉(沢田、石川沢田)飛行場跡地
   
須賀川飛行場跡地
  
浅川航空基地跡地  
第三郡山航空基地(大槻飛行場)跡地  
御代田航空基地跡地 


 関 東 
■茨城県■ (残:1 つくば滑空場)   
十王飛行場
      
河原子滑空場跡地  
水戸北飛行場跡地
     
水戸陸軍(水戸東)飛行場跡地
     
水戸南(吉田)飛行場跡地
    
湊町海岸滑空場跡地  
大洗場外離着陸場
  
水戸フライングクラブ
       
百里飛行場(茨城空港)
     
鉾田(豊鹿島)飛行場跡地     
北浦海軍航空隊跡地     
神之池航空基地跡地     
内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地     
軽野滑空場跡地
      
筑波航空基地(友部飛行場)跡地
     
大日本飛行協会中央滑空訓練所跡地
     
石岡航空基地(東の辻飛行場)跡地
     
千代田場外離着陸場
 
古河航空機乗員養成所(岡郷/小堤/関戸の飛行場)跡地    
下館ULP飛行場  
関城ULP飛行場    
下館飛行場跡地
     
明野場外離着陸場
     
真壁(桜川、筑波)滑空場
     
海老ケ島秘匿飛行場跡地
     
西筑波飛行場跡地
     
大畑秘匿飛行場跡地
  
大曽根飛行場跡地
  
谷田部航空基地跡地
     
霞ヶ浦海軍航空隊跡地
     
土浦海軍航空隊跡地
  
舟島水上機離着水場跡地
  
阿見飛行場
  
 阿見飛行場(廃止後) 
ピッコロ水上飛行場(鹿島海軍航空隊跡地)  
竜ヶ崎(貝原塚)飛行場跡地  
竜ヶ崎飛行場
  
大利根飛行場
  
守屋飛行場
   
守谷フライングオーナーズクラブ飛行場
   
真壁(金敷)秘匿飛行場跡地 

■栃木県■ (COMPLETE)   
スカイフィールドナス)
  
黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地  
金丸原陸軍飛行場跡地
  
湯津上(佐良土)飛行場跡地
  
御前原飛行場跡地
  
今市飛行場跡地
  
鬼怒川(氏家)滑空場
  
ツインリンクもてぎ南滑走路
  
宇都宮場外離着陸場
  
宇都宮陸軍(清原/鐺山)飛行場跡地
  
大野原飛行場跡地
  
宇都宮(宇都宮南)飛行場
  
壬生(上長田/国谷)飛行場跡地  
仁良川飛行場跡地
  
小山絹滑空場
  
藤岡(静和)飛行場跡地
  
スカイフィールドわたらせ離着陸場(藤岡場外離着陸場)
  
中禅寺湖水上機基地跡地 
黒磯滑空場跡地  

■群馬県■ (COMPLETE)   
板倉滑空場
     
大西(館林エアロ、旧陸軍館林)飛行場(運用当時)     
 館林(大西)飛行場跡地追加  
太田小泉飛行場跡地       
尾島飛行場跡地  
新田陸軍(生品)飛行場跡地        
桐生愛国飛行場跡地      
前橋(堤ヶ岡)飛行場跡地      
高崎飛行場跡地   
相馬原飛行場
  
伊勢崎場外離着陸場 
坂東飛行場跡地 

■埼玉県■ (COMPLETE)   
羽生滑空場
    
読売加須滑空場(旧大利根滑空場)     
宝珠花滑空場     
妻沼グライダー滑空場
     
児玉飛行場跡地    
三尻陸軍(稜威ケ原)飛行場跡地     
小原(熊谷南)飛行場跡地
     
荒川河畔グライダー場跡地
   
関東松山飛行場跡地
    
東京フライングクラブ飛行場
    
ホンダエアポート
     
 桶川陸軍飛行場跡地  
坂戸陸軍飛行場跡地
    
高萩飛行場跡地    
大宮の中島飛行機飛行場跡地
    
越谷(論田、新和、荻島)飛行場跡地
      
所沢飛行場跡地     
入間基地(旧豊岡陸軍飛行場、ジョンソン基地)    
狭山飛行場跡地
      
吹上飛行場
  
大里飛行場
  
浦和(埼玉第一)飛行場跡地
  
朝霞訓練場離着陸場跡地
  

■千葉県■ (COMPLETE)   
下志津陸軍飛行学校銚子分教場跡地
    
香取航空基地(干潟の飛行場)跡地    
横芝(栗山、横芝栗山)飛行場跡地    
成田国際空港(成田空港)     
下志津陸軍飛行学校八街分教場跡地     
豊成(東金)飛行場跡地    
関宿滑空場
  
蕃昌飛行場跡地    
柏飛行場跡地
    
逓信省印旛地方航空機乗員養成所、印旛(草深)飛行場跡地
   
下総航空基地
    
松戸飛行場跡地    
習志野離着陸場
    
船橋飛行場跡地(初代)    
船橋飛行場跡地(二代目)
    
伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地    
下志津飛行場跡地
   
稲毛飛行場跡地
    
白戸飛行機教習所跡地   
浦安市の臨時滑走路
   
誉田飛行場(平川滑空場)跡地
    
真名(茂原)飛行場跡地   
茂原海軍航空基地跡地
    
太東航空基地跡地    
木更津飛行場
    
館山航空基地
    
県営千葉県魚群探見飛行場跡地  
大利根飛行場跡地(水上機基地)  
佐原飛行場跡地 
五井水上基地跡地  

■東京都■ (COMPLETE)   
千住草加間国道秘匿滑走路跡   
岸飛行場跡地      
板橋(前野)飛行場跡地
      
成増陸軍飛行場跡地
    
篠崎飛行場(江戸川飛行場)跡地     
洲崎(深川浦)飛行場跡地・江東区    
月島飛行場(晴海連絡用滑走路)跡地    
東雲飛行場跡地     
代々木練兵場跡地
     
東京国際空港(羽田空港)
   
 東京羽田飛行場(1931~1939)  
 東京飛行場(1940~1945)  
 ハネダエアベース(1945~1952)  
 東京国際空港(1952~)  
戸田橋滑空場跡地
  
