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東京都・東京市飛行場(計画) [├場所]

   2017年11月 訪問  



無題.png
1944年11月(8922 C4 65) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


浚渫土でできた埋立地

東京湾は早くも江戸時代から大規模な埋め立てが始まっており、

明治期には、大きな船が入れるよう浚渫も行われていました。

大正時代に入り、経済界はより大型船の航行を可能にしたいと考えていたのですが、

東京湾は遠浅のため、大規模な浚渫が必須であり、

そのためには莫大な費用がかかることから計画はなかなか進みませんでした。

そんな頃に関東大震災があり、陸路が寸断されたため、

2,000tクラスの船が東京湾から支援物資を運んだことがあります。

この出来事は、「満潮時の間隙をついて東京湾に進入した冒険的な陸揚げ」的な表現で語られています。

当時の東京湾は、2,000tクラスの船を航行させることさえ、そのくらい大変だったのでした。

そしてこの一件が停滞を打開する契機となり、1931年「東京港修築事業計画」が策定されました。


一方で、東京湾は古くから豊かな漁場であり、沿岸漁村では江戸前漁業が盛んに行われていました。

このため、「浚渫して港湾施設を整え、大型船を受け入れ可能にしよう」とする開発推進派と、

「漁場が台無しになり死活問題だ」とする地元漁民がぶつかることになります。

紆余曲折があった後、最終的に1万トンクラスの船の運用を目指して東京湾の浚渫が始まり、

浚渫土を埋め立て材とした埋立地が造成され、

こうして竹芝桟橋背面・芝浦艀溜背面・豊洲物揚場背面、9号地・8号地の一部が終戦までに完成しました。

現在「夢の島」として知られている「砂町地先の埋め立て地」も同様の経緯を経てできたものです。

「夢の島」は個人的に「ゴミの島」というイメージが強く、

てっきり海にザバザバとゴミを投棄してできたんだとずっと思っていたんですが、

浚渫事業でできた島だったんですね(///∇///)

ところで夢の島は江東区にありまして、

後述しますがこの夢の島の少し西側の港区から横浜に至る「京浜運河計画」というものがあり、

これもやはり浚渫により大型船の航行、停泊を可能とすることを目指したのですが、

同時に浚渫土を利用して埋立て地を造成し、

その埋め立て地を臨海工業地帯として活用することがセットになっていました。

一方で、夢の島のある江東区はこの計画に含まれておらず、

せっかくできたこの砂町地先の埋め立て地をどう活用しようか、という話になったのでした。


 
飛行場を造ろう!

ここで話は一旦埋め立て事業とは離れるのですが、

当時は「都市計画地方委員会」という委員会(戦前の旧内務省出先機関)が全国の都道府県に設置されており、

都市計画業務を担当していました。

東京にも「東京地方委員会」があり、同委員会が入手した「ニュー ヨークの地方計画(1929年)」によれば、

ニューヨーク地方計画区域内にはなんと16もの飛行場があり、更に16を加える計画であるとのことでしたΣ(゚Д゚;)

