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佐藤章飛行士発着跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2018年6月 訪問  



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測量年1925(50000 61-8-3 六郷)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

↑1925年の地図、画面中央付近が碑の位置です。
秋田県仙北郡仙南村出身の「佐藤章(要蔵)」という人物がおりました。

彼は民間飛行家の草分的存在であり、郷土の英雄でした。

佐藤氏については、六郷町史334~339pにかけて詳しい記述があります。

以下抜粋してご紹介させていただきます。

飛行家佐藤章と六郷

大正八年(一九一九)、郷土出身初の飛行家である佐藤章によって六郷町の上空に飛行機が飛ぶこととなった。ライト兄弟が飛行機というもので空を飛ぶことに成功してから、まだ一六年しかたっていないころのことである。

本県初の飛行家佐藤章は明治二二年(一八八九)一〇月、仙北郡金沢西根村字菻沢(現在仙南村)の大地主佐藤平治の四男として生まれた。
明治四一年(一九〇八)横手中学校(現在の横手高等学校)に入り、はじめは軍人志望であったが、のちに民間飛行家の道に進むことになる。大正五年(一九一六)八月には帝国飛行協会の第二期練習生募集に合格採用となり、翌年には初飛行をしている。
そのうち、日本で最初に飛行機の制作をはじめた中島知久平の中島飛行機製作所という会社に入った。佐藤章については赤川菊村の『飛行詩人佐藤章』によると、
「昨今は章式宙返りの飛行の稽古でなかなか愉快を極む。堕ちもせず怪我もせず宙返りなざあ案外ラクなものです。」
と角間川の親友、のちに後援会の発起人にもなっている荒川新太郎に手紙をかいてよこしている。そのころの飛行機は全く命がけで、いつ墜ちるかという時代である。そしてまた、『今年は是非郷土訪問飛行を仙北と秋田の二ヶ所でやってみたい』とももらすようになる。まもなく、大正八年(一九一九)九月には東京大阪間の郵便飛行という競争が大大的に行われることになって、郷土訪問飛行はそれ以後に行うこととなった。
いよいよ一昨年以来の懸案であった佐藤章の郷土訪問飛行を実現することが決定し、佐藤章の郷里にもっとも近いところで、六郷町の明天地野が飛行場としてえらばれることとなった。六郷町の友人京野一郎、小西敬一朗をはじめ角間川の荒川新太郎、千屋の坂本龍太郎、そして高梨の池田文一郎すなわち同年代五人がさっそく発起人となって後援会を組織し、(中略)趣意書を配布して広くよびかけた。(中略)

 佐藤章の出生地金沢西根村(現仙南村)では協賛会をつくり、村長照井八十八が会長となった。飛行会場となる明
天地野をもつ六郷町ではことのほかの力の入れようで、町長後藤寅之助(宙外)が六郷町協賛会の会長となり、救護
班には仙北郡の医師会長でもある高橋軍平(午山)が引き受け、そのほか軍人分会、青年団がこぞって援助するとい
う万全の態勢をととのえた。
 しかし、当時の飛行機はまだまだ幼稚で天候に左右されることが多く、そのため東京大阪間郵便飛行が延期となり
訪問飛行の日程をきめることができず、後援会の人々をいらいらさせた。やっと一〇月二二日に郵便飛行が行われ、
それに成功した佐藤章は、二転三転の末、一一月の九~一〇日の両日を郷土訪問飛行挙行の日と決定した。飛行機は
東京から飛んでくるのではなく、千三百余円をかけて貨車で飯詰駅へ送られ、そして明天地野の格納庫にはこばれた。
章はじめ栗原技師ら一行六名は飯詰駅から近い章の菻沢の生家によることもなく、まっすぐ六郷に向かい、宿舎の梁
田旅館に入った。
 飛行当日の一一月九日は前夜までの雨も止んで、寒風が吹いたが、まずまずの飛行日和となった。今日の明天地野
は戦後、開拓農家が入りすっかり美田と化しているが、当時は草の生えた全くの原野であった。見物の人々は朝早く
からその会場につめかけた。観衆は数万とも六万ともいわれている。会場は東南北が観客席にあてられている。飛
行機はさきに郵便飛行で優勝した中島式四型で、プロペラの始動回転は手動によって行われたのではなかったろう
か。