読売飛行場跡地
    
調布飛行場
     
東京陸軍航空学校滑空場跡地   
横田(旧福生、多摩)飛行場     
国立飛行場跡地   
立川飛行場
    
昭和飛行場跡地
    
旧陸軍大島飛行場、北の山陸軍飛行場、旧大島空港跡地
   
大島空港
  
神津島空港
  
三宅島空港
   
八丈島海軍(三根)飛行場跡地
   
八丈島空港
  
新島空港
  
 陸軍新島飛行場跡地  
 新島村営場外離着陸場跡地  
洲崎飛行場(江東区豊洲)跡地
  
深川7号埋立地(洲崎飛行場・江東区辰巳)跡地
  
中島大井(大井)飛行場跡地
  
(洲崎飛行場跡地(父島))
   
(父島飛行場)
  
(千鳥(下の、第一)飛行場跡地)
   
(元山(第二)飛行場跡地)
 
(北(上の、第三)飛行場跡地)
  
(硫黄島飛行場)
  
(南鳥島飛行場)
   

■神奈川県■ (COMPLETE)   
伊勢佐木町(若葉)飛行場跡地      
間門飛行場跡地
      
第十一横浜水上基地(根岸飛行場)跡地     
横浜水上基地(富岡飛行場)跡地
      
横須賀第一(追浜)飛行場跡地
     
横須賀第二(長井)飛行場跡地
      
横須賀第三(黒崎、初声)飛行場跡地
      
キャスナー陸軍飛行場     
相模(中津)飛行場跡地
     
大山秘密航空基地(厚木第二飛行場)跡地      
厚木飛行場
      
厚木(銀紙)飛行場跡地  
藤沢飛行場跡地      
磯子飛行場跡地
  
三本葭飛行場跡地
  
玉井飛行場跡地
  
片岡飛行場跡地
  
宗里飛行場跡地
  


更新履歴
2018/10/15 栃木県・黒磯滑空場跡地 追加
2018/10/05 長野県・軽井沢競馬場跡地 追加
2018/10/04 長野県・長野県・臨時飛行場跡地 追加
2018/10/03 長野県・旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) 追加
2018/08/13 千葉県・五井水上基地跡地 追加
2018/08/09 茨城県・阿見飛行場(廃止後) 追加
2018/08/07 茨城県・真壁(金敷)秘匿飛行場跡地 追加
2018/08/06 栃木県・中禅寺湖水上機基地跡地 追加
2018/08/03 福島県・御代田航空基地跡地 追加
2018/08/01 山形県・寒河江の滑空場跡地(推定位置) 追加
2018/07/28 秋田県・佐藤章飛行士発着跡地 追加
2018/07/27 秋田県・後三年滑空機練習所跡地 追加
2018/07/21 新潟県・高田練兵場着陸場跡地 追加
2018/07/18 群馬県・坂東飛行場跡地 追加
2018/06/18 山梨県・甲府練兵場着陸場跡地 追加
2018/06/15 長野県・赤砂飛行場跡地 追加
2018/06/13 岐阜県・高山市北北東方上野平着陸場跡地 追加
2018/06/11 滋賀県・大津陸軍少年飛行兵学校跡地 追加
2018/06/09 京都府・長田野着陸場跡地 追加
2018/06/08 京都府・高津航空基地跡地 追加
2018/06/07 京都府・綾部航空基地跡地 追加
2018/06/05 石川県・七尾水上機基地跡地 追加


コメント(42)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

栃木県・黒磯滑空場 [├国内の空港、飛行場]

   2018年9月訪問 2019/1/8更新  



無題g.png
撮影年月日1975/10/27(CTO7533 C13A 4) 

無題h.png
撮影年月日2000/10/07(KT20001Y C4 13) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

栃木県那須塩原市にある「黒磯滑空場」。

ここは拙記事「スカイフィールドナス」 コメント欄にて、maruyamaさんとKa8Pさんから教えて頂いた滑空場です。

東京グライダークラブが開設したと思われること、

グライダー年刊雑誌ターンポイント(現在休刊)に1994年頃に活動していた記録があること、

2003年頃に使われてないというインターネットの記載があること等情報頂きました。

maruyamaさん、Ka8Pさん、情報ありがとうございましたm(_ _)m

で、情報いただいてから2年経ってやっと現地にお邪魔してみたところ草ボーボーで、

ウインドソックス、掲示物等もなく、やはり現在は滑空場として使用していないようです。

国土地理院の航空写真で当地を年代を追ってみたのですが、

上に貼った通りで1975年の写真では地割はほぼ現在と変わらないんですが、

まだら模様になっていて、滑走路っぽくない感じ。

1975年の次は一気に2000年まで撮影がなく、閲覧ができません。

1994年前後の写真があれば良かったんですけどね~。

2000年撮影の写真ではいかにも一面滑空場のようにな状態になっています。

未舗装滑走路を使用すると、滑走路中心線や接地箇所が削れたように見えるものですが、

2000年の写真では均一にキレイな状態で、次に閲覧可能な2012年でもこれは変わらずです。

当滑空場に関する情報お待ちしておりますm(_ _)m


2019/1/8追記:コメント頂きました。平成最後の年に復旧するそうです\(^o^)/



DSC_0005.jpg



     栃木県・黒磯滑空場         


黒磯滑空場 データ
設置管理者:東京グライダークラブ?
空港種別:滑空場
所在地:栃木県那須塩原市小結
座 標:N37°00′54″E140°00′00″?
標 高:413m
滑走路:590mx50m?
方 位:15/33
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)


沿革:
1994年 この頃活動記録あり
2003年 この頃には使用していないとネット上にログあり


コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

軽井沢競馬場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2010年5月 訪問  

無題8.png
撮影年月日1947/08/13(USA M407 70)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

軽井沢にあった競馬場

戦前の一時期、長野県軽井沢町に「軽井沢競馬場」がありました。

「道路の東側には競馬場がつくられた。昭和六年八月一日に、広さ一〇万坪、一周一六〇〇メートルの軽井沢競馬場の開場式が行われた。(中略)この競馬場は戦争が激しくなると、八丈島から疎開した人々が生活する場と変わっていくこととなる。」(避暑地軽井沢110p)