それまで同委員会では、「一都市一飛行場で十分」との考えだったようですが、

ニューヨークの計画に倣い、飛行場計画が促進されることになりました。

余談ですが実は羽田飛行場も、「各国は国都に飛行場を完備しているのに、我が国にそれがないのは遺憾である」

とする当時の帝国飛行協会副会長の嘆願が1923年に国会に提出されたのが建設のきっかけでした。

東京とその周辺の飛行場建設には、各国の動きを強く意識していた様子がうかがえます。





このマップは1931年当時の東京周辺にあった飛行場の分布を示したもので、

「首都圏における飛行場と都市計画 - 土木学会」を参考にさせて頂きました(下記リンク参照)。

いずれも東京駅からの距離ですが、東京都の羽田飛行場(13.5km)、同立川飛行場(33km)、

埼玉県の所沢飛行場(29km)、神奈川県の追浜飛行場(41km)、

千葉県の木更津飛行場(34km)、同下志津飛行場(35km)となっています。

当時の「東京に近い飛行場」は、羽田以外だとどこも約30~40km離れていたのですね。


東京地方委員会の立てた案は、「都心から20km付近に6飛行場」というものだったのですが、

その候補地選定の過程で、冒頭の「浚渫で生まれた砂町地先の埋め立て地活用法」として、

真っ先に挙がったのが飛行場でした。

ということで、ここでやっと出だしの浚渫計画と話が繋がるのですが、

現在我々が「夢の島」として知る埋立地には飛行場が建設されることになったのでした。




青→1931年当時の既存飛行場
赤→選定された6候補地

余談ですが、このマップは同委員会の「都心から20km付近に6飛行場」という構想に従い、

選定された候補地を示したものです。

当砂町、東京羽田(現・羽田空港)拡張、調布、浦和付近、朝霞付近、船橋付近の全6力所でした。

その後船橋は逓信省により「松戸飛行場」が建設され、

東京羽田飛行場は1939年、隣接地を買収して拡張。十字型2本の滑走路を新設し、

1938年に東京(砂町)、調布、浦和の3飛行場案が承認されました。

調布飛行場は陸軍の防空拠点として建設が推進され、1941年に竣工。

浦和飛行場は首都北方の防空上の役割を期待されていたのですが、結局実現しませんでした。

そして朝霞は不急であるとの理由で除外されました。

朝霞市にある朝霞駐屯地には、「ここは元日本陸軍の飛行場だった」というまことしやかなウワサがあるのですが、

こうして実際に建設計画の候補地になったことも、もしかしたら関係しているのかもしれません。

周辺には陸軍の飛行場が多いですしおすし。

ということで6飛行場が全て建設されたら、東京周辺には軍民合わせて11の飛行場ということだったのですが、

埼玉の2飛行場計画が白紙となったため、9飛行場になったのでした。


東京市飛行場建設計画



赤→東京市飛行場
紫→羽田飛行場

浚渫事業でできた砂町地先の埋立地を飛行場にしよう。という計画は、

1938年(昭和13年)に正式決定しました。

飛行場の名称は「東京市飛行場」で、東京羽田飛行場(現・羽田空港)と同じく水陸両用の飛行場とする計画でした。

計画によれば総面積は約251haで、3本の滑走路を建設することになっていました。

ちなみに当時の東京羽田飛行場は53haで、滑走路も1本でした。

また、飛行場新設にあたっては各国の飛行場を比較検討しており、

当時世界最大級といわれたドイツ・ベルリンのテンペルホーフ空港が140haでしたから、

それよりずっと大きいです。

この飛行場計画がいかに野心的なものか、そして委員会の本気度がうかがえます。


東京羽田飛行場は1931年に開場したのですが、

東京市飛行場建設が決定された1938年当時の羽田飛行場は逓信省管理の民間用飛行場で、

国内定期路線の他、朝鮮、中国への路線を開設していました。

東京羽田飛行場と東京市飛行場の距離は12km。

東京地方委員会の「東京にとにかくたくさん飛行場を!」という意図は分かるとしても、

既に当時立派な国際空港になっていた東京羽田飛行場がありながら、

そこから12kmの場所に敢えてもう一つ新規飛行場を建設したのでした。



「京浜運河計画」により拡張に制限のついていた東京羽田飛行場

敢えてこの場所に新規飛行場を建設するのには、ちゃんとそれなりの理由がありました。

まずは都心部からの距離です。

東京羽田飛行場は東京駅から13.5km離れているのに対し、東京市飛行場建設予定地は東京駅から6.5kmです。

東京モノレールはまだ開業しておらず、

