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第一航空学校跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2019年7月 訪問  



無題9.png
撮影年月日1944/10/16(8911 C1 7) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
 
千葉県船橋市に大正時代、「第一航空学校」が開設しました。

元は宗里悦太郎氏が現在の横浜市鶴見区、潮田の埋立地に設けた飛行学校だったのですが、

千葉に引っ越してきたものです(下記リンク参照)。

潮田の埋立地は出来たてほやほやで、すぐには建物建設ができませんでした。

地盤が締まるまでの3年間なら。という条件で飛行場として使っていたのでした。

この件については、鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号の中に詳しく記されています。

以下引用させて頂きます。


大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。

これは潮田で活動を開始する前の約束だから、すでに手を打ってあった。

船橋での発展はさらに目ざましいものがあったが、

ここでは経営者・宗里悦三郎(ママ)のその後について簡単に書き留めておきたい。

船橋へ移ってから九年後の昭和九年五月二日、四十八歳の若さで病没した。

それまでに第一航空学校は潮田からはじまって四十一人の練習生を卒業させ、

現在在籍者九人を合わせて五十人の技術者を養成した。

その後、昭和十四年に戦争の拡大と共に民間航空は解散を余儀なくされるのだが、

それまでは未亡人宗里そのを中心に団結して航空事業を支えたのである。


ということで、横浜から船橋に移ったということは分かっていたのですが、

船橋のドコに移ったのか、具体的な位置が長いこと不明でした。

その後某サイト様に、昭和7年(1932年)10月30日発行の当地の地図が掲載されているのを知りました。

丁度先頭のグーグルマップの辺りに、「飛行學校」と記されていました。

「郷土つるみ」によりますと、飛行学校は大正15年~昭和14年まで存続していたので、

地図の「飛行學校」とは時期が重なっています。

しかも宗里氏本人がご存命中に発行された地図です。

実は当時の東京湾沿岸には、飛行学校が幾つもありました。

地図には校名の記載がなく、ただ「飛行學校」とだけ記されているので、

もしかしたら、宗里氏の第一航空学校とは別のものである可能性もあります。


この件については、

WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校(下記リンク参照)の中で、

「昭和11年頃の東京湾沿岸には」として、当時あった飛行学校が列挙されているのですが、

船橋市で挙げられているは、当第一航空学校だけでした。

ということで、地図に記載のある「飛行學校」=「第一航空学校」である可能性が高いと思います。

実はこの地図を見ても、「ここからここまでの範囲が飛行場」と明確には分かりません。

先頭のグーグルマップは、この地図から飛行場として使用できたであろう最大の広さで作図したものです。

実際にはもっと狭かったかもしれません。

上に貼った航空写真は、地図発行から12年後、飛行学校閉鎖から恐らく5年後のものです。

千葉街道が走り、建物が立ち並び、とても飛行場には見えないのですが、

地図発行の昭和7年当時は細い道が幾つかあるだけで、この範囲に建物も千葉街道もありませんでした。

敷地の大きさは、最大で485mx215mあります。

横浜の飛行場(636.3m×545.4m)よりはちょっと狭いんですが、この広さなら十分使用可能なのではないかと。


DSC_0018.jpg
陸橋の上から(先頭のグーグルマップ赤マーカー)。

この方向に飛行場があったはずです。




     千葉県・第一航空学校跡地         
第一航空学校跡地 データ
設置管理者:宗里悦太郎
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県船橋市宮本3丁目
座 標:N35°41′26″E139°59′39″
標 高:2m
着陸帯:485mx215m?
方 位:12/20
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1926年02月 横浜より移転
1934年05月 2日 宗里氏病没
1939年   解散

関連サイト:
WEB版 航空と文化/空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校 
埼玉県、千葉県を周った話 
宗里飛行場(第一航空学校)跡地 

この記事の資料:
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号


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