同書では、この昭和6年のレースは大盛況であり、8年、9年、10年にもレースが開催されたのですが、

集客数、売り上げ的に尻すぼみになってしまい、11年には開催することができなかったとあります。

競馬場の大きさについては「一周一六〇〇メートル」とあるのですが、

他サイト、他資料では、「1周1,000m」となっているものがあり、

一体どちらが正しいのだろうか。と思っていたんですが、上の航空写真からグーグルマップに作図して、

1周の長さを計ってみたところ、ピッタリ1,600mでした。

「軽井沢は霧が深いことが有名で、当時の飛行機にとっては大きな障害となった。昭和九年五月、海軍の飛行機三機が碓氷峠を越えて南軽井沢にさしかかった。ところがそのうちの一機、舘山海軍航空隊の柴山栄作三等兵曹が操縦する「 報国実業学生号」が折からの濃霧のために進路をあやまり、軽井沢飛行場に着陸しようとして旋回したうえ、軽井沢競馬場へ不時着した。競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破したが、操縦者はさいわい無事であった。その後機体は分解して列車で送られていった。」(避暑地軽井沢109p)

「1934年5月21日  南軽井沢飛行場で館山海軍機墜落、消防団出動応援」(軽井沢百年のあゆみ)

「軽井沢飛行場」記事でも触れましたが史料にあります通り、

昭和九年に海軍機が当競馬場に不時着するという一幕がありました。

競馬場は昭和11年の開催を最後にその後閉鎖してしまったんですが、

この競馬場跡地も戦争の影響を受けることとなります。


閉鎖後の競馬場跡地

「昭和十二年には南軽井沢競馬場が教練場となったが、翌十三年四月に国家総動員法が公布されると、南軽井沢一帯は軍事教練場化していくことになった。」(避暑地軽井沢143p)

競馬場のみならず、南軽井沢一帯が軍事教練場化し、軍事色を強めていったんですね。

競馬場跡地は末期の時期、用途が目まぐるしく変わったのでした。

「太平洋戦争が激しくなり、日本本土に空襲が行われるようになると、軽井沢に別荘を持っている家では、年よりや婦人たちを安全な軽井沢へ疎開するようになった。軽井沢は本州の中で海から最も遠い地域にあるために、アメリカ軍の艦砲射撃の砲弾は届かないし、別荘は林の中に建てられていたので、日本中で最も安全な場所と考えられた。
 軽井沢へ疎開した人数がどのくらいの数であったかの記録は少ないが、いくつかの例によって当時の様子をみよう。昭和十九年三月には室井犀生が旧軽井沢の別荘に疎開したのをはじめ、八月には正宗白鳥が六本辻へ、十月には近藤文麿、宇垣一成、来栖三郎などの名前がみられるようになった。別荘は夏ばかりでなく冬にも使われるようになり、本宅を空襲で焼かれた人々にとっては本宅となった。(中略)
 これら二校の児童の家族を考えると数千人が疎開生活をしていることになる。学校の集団疎開も多く、暁星初等学校約三〇〇人がバークホテルを利用したのをはじめ、女子大付属小学校約三〇〇人が三泉寮へ、啓明学園五〇人、興亜館が別荘や寮で学業と生活を続けた。
 学童ばかりでなく、東京帝国大学の地震研究室が第一国民学校の一教室へ、理学部植物学教室は軽井沢集会堂を借りて、創立以来集めた貴重な研究資料を貨車数台で運び込んで大学の分室として研究を続けた。(中略)
 昭和二十年四月に南軽井沢の大観楼へ八丈島から約八〇〇人が集団疎開してきた。八丈島は太平洋戦争の本土を守るために、砲台や無線隊の基地が築かれることになった。八丈島では軍属として島へ残る男たちを除く老人と婦人、子どもは親戚や知人をたよって内地へ移り住んだが、身よりのない人たちは横浜と東京の寺などに疎開した。しかし空襲がはげしくなると群馬県松井田町に移動し、さらに安全な場所を求めて軽井沢へ移動してきたのであった。八丈島の人々は四月五日に南軽井沢の元競馬場あとをアパート式に改築した大観楼へ入った。」(避暑地軽井沢145~148p)

八丈島の島民の方々の疎開先になったんですね。

時間が前後してしまうんですが、疎開地となる直前にはこんな用途にも使用されていました。

「八丈島から、老人・女・子供ばかりで数百人(くわしい人数は、防諜の理由で公表されなかった)の人たちが強制集団疎開で南軽井沢の、もと特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろのことであった。軽井沢の南にある地蔵ヶ原は、わたしが東京から疎開してきていた追分から、徒歩で一時間ぐらいの距離にあった。新聞には、『南軽井沢競馬場あと』としてあり、『つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった』ことは、これも防諜上、匂わしてもいなかったが、地蔵ヶ原の競馬場が、戦争になってから、特攻隊の訓練場に転用されていたことは、隊員の下着の洗濯の奉仕に、大日本国防婦人会の末端組織である追分班の婦人たちも当番で動員され、わたしの妻もいくたびか出かけていって知っていた。」(風間道太郎 暗い夜の記念)と回想されている。特攻隊は大観楼、押立ホテルを宿舎としていたのである。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