京急は今でこそ羽田空港への便利な路線ですが、

当時は「京浜電気鉄道穴守線」の名称で飛行場すぐ近くまで開業していたものの、

まだ東京からのアクセス便利な路線にはなっていませんでした。

そんな当時、「東京駅からたったの6.5km」という差は大きなものだったようです。


加えて、「京浜運河計画」の存在があります。

「京浜運河計画」とは、前述の通り大型船を航行させるための運河開削計画のことでした。

「京浜運河計画」は羽田飛行場開場よりずっと早い1911年に内務省から認可を受けており、

紆余曲折を経たのち、1939年東京府は総工費4,500万円をもって、

京浜運河開削と892haの臨海工業地帯用の埋め立て造成を着工しました。

この「京浜運河」は、当時本当に小さかった羽田飛行場をまるでグルリと取り囲むように設定されていました。

つまり、羽田はこれ以上の埋め立てによる拡張の余地はほとんどなかったのです。

前述の通り羽田飛行場は1939年に用地買収により拡張するのですが、

敷地いっぱいに800m余の滑走路を2本とるのがせいぜいという状況でした。

航空機の高速化、大型化に伴い、今後ますますより長い滑走路、より広大な用地が求められることは目に見えており、

これ以上拡張の難しい羽田では、帝都の空の玄関として十分機能させることは早晩困難になります。

ということで、より都心部に近く、しかも面積で羽田の約5倍、3本の滑走路を備えた東京市飛行場は、

羽田近傍に敢えて新規建設する意味のある建設計画なのでした。

着工が決まった当時は恐らく、「羽田ではなくこちらが今後の東京の空を担う大本命」と目されていたはずです。


首都の既存国際空港の拡張を阻害する形で設定され、正式に着工された運河、

そして大型船が通行できるよう浚渫した副産物として生まれた埋立地-

工業の発展が強く求められた当時の時代背景が垣間見えてきますね。



計画中止と終戦

1938年に建設が正式決定した東京市飛行場は、1939年7月いよいよ起工式の運びとなり、

1941年の完成予定を目指して埋め立てが始まりました。

ところが1937年の日中戦争勃発後、物資が不足し始めると、建設工事は滞ってしまいます。

計画はずるずると遅れてゆき、とうとう中止に追い込まれてしまいました。

「東京港史」によれば、全区域の50%が干潮時に1~3メートルほど露出する段階で工事は終了し、

そのまま終戦を迎えます。

申し遅れましたが先頭のグーグルマップの濃い紫は、1944年当時の写真で確認できる夢の島で、

薄い紫は、「東京都市計画 東京市飛行場平面図」から作りました。

この場所にこんな感じで飛行場を造ろうとしていたんですね~。

前述の通り、東京市飛行場の総面積は251haと各文献にあるのですが、

「東京都市計画 東京市飛行場平面図」の通りに作図してみると、面積は310haとなり、数字が合いません。

「東京都市計画 東京市飛行場平面図」では埋立地の外周にかなり太い縁取りが描かれていて、

もしかしてこれは護岸的なもので、「飛行場の有効面積には含まない」ということなのかもしれません。


一方東京羽田飛行場は1940年に用地買収による拡張、滑走路新設を経て、

日本海軍の「東京飛行場」として使用されるようになります。

羽田飛行場は運河計画のせいで埋立拡張ができないのは先に書いた通りなんですが、

海軍が権力を発動すれば、なんとかなったような気もします。

東京飛行場の埋立て拡張については、海軍がその必要を認めなかったのか、

物資が窮乏してそれどころではなかったのか、はたまた海軍より運河計画の方が強かったのか不明ですが、

結局羽田が埋立てて拡張されることはなく、終戦を迎えます。


戦後「夢の島」と名付けられたいきさつ

戦前から戦後にかけての都市計画の第一人者、石川栄耀が1946年に著した「都復興改造試案」の中で、

「将来の航空を考えれば、進駐軍が整備しつつある羽田の他に、砂町地先の海岸を埋め立てて飛行場を作り、

高速道路で都心と結ぶ必要がある」

と記しており、中止となった東京市飛行場計画の復活とも受け取れるのですが、

結局この島が飛行場となることはありませんでした。

そして「東京市飛行場」となるはずだった埋立地は、1947年の夏、海水浴場としてオープンします。

東京湾に、それも最奥の江東区に海水浴場があったなんてビックリなんですが、

高度経済成長期の前だからこそのアイデアなんでしょうね~。

「江東区南砂町地先」という味もそっけもない仮称しかついていなかったその島の海水浴場には、