 午前一一時、草野生えたでこぼこの大地を滑走して飛行機は浮かび上がった。
六郷町上空から金沢西根、角間川、金沢、横手と一周する。午後は大曲、高梨、千屋方面を歴訪、六郷の上空に舞いもどって、宙返りの妙技を三回演じた。滑空時間は、わずか二十分であった。
この夜、六郷町では歓迎の提灯行列と仮装行列を行った。当時を記憶する人には、前夜祭で行われたともいって
いる。
飛行機の模型を頭にかぶった日本一の桃太郎が仮装の一等賞となった。
大正一〇年(一九二一)、佐藤章は後援会はじめ秋田県民一体となって一万五千円を投じて制作したアキタ号に搭乗
して、ふたたび秋田市と六郷町明天地野に訪れる予定であった。
 しかし同じ年一一月三日、明治の佳節の日、千葉県津田沼の上空で突風にあい墜落、惜しくも惨死した。二八歳で
あった。間もなく完成した「秋田号」に佐藤章は乗ることができず、代わって大場藤治郎飛行士が大正一三年(一九二四)八月二五日、仙台より 田沢湖上空に出て 午後二時二五分、六郷明天地野に 着陸した。のち、「秋田号」は 陸軍に 寄附された。
後援会の友人たちは彼の偉業をたたえ、朝倉文夫製作による胸像を千秋公園に建立した。 
以来、六郷町と中央の航空界と縁ができて、菊池・飯沼飛行士それに伊藤貢飛行士らが次々と飛来している。
 
同町史には、2枚の写真が掲載されています。

どちらも時代を感じさせる複葉単発機の前に人物が映っているというもので、

キャプションにはそれぞれ、「秋田号」郷土訪問飛行(大正13年)、伊藤飛行士明天地野に飛来(中央栗林慶治)

とあります。

訪問飛行成功のために尽力した郷里の親友らが、氏の死後に胸像建立にまで携わる-

氏の人柄が偲ばれますね。

当地は佐藤氏によるたった一、二度のヒコーキ発着があったに過ぎないのだと思っていたオイラは、

ここを飛行機にまつわる「場所」のカテゴリーに入れるつもりだったのですが、

上述の郷土誌によれば、佐藤飛行士の飛来以降、中央航空界との縁ができ、

そうそうたる飛行家の面々が次々飛来したと記されています。

ある程度の期間に渡り、何度かの飛行が行われた場所であることから、

ここを飛行場の一つにカウントすることにします。

そして1945年、佐藤飛行士が降り立ったすぐ東側に陸軍の「六郷飛行場」が建設されたのでした。

この「六郷飛行場」、きちんと滑走路が建設されて如何にも「飛行場」という感じなんですが、

結局軍機が飛ぶことはなかったことからすると、大正時代から明天地野を見てこられた地元の方々にとっては、

もしかしたら、佐藤飛行士の発着地点こそ、「飛行場」らしいのかもしれません。


DSC_0165.jpg
「郷土の先人 佐藤章 郷土訪問飛行機発着の地」

佐藤飛行士の降り立った場所は、「六郷飛行場のすぐ西側」ということしか長いこと分からなかったのですが、

秋田魁新報2008年8月12日の記事に、

「佐藤章の功績をたたえ、地元の集落会館前にある『発着の地』の標柱が、

土地と飛行機とのかかわりをわずかにしのばせる。」とありました。

ところがその碑の位置がどう調べても分からなくて、

六郷図書館様のお陰でやっと見ることができました。

先頭のグーグルマップに碑と六郷飛行場の位置を示してありますが、本当にすぐお隣でした。


DSC_0168.jpg
裏面に碑文が彫ってあります。

(全文)この地は 大正時代に偉大な業績をあげ 日本の名飛行士とうたわれた旧金沢西根村出身の一等飛行機操縦士 佐藤 章(要蔵)氏が 大正八年及び十年に郷土訪問飛行の際に利用したゆかり深い飛行機発着の地である

…野暮なことは申しますまい。


DSC_0180.jpg
碑の西側にカメラを向けるとこんな感じ。

画面向かって碑の左側には末期に陸軍の「六郷飛行場」が建設されました。

佐藤飛行士についての前述の町史では、「会場は東南北が観客席にあてられている。」とありました。

ちょうど「六郷飛行場」滑走路を背にして碑の辺りから奥に向かって観客席があり、

碑の右側に開けている部分で佐藤氏のヒコーキが発着したのではないかと思うのですが。。。


DSC_0187.jpg
画面右側から奥に伸びる道をまっすぐ500m程進んで右折し、約100m進んだ所に碑があります。

ということで、画面右側で飛んでいたはずです。

カメラ、もう少し右に振ればヨカッタ。。。




     秋田県・佐藤章飛行士発着跡地         
佐藤章飛行士発着地 データ
所在地:秋田県仙北郡美郷町六郷
座 標:N39°24′23″E140°34′34″
標 高:74m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1919年11月 9、10の両日、郷土訪問飛行実施
1921年11月 3日 「アキタ号」にて再び郷土訪問飛行を計画していたが、飛行機事故
1924年08月 25日 「秋田号」が大場飛行士によってに飛来
1945年05月 陸軍六郷飛行場造成開始

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この記事の資料:
六郷町史
秋田魁新報2008年8月12日


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