競馬場跡が特攻隊の飛行訓練場になっていたのですね。

競馬場跡地が特攻隊の飛行訓練場として使用された時期についてですが、

八丈島からの疎開で元特攻隊訓練場の宿舎に入居したのは、「敗戦の年の一月か、その前年の十二月ごろ」

ですから、1944年12月~1945年1月頃。

更に「つい二、三ヶ月前まで特攻隊の飛行訓練場であった」とありますから、

1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場だった。ということになると思います。


競馬場跡地は飛行場として使用されたのか

おおよそその頃まで特攻隊の飛行訓練場だったとして、当ブログ的に気になるのは、

特攻隊の飛行訓練場だった期間、ここが飛行場になったか、そうではなかったのか。

という点です。

前述の通り、昭和9年に当競馬場に不時着した海軍機は、

「競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破」しちゃいましたが、

競馬場はトラック内等基本的に平坦地が多いはずで、

滑走に適した場所と方向さえ間違わなければ、離着陸は十分できたのではないかと。

現在の旅客機はまるで鏡面のように整備された真っ直ぐな滑走路を使用しますが、

当時の軍用機、それも小型機は、それと比べるとビックリする程凸凹な草原でも普通に離着陸していました。


但し、「競馬場は離着陸可能のはずだから、離着陸してたはずである」というのは、

これは飽くまでオイラの仮説でしかなく、

実際に競馬場跡地を飛行場として離着陸があったのかどうなのかについては、今のところ資料が見当たりません。

軽井沢の特攻隊員たちがどんな訓練を行っていたのか、史料は見当たらないんですが、

別の飛行場でどんな特攻訓練を行っていたかの例はあります。

軽井沢の飛行場は、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使用されたんですが、

埼玉県の桶川飛行場も同じく熊谷飛行学校の分教場で、1944年末から特攻隊の訓練が開始されました。

桶川で実施された訓練の内容は、

滑走路近くにある吹流しを目標に、エンジン全開、35度の急角度で降下するというものです。

軽井沢で実施された特攻隊の飛行訓練がこれと同じものをひたすら繰り返すのだとしたら、

二十間道路を挟んで2km程の所に軽井沢飛行場がありましたから、

軽井沢飛行場を離陸→競馬場跡地上空で急降下訓練→軽井沢飛行場に着陸

とすれば、必ずしも競馬場跡地に離着陸する必要はないことになります。

それでも、南軽井沢一帯が軍事教練場と化した中で、特に競馬場跡地を指して「特攻隊の飛行訓練場とした」

と記され、しかも競馬場跡地には特攻隊員の宿舎が設けられていたことからすると、

オイラ個人は、ここを飛行場として訓練を行っていた可能性が高いのではないかと思います。

いずれにせよ競馬場に離着陸したのか、しなかったのか、明示する史料が見当たらないため、

現段階では判断のしようがありません。

今の時点での結論としましては、

競馬場に離着陸しようと思えば出来たが、離着陸しなくてもそれほど支障はなかった。

というところではないかと。

現在競馬場跡地は軽井沢72ゴルフ東コースになっています。

D20_0079.jpg

     長野県・軽井沢競馬場跡地         

軽井沢競馬場 データ
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町発地
座 標:N36°18′24″E138°38′11″
標 高:940m
トラック:1周1,600m
(座標、標高、トラック長さはグーグルアースから)

沿革
1931年08月 1日、開場式。レース開催
1933年07月 28日から4日間レース開催
1934年   春、秋の2回レース開催
    05月 21日、館山海軍航空隊「報国実業学生号」、当競馬場に不時着
1935年   レース開催
1936年   この年のレースを最後に閉鎖
1937年   教練場となる
1944年9月~11月頃までは特攻隊の飛行訓練場
1944年12月~1945年1月頃、八丈島からの疎開者が元特攻隊訓練場の宿舎に入居
1945年04月 5日、八丈島からの疎開者、競馬場跡をアパート式に改築した大観楼に入る

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
避暑地軽井沢
軽井沢町誌
軽井沢百年のあゆみ

続きを読む


コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長野県・臨時飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2015年3月 訪問  



無題b.png
撮影年月日1948/09/14(USA M1161 18) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

6番コースから二十間道路へ

前記事からの続きです。

南軽井沢開発史を語る上で決して外せない「二十間道路」ですが、

この道路誕生のいきさつについて、次のように記されていました。

「五、南軽井沢の開発-二十間道路が地蔵ヶ原を変えた-
 南軽井沢は軽井沢駅の南に広がる平地をさすが、明治初期には泥川のつくった湿地が多く、その間をぬうように離山下から境新田を通って入山峠へのぼる道と借宿から馬越原(地蔵ヶ原)をぬけて和美峠へ通じるいわゆる女街道が通っていた。湿地にはたくさんのヨシが生えしげり、ヨシキリが巣をかけてけたたましい声をあげてとびかっていた。その南には馬越と馬取萱の二つの集落があったがさびしい所であった。(中略)
 この広い草原に着目したのが堤康次郎であった。堤は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。大正九年、箱根土地株式会社(現国土計画株式会社)は、地蔵ヶ原一帯の発地の共有地約四二一ヘクタールを買収した。ところが馬越に通じる道は狭く曲がりくねっており、車が通れるような道がなかった。堤は大正一三年に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅二〇間(約三六メートル)長さ二〇町(約二一八〇メートル)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌十四年夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建築して売り出した。」(避暑地軽井沢108p)

南軽井沢開発のため、先ず道路から。ということだったんですね。

終戦とともに長野県軽井沢町をレストセンターとした米軍。

将校以上はヒコーキで軽井沢にやって来たのですが、旧軽井沢ゴルフクラブの6番コースを飛行場としたところ、

事故が起きたため、二十間道路を臨時飛行場としたのでした。

そして戦後、この二十間道路を臨時飛行場として使用したことについては、幾つもの史料に出てきます。

「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」684p(年表)

「米軍兵士たちは三日から一週間の休暇を与えられて、軽井沢にやって来る。常時三百名ほどが交代で滞在したようだ。将校たちは、家族を連れて週末ごとにやって来た。アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し」(軽井沢物語364p)


二十間道路をどのように使用したのか、具体的な記述もありました。

「二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行機の離発着を助けていた。」(軽井沢という聖地102p)

「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。この事故が契機となって昭和二十三年、軽井沢駅から南へ延びる"二十間道路"が臨時飛行場にされた。MPからセスナ機着陸の連絡が入ると、軽井沢事務所から警察へ連絡、飛行場(道路)の両側を遮断、着陸後は警察官が離陸までセスナ機を警備した。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

二十間道路は公道ですから、飛行場とする時は交通を一時遮断する必要がある訳ですが、警察が担当したんですね。

着陸した機体を離陸まで警備するのも警察の担当とあります。

このことから、進駐軍の本拠地である軽井沢駅北側まで飛来機を延々タキシングさせたのではなく、

恐らくは着陸した二十間道路の脇とか、近くに駐機させていたのではないかと思います。


将校は週末ごとに軽井沢にやって来ました。

駐留軍の将校の"週末"って、何日間なんでしょう?

週休二日制だったんでしょうか?

日曜日は軽井沢の教会に行ったんでしょうか?