「目指すはハワイのような夢のあるリゾート」として、「夢の島海水浴場」というステキな名称が与えられました。

戦後の窮乏期であったにもかかわらず、海水浴場は賑わいを見せていたそうですが、

度重なる台風被害と財政難から、わずか3年で閉鎖されてしまいます。

こうして東京湾に残っていた最後の本格的海水浴場は、「夢の島」という名前だけ残し、文字通り夢と消えました。

しばらく放置されていた夢の島でしたが、1957年にゴミの処分場となることが決定しました。

それまでの処分場だった8号埋め立て地(現・江東区潮見)が満杯になり、新たな処分場とされたものです。


戦後の羽田

余談ですが、戦後の羽田について。

前述の通り、「京浜運河計画」が羽田飛行場の拡張を阻んでいたのですが、

現在は埋立が進んでますよね。

沖合展開後の現在の羽田空港ABCの3滑走路は全て運河計画の範囲内になっており、

D滑走路はちょっと範囲にかかってるけどギリオッケーという感じです。

つまりこんな大規模空港、本来であれば造れっこなかったのです。

終戦と共に羽田飛行場は接収を受けるのですが、

この接収こそ、今日我々の知る巨大な羽田空港を形成する契機となりました。

連合軍の占領、接収はこの「京浜運河計画」という制限をいとも簡単にとりはらい、

もの凄い勢いで埋め立てを開始したかと思うと、終戦から10か月後には2,100mと1,650m、

2本のアスファルト舗装滑走路を新設したのでした。

余談ですが、「東京市飛行場」の総面積は約251haと計画されていたのは前述の通りなのですが、

連合国により埋立てられたハネダエアベースの飛行場面積は一挙に3.5倍に拡張してしまいましたΣ(゚Д゚;)

その面積は257.4haで、「東京市飛行場」の面積を上回っています。

当初の「京浜運河計画」では、横浜から始まった運河は、

(拡張させず小さいままの)羽田飛行場沖をかすめる様に通り越して、更に東に伸びていく予定だったのですが、

米軍による飛行場の大規模な埋め立て拡張により、横浜から伸びてきた運河は、

ハネダエアベースでぶつかって行き止まりみたいな格好になってしまいました。

こうして、羽田飛行場沖を取り囲む運河計画はなし崩しになってしまい、

1980年代に始まった羽田沖合展開事業を経て現在の姿に至ります。

「これ以上の拡張ができないから」と、近くに巨大飛行場の建設が始まり、それが完成すれば、

羽田飛行場は海軍の小規模飛行場として脇役になっていたはずです。

そして戦後は東京市飛行場より遠く、見劣りのする羽田飛行場は、もしかしたら閉鎖されていたかも。

ところがその巨大飛行場予定地は海水浴場を経てゴミの島となり、

羽田は制限が解かれ、利用者数、人気共に、世界屈指の巨大国際空港へと変貌を遂げることとなりました。

まさに塞翁が馬ですね。

(ワールドベストエアポート2017年:世界第2位、利用者数2016年:世界第5位)



DSC_0009.jpg

撮影地点・A


DSC_0017.jpg

撮影地点・B


一時は当時世界最大級のドイツの空港より1.8倍もの大きさを誇る飛行場が計画されていた夢の島。

日中戦争勃発とその後の物資窮乏から埋め立ては中止されてしまいましたが、

仮に着工があと1、2年早ければ、ひょっとすると今もここでヒコーキが飛び交っていたかもしれません。

都心から近く、アクセス抜群ですが、羽田でさえ騒音被害で地元と揉めましたから、

飛行場になったとしても、大規模な活用ではなく、調布飛行場的な位置付けになったかも。




     東京都・東京市飛行場(計画)      


東京市飛行場 データ
所在地:東京都江東区南砂町地先(現・江東区夢の島)
座 標:N35°38′58″E139°49′43″
標 高:10m
面 積:251ha(2,005mx1,770m・最大値)
滑走路:3本(敷地の広さからすると、最大2,500m可)
(座標、標高、長さはグーグルアースから)

沿革
1938年 建設決定
1939年 7月起工式。1941年完成予定の予定だったが、その後中止
1947年 「夢の島海水浴場」オープン
1957年 ゴミ処分場化決定

関連サイト:
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<参考20>  京浜運河構想から内湾漁業の終焉へ  
東京都臨海域における埋立地造成の歴史  
東京・夢の島、名前の由来は海水浴場 空港計画も  

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