将校を軽井沢まで運んだヒコーキは、即東京にトンボ返りだったんでしょうか。

それとも有事即応で将校の帰京までそのまま駐機していたんでしょうか。

疑問は尽きないんですが、仮に将校の帰京まで駐機だったとすれば、

それまでの間、地元警察が機体の警備を担当することになりました。

6番コースを使用していた時は、旧ゴルフ場全体が米軍の騎兵師団用の放牧場として接収されていましたから、

機体の警備を地元警察が担当することはなかったはずで、手間が増えましたね。


二十間道路のどこを使用したか

町誌の中に二十間道路のどの箇所を臨時飛行場としていたのか図が添付してあり、

軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場 の一番最後にもこの図が出てました。

その通りの位置を示したのが上のグーグルマップ、航空写真です。

後述しますが、二十間道路は1948年5月~1949年4月頃まで使用していたと考えられます。

上の航空写真は、1948年9月撮影ですから、まさに「臨時飛行場」だった頃のものです。

図によりますと、滑走路に設定された南端部分、ちょっと折れ曲がった先まで滑走路の一部として示されていて、

なんでこんな部分まで範囲になっているのか不思議なんですが、

もしかしたら、到着機の将校様をすぐお乗せできるようジープを待機させたり、

続けざまに複数の飛来機がある時を想定したエプロン代わりとかなんでしょうか(現在でもアラスカでは結構こういう形状ある)。

滑走路の長さは直線部分のみで約470mあり、高低差は5m程度。

6番コースは長さ450m、高低差は(飽くまでグーグルアースの現在の数値ですが)8m程度でしたから、

こちらの方が幾らかマシです。


町誌の図によって初めて二十間道路のドコが臨時飛行場だったのか知った訳なんですが、

図を見てまず思ったのは、(なんでよりによってこの部分??)ということでした。

先頭のグーグルマップを引いて見ていただけれぱ明らかなんですが、

米軍が臨時飛行場に設定した箇所の南側にも北側にも、もっと直線の長い箇所が幾らでもあるのです。

臨時飛行場のすぐ北には1,000mの直線になっていますし、南側には1,900mの直線があります。

但し、南側1,900mの直線の真正面には、押立山がそびえ立っております。


所要時間問題再び

「占領軍は地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって、将校以上は東京から25分で飛んできた」(避暑地 軽井沢155p)

具体的な所要時間が出ていますね。

昭和2年に始まった定期便と比べると、所要時間が半分になっています(@Д@)

「軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場跡地」記事 でも書いたんですが、

「地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって」と、ちゃんとどの飛行場を使ったか明記してあるのに、

実はオイラ、一時期「二十間道路」を使用していた時も所用25分と思い込んでました(///∇///)

そのため「二十間道路のどの箇所を滑走路に使ったか、町誌に図示されてますよ」と教えて頂いたのに、

「こんな標高が高く、しかも短い距離で離着陸するヒコーキがたった25分で東京まで飛ぶなんてあり得ない!」

とその情報を否定し、コメント欄が非常に険悪な雰囲気になってしまったのでした。

この時占領軍がどの機種を使用していたか不明なんですが、以下分からないなりにアレコレ書いてみます。

東京~軽井沢間、直線距離で100kmとすると、平均速度240km/h出せば、25分で到達できる計算になります。

但しこれは単純計算の数字です。


離陸→上昇→増速→巡航→下降→減速→着陸という速度の変化や、飛行距離のロスが計算に入っていません。

恐らく巡航中300km/h弱を維持しないと、25分は達成できません。

これは一例なんですが、1998年式のセスナ172Sは、最大巡航速度233km/h。

これは172の多くの派生型の中でもかなり速い部類に入るんですが、

例えセスナ172Sが最大巡航速度を出し続けたとしても、とても東京まで25分では着けません。

こう考えると、25分というのはそうお気軽に出せるタイムではないことが分かります。

まあ、「速ければヨシ」という話なら、戦闘機等、いくらでも早いヒコーキは当然あるんですが、

史料には「将校たちは家族を連れて」やって来たとあるので、将校とその家族の乗り込みます。

パイロット以外に座席が少なくとも更に数席ある機体でなければならず、当時は恐らく双発機を使用したはずです。


速度と共に、軽井沢特有の問題もあります。

標高が高くなるごとに空気は薄くなってゆくわけですが、

そうなるとヒコーキはエンジンとプロペラと翼の性能が落ちます。

現在国内で最も標高の高い空港は同じく長野県の松本空港の658mで、

その標高からヒコーキの運用には制限がついています。

658mでも運用制限がつくのに、軽井沢の標高はそれを遥かにしのぐ1,000m!Σ(゚Д゚;)

これではエンジンの馬力は上がらず、プロペラ、翼の効率もガタ落ちで、

長く滑走しないと離陸できず、結果として長い滑走路が必要となります。

「東京まで25分」を実現するための性能を備えた(恐らく双発の)機体なら、それだけ余計に長い滑走路が必要で、

とすると二十間道路の「ここが滑走路」と示されている箇所では短すぎて、

「離陸できるはずがなーい!」と思っていたのでした。


でも後になってよくよくいろんな資料を見返してみてたら、

「所用時間25分」と書かれているのは軽井沢飛行場についてのみでした。

6番ホール、二十間道路使用時の所要時間は(オイラの知る限り)どの史料にも出てきません。

それで、6番ホール、二十間道路使用時は短距離離着陸性能の優れた(ちょっと遅い)機体、

軽井沢飛行場に移ってからは、滑走距離長くなるけど快速機に変更したとすれば説明がつきます。


軽井沢飛行場へ

ということで二十間道路を使用することになったんですが、

町誌には、「このように公道を飛行場として使用することは本来無理なことで」とあり、

占領軍の飛行場は、またまたお引越しすることになります。

「アイケルバーガー中将など幹部はセスナ機でやって来るため、堤康次郎が造った二十間道路を滑走路として使用し、次には戦前に堤が造った南軽井沢飛行場を再建している。」(軽井沢物語364p)

「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。
 やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に伸びる二十間道路(現プリンス通り)の南半分を"臨時飛行場"とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一時遮断して、飛行場の離発着を助けていた。現在の軽井沢ではとても信じられないような出来事が当時は普通に行われていたのである。
 ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。(軽井沢という聖地102p)

こうして、6番コース→二十間道路ときた飛行場は、戦前に建設された飛行場に移るのでした。

詳しくは「軽井沢飛行場跡地」記事に書きましたが、

米軍は恐らく1949年4月頃に軽井沢飛行場を復旧させたと思われます。

そのため二十間道路を使用していたのは、1948年5月~1949年4月頃までの1年位だったかと。


D20_0032.jpg

滑走路南端側から



     長野県・臨時飛行場跡地         
臨時飛行場 データ
空港種別:臨時陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町長倉
座 標:N36°19′17″E138°37′47″
標 高:936m
滑走路:470m
方 位:15/33
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1925年夏   二十間道路ほぼ完成
1948年05月 進駐軍が臨時飛行場として使用
1949年04月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
軽井沢物語
軽井沢町誌
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地


コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) [├国内の空港、飛行場]

   2015年3月 訪問  

無題b.png
撮影年月日1947/08/13(USA M407 176)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

名門ゴルフ場建設

長野県の軽井沢駅北西約2kmにある「旧軽井沢ゴルフクラブ」。

このゴルフ場建設のいきさつについて、次のように記されていました。

 「大正八年にゴルフ場建設の気運がもり上がり、徳川慶久・田中寛・西巴清・ライフスナイダーなどによって建設計画とクラブ規則の原案がつくられた。場所は大隈別荘付近の離山中腹からふもとが候補にあがったが、野沢源次郎が敷地を提供することになって、離山北側の一帯に決まった。(中略)
マニラのプロゴルファーであったニコルスを招いて現地調査をして、赤旗をグリーンに立て、白旗をティーに立てて大体の設計を行った」(田中寛氏の文より) 大正十年七月にサント・グリーンの六ホールと野芝のフェアウェーができあがり、十一年に九ホールが完成した。(中略)
十三年にはクラブハウスが完成しゴルフを楽しむ人が増え、それまでのテニスと野球が中心であった軽井沢のスポーツに新しい時代をもたらした。昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場ができても、いまでも旧ゴルフ場として多くの会員に親しまれている。」(避暑地軽井沢84p)

今でこそ軽井沢にはたくさんのゴルフ場がありますが、このゴルフ場がルーツだったんですね。

GOLF CORSE RANKING CLUBというサイト によりますと、

当ゴルフ場は「大正8年(1919年)開場の旧軽井沢にある名門会員制ゴルフ場」と紹介されており、

「歴史と伝統のある長野県名門ゴルフ場ランキング」で堂々第一位に輝いています。

因みに2位は、上の史料で「昭和八年に鉄道の南に十八ホールのゴルフ場」として登場する新軽井沢ゴルフ倶楽部。

1位が1919年、2位が1933年の開場であるのに対し、3位以降は1960年代~の開場です。

「当ゴルフ場は軽井沢のゴルフ場のルーツ」とか書いちゃいましたが、

軽井沢のゴルフ場のルーツどころか、長野県内でも突出して歴史のあるゴルフ場でした(@Д@)

新軽井沢ゴルフ倶楽部も「新」がつきますけど、非常に古いんですね。
 

飛行場化

そんな非常に歴史のあるゴルフ場を2つも擁する軽井沢ですが、

戦後進駐した中将の一言でこの町の情勢が大きく動くことになります。

 「昭和二十一年四月十八日に、県知事の案内で第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に来たのです。町内をあちこち案内した後、前田利為別荘で会食。この席上でアイケルバーガー中将が、ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしようと言ったのです。
 日本を占領した連合軍の主力は、そもそも戦闘部隊であった。長期間にわたって実戦部隊を第一線に送っておくと兵士の士気が低下する。この頃の飛行機はプロペラ機なので米国本土まで時間がかかるし、その輸送経費も高くつく。そのために、将兵を休養させるレストセンターを軽井沢に作ったのだろう。」(軽井沢物語362~363p)

軽井沢が日本駐留米軍の保養地とされたのですね。

こうして軽井沢には常時200~300名の米兵が滞在したのだそうです。

一般の兵士は軽井沢まで列車でやって来たため、軽井沢駅には占領軍専用のRTO(鉄道輸送事務所)が設置され、

改札口も一般乗客とは区別されました。

そしてこの「軽井沢のレストセンター化」は、

軽井沢にあった2つの名門ゴルフ場の運命にも大きな影響を与えることになります。

 
 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し」(避暑地軽井沢154p)

ここで「新旧ゴルフ場を接収」とあります。

これは先程から出ている新軽井沢ゴルフ倶楽部と旧軽井沢ゴルフクラブを指します。
新ゴルフ倶楽部は軽井沢駅の南側に、そして旧ゴルフクラブは駅の北側にありました。

どちらも米軍に接収されてしまったんですが、両者の扱いには大きな差が生じました。

 「新ゴルフ(軽井沢ゴルフ倶楽部)は、昭和二十六年十月三十日に米軍の接収が解除となり、翌年四月一日より同倶楽部に引き継がれた。「コースは六年間の接収中、進駐軍において相当の手入をなし居たため、引き継ぎの際は戦争直前に比するも満足なものでありました」と会員総会で報告している。米軍が管理、維持をきちんと保ってくれていたので一流のゴルフコースとなっていたのである。」(軽井沢物語403p)

新ゴルフ倶楽部の方は接収中に米軍が一流のゴルフコースとして管理していたんですね。

では旧軽井沢ゴルフクラブはというと-

 「旧ゴルフ場は放牧場として利用された。旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。」(避暑地軽井沢154p)

なんと非常に歴史のある名門ゴルフ場が放牧場となり、しかも6番コースが飛行場になったのです(@Д@)

 「この旧ゴルフ場は米軍が接収して、第一騎兵師団の放牧地となっていた。クラブハウスは馬小屋として使用され、グリーンは荒れ果てている。」(軽井沢物語391p)

「旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで造られた。」(軽井沢という聖地102p)

新ゴルフ場とは極めて対照的に、旧ゴルフ場の方は散々な使われ方をしたのですね。

創立当初のメンバーには貴族、政財界等、当時の上流階級の人々が名を連ね、後の昭和天皇もプレーされました。

そうした方々もきっとご利用になられたであろう超名門ゴルフ場のクラブハウスが、

こともあろうに馬小屋って。。。(;´Д⊂)

 
余談ですが「思い出のアルバム軽井沢」95pには、

商店等がずらりと並ぶ軽井沢本通りを馬に乗って闊歩する騎兵将校の写真が掲載されています。

6万坪の旧軽井沢ゴルフクラブに対し、新ゴルフ倶楽部は30万坪もありました。

米兵さんにとって格式は関係なくて、広々としてる方でプレーしたかった。ということなんでしょうか。


飛行場としての6番コース

旧軽井沢ゴルフクラブが飛行場になるまでのいきさつを概観したところで、

当ブログ的本題である6番コースの飛行場化についてアレコレ考えます。

すっかり長くなってしまいましたが、ここまでは前フリです(キッパリ)。


前述の通り複数の史料の中で、「6番コースが飛行場となった」と繰り返し出てくるんですが、

実は旧軽井沢ゴルフクラブはコースレイアウトの大幅な変更を経ています。

現在は全12ホールで、6番は敷地の最も南東に位置しており、コースは東西方向なんですが、

18ホールだった時代があり、その頃の6番は敷地のずっと北側にあり、コースはほぼ南北方向でした。

また国土地理院の航空写真で年代を追ってコースレイアウトを見てみると、

その後も細かいレイアウトの変更があったように見えます。

一体ドコの6番コースなの?(゚Д゚;≡;゚Д゚) 

という話になっちゃうんですが、

軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)1988年3月31日 394pには六番コース」とあり、

2012年5月1日発行の軽井沢という聖地102pにも現在の六番コース」とあります。

2つの史料にわざわざ「現在の」と付け足されているのは、過去に変更があったという背景を含んでいるんでしょうね。

国土地理院の航空写真で1988年以降のコースレイアウトを見ていくと、現在と大きな変更は見られません。

ということで、文字通り現在様々なサイトで紹介されているコースレイアウトをそのまま使えるのだと思います。


旧軽井沢ゴルフクラブが戦後飛行場になったことは、検索すると幾つかのサイト様がヒットするんですが、

「なんでわざわざここのゴルフ場を飛行場にしたの??」という尤もな疑問が見られます。

旧軽井沢ゴルフクラブは離山の麓にあり、

地形図で確認するとすぐ分かるのですが、三方を山に囲まれており、

素人目にも飛行場にするには窮屈なエリアに見えます。

新軽井沢ゴルフ倶楽部の方がまだ周辺が開けていて、敷地も広々しており、こっちの方がよっぽど飛行場っぽいです。

町誌は「旧ゴルフ場を飛行場とした」ことについては記しているんですが、

「なんでわざわざこっちを??」という素朴な疑問については特に記していません。

ここから先は全くの憶測なんですが、こんな一文があります。

 「アメリカ軍は十一月九日の千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収し、万平ホテルは第八軍が接収して、専用ホテルとして使用を始めた。別荘も三六軒接収してアメリカ兵が使用した。」(避暑地軽井沢154p)

地元の方にとっては言わずもがななんでしょうが、軽井沢の中心は古くから旧ゴルフ場のあった軽井沢駅の北側であり、

そのため将校や一般兵が接収した別荘やホテル、その他諸施設はいずれも駅の北側に集中していました。

上の史料に登場するホテルも、いずれも駅の北側にあります。

特に進駐軍の使用した重要施設としてしばしば史料に登場する万平ホテルは、

旧軽井沢ゴルフクラブから僅か1.5kmに位置していますから、

東京からヒコーキでやって来た将校は、到着後すぐに最寄りの施設に入ることができました。

ということで、「諸施設のすぐ近くだから」という利便性から旧ゴルフクラブが選ばれたのではないでしょうか

(個人の感想です)。


6番コースがいつ飛行場になり、いつまで飛行場だったのかについて、明記している史料は見当たらないんですが、

「軽井沢をレストセンターにしよう」という話があったのが1946年4月18日。

千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収したのが1946年11月9日。

ということで、6番コースを飛行場化したのは、早くても1946年11月か12月ではないかと。

いつまで飛行場だったかについては、有力な情報があります。

「昭和23年5月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)684p(年表)

後述しますが、6番コースでヒコーキ事故が起きてしまったため、

米軍は6番コースの使用を止め、代わりに二十間道路を飛行場として使用します。

昭和23年5月から二十間道路を使用していますから、6番コースの使用はそこまでということに。

ということで、米軍が6番コースを飛行場として使用していたのは、最大でも

1946年11月~1948年5月までの1年6ヵ月間ではないかと思います。


上の写真は1947年8月13日撮影で、おおよそ米軍が飛行場として使用していた頃ではないかと思います。

先頭のグーグルマップは、この航空写真を元に6番コースを作図したものです。

現在とほぼ変わらないですが、当時の6番コースは東端がホテル鹿島の森の敷地まできていたんですね。

端から端まで目いっぱいで約450mの直線がとれる大きさです。

当時のコースにどの程度の勾配があったかは不明なんですが、

グーグルアースで確認してみたところ、現在は西端から東端にかけて、約8mの下り勾配になっております。

因みに18ホール当時の6番コースだと、20~30mもの高低差があり、

この点からもやっぱり現在の6番コースを使用するのが妥当ではないかと思います。


ところで「旧ゴルフ場」の各コースレイアウトを見ると、

6番よりもっと飛行場向きに思えるコース(直線的でより長いコース)があります。

そのため、「どうしてもっとマシなコースを使わなかったんだろう?」

という、これまた素朴な疑問がネット上でも散見されます。

これもオイラの推測なんですが、そもそも旧ゴルフ場は米騎兵師団の放牧場とされ、その一部が飛行場となりました。

放牧場ですから、かつてのゴルフ場では、馬たちが自由に走ったり草を食べたりと、

敷地内の思い思いの場所でのびのび過ごすはずです。

6番コースはゴルフ場全体の敷地の中では、南東の端っこに位置しています。

「ゴルフ場を放牧場とし、その一部を飛行場にしよう」と計画した場合、

ゴルフ場敷地の一角に飛行場施設を押し込めるというのは、安全管理上、理に適っていると言えるのかも。


セスナ問題

東京から飛来してきた将校が使用した機体は「セスナ」であったと、史料にはしばしば「セスナ」が登場します。

「セスナ」といえば、誰しも高翼、単発のいかにも軽快なプロペラ機を連想すると思います。

あの誰しも思い浮かべるであろうプロペラ機、

厳密にはセスナ社が製造した「セスナ172」(現・スカイホーク)のことです。

「空のファミリーカー」をコンセプトに開発したモデル172が爆発的なヒットを飛ばし(ヒコーキだけに)、

これが余りにも有名になり過ぎたが故に、社名の由来は創業者(クライド・セスナ)であるにもかかわらず、

どのメーカーだろうが、高翼単発機全体の代名詞として(なんなら小型機全部ひっくるめて)、

猫も杓子も「セスナ」と呼ばれるようになってしまいました。


「セスナ172」の販売が始まったのは1956年なので、

小型機を見ると、「あ、セスナ!」という現象が始まったのは、特に日本ではこれよりも後ということになります。

軽井沢で進駐軍が飛び回っていたのは1940年代なので、

当時軽井沢の方々が小型機を見ても「あ、セスナ!」現象は起こらなかったはずなんですが、

オイラが軽井沢記事を作るために参考にさせて頂いた書籍のうち、

「セスナ」に触れている本の発行年は全て1970年代以降であり、「あ、セスナ!」以降です。

各書籍の中では、軽井沢進駐軍関連の記述で盛んに「セスナ」が登場します。

米兵が「これはセスナ社のヒコーキだYO!」と教えてくれたのを受けて

「セスナ」と記されているなら間違いないんですが、

資料が何を根拠に米軍機を「セスナ」と称しているのか不明のため、

史料に「将校はセスナで飛来した」と記してあっても、「ソレ、ホントにセスナなん?」

と疑ってかかってしまうという、ちょっと困った問題が生じます(o ̄∇ ̄o)

地元写真店にお邪魔した際、占領当時の米軍機が映っている写真が是非とも見たかったんですが、

残念ながらそういう写真はないそうです。


ヒコーキは標高が高くなるごとにエンジン、プロペラ、翼の性能が落ちてしまい、

結果としてより長い滑走路が必要となります。

当時の6番コース、最大でも長さが約450mしかないので、この滑走路の短さから運用機は、

必然的に大型機ではなく、連絡機等の小型機になるはず(大型になるほど長い滑走路必要)。

セスナ社は1920年代、1930年代には既に現在の「セスナ」に似た高翼、単発機(モデルAとかDC-6とか)

を開発しており、軍用機も数多く制作していました。

それで、軽井沢に将校を運んだヒコーキが本当に「セスナ」であった可能性は大いにあると思います。

ということで、6番コースを飛行場にして将校を運んでいたんですが、

前述の通りそれも長くは続きませんでした。

 
 「セスナ機がゴルフ場に突込み、引き出すという事故もあった(旧ゴルフ場は昭和二四年四月接収解除となる)。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

 「旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故があってから、南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場となった。」(避暑地軽井沢154p)

セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故が発生してしまい、

代わりに南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場として使用されることになったため、

具体的な日付は不明なんですが、ゴルフ場の飛行場は短命に終わることとなります。

この臨時飛行場については次の記事で取り上げます。


6番コースを飛行場にしていたのは、最大でも1年6カ月だったんですが、

6番コースを飛行場として使用するのを止めてから、旧ゴルフ場そのものが程なく接収解除となました。

では返還後の旧軽井沢ゴルフクラブはどうなったのでしょうか。

史料にこうありました。

 「放牧場だった旧ゴルフは、いつから再開できたか。二十三年九月に接収解除となった。(中略)このゴルフコースでプレーしだしたのは二十四年六月二十日。敗戦から四年目の夏に、早くもゴルフを楽しむ一握りの人たちがいたのだ。」(軽井沢物語392p)

 「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足30年から再建に着手し、現在一二ホール。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)685p(年表)

接収解除となった旧軽井沢ゴルフクラブは、再びゴルフ場になりました。

接収解除からプレー再開まで半年以上を要しているのはもしかしたら、

放牧場として荒れ果てた状態からの復旧に時間がかかったからかも。


実は旧軽井沢ゴルフクラブの接収解除時期について、

「軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」354pと、685p(年表)では、
「昭和二四年四月」、「昭和24年4月1日」とあるのに対し、

「軽井沢物語」392pでは、
「二十三年九月」とあり、食い違いが生じています。

但し、「軽井沢物語」の方は、二十三年九月に接収解除したことに続けて、時期は記されていないんですが、

地主がゴルフ場を株式会社として発足させ、次いでプレー再開の運びとなったことを記しています。

改めて町誌685p(年表)を見てみれば、

「昭和24年4月1日、 旧ゴルフ場、接収解除(米八軍飛行場)百名の有志によって株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部として再発足」

とあり、4月1日は接収解除後、再発足した日とも受け取れます。

そんな訳で、オイラとしましては、

昭和23年9月 接収解除→昭和24年4月1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足→同6月20日 プレー再開

ということなのではないかと。

余談なんですが、進駐軍の軽井沢についての印象が記されていました。

「九月末には日本の地方の農民生活を報道するためにアメリカ陸軍写真班(報道班員)二〇人余が万平ホテルに宿泊した。この時対応した外務省軽井沢出張所の鶴見領事は、アメリカ軍人の軽井沢の印象について
「写真班に与えた印象はすこぶるよい。雄大な浅間高原の風景はカナダによく似ている。まして六〇年来イギリス・アメリカの先輩たちによって開かれた国際都市軽井沢の伝統が現在も清らかに保たれ、知有の外人の多いこと、町民が外国人にすっかり慣れている等、長い戦歴から急転して美しい郷里へ帰った喜びがある」
とアメリカ軍人たちの印象をまとめている。とくに国民学校児童たちの「ジープの兵隊さん」という可愛い歓迎がアメリカ兵を喜ばせた。(避暑地軽井沢154p)

D20_0014.jpg

     長野県・旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース         

旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース データ
設置管理者:米軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町旧道
座 標:N36°21′30″E138°37′22″
標 高:963m
滑走路:450mx45m
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1919年    ゴルフ場建設の気運がもり上がり、建設計画、クラブ規則原案がつくられる
1921年07月 6ホールとフェアウェーができあがる
1922年    9ホール完成
1924年    クラブハウス完成
1946年04月 18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将、軽井沢視察。
    11月 9日、千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収。その後6コースの飛行場化
1948年05月 二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
    09月 接収解除?
1949年04月 1日 株式会社旧軽井沢ゴルフ倶楽部発足?
    06月 20日、ゴルフ場でプレー始まる

関連サイト:
ブログ内関連記事■       

この記事の資料:
軽井沢物語
避暑地軽井沢
軽井沢という聖地
軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)
思い出のアルバム軽井沢


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の5件 | - ├国内の空港、飛行場 ブログトップ