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根岸氏と水産試験場のこと [├雑談]

~~前記事の続きでオイラの妄想を多分に含んだ長文です~~

~~真面目に読むと疲れますのでご了承くださいませm(_ _)m~~  

 

「碧水」2004年1月号

静岡県水産試験場から「碧水」という広報誌が年4回出ており、

これは1980年7月の創刊号からpdf形式で全て閲覧することが出来ます。

この「碧水」の2004年1月号(下記リンク参照)は、「静岡県水産試験場創立百周年特別号」になっていて、

5p~11pまで、静岡県水産試験場の「研究成果」と題して、34の代表例が挙げられており、

5pには代表例の4番目として「魚群探見飛行」という項目があります。

 

水産試験場の「研究成果」 

「飛行機自体が珍しい時代に、小型飛行機で上空からカツオ等の魚群を探索し、通信筒を投下して漁船に伝え、漁獲を飛躍的に向上させた。この事業は駿河湾から伊豆七島海域を対象として昭和3年から18年ころまで続けられた。」

この説明文には海岸に駐機する2機の水上機の写真が添えられ、

「魚群探見飛行機 義勇8号と9号」というキャプションがついています。

これが魚群探査についての説明の全てです。

そこには、ヒコーキによる魚群探査を生涯の仕事にしようと考え、交渉の末に飛行場を設置し、

飛行場設置後、実に5年に亘り県、試験場に魚群探査実施を懸命に働きかけた人物の事は一切出てきません。

やっとのことで始まった根岸氏の魚群探査事業に対し、当の水産試験場は当時どんな反応だったでしょうか。

前記事の「暗転」の項でも触れましたが、「日本民間航空史話」根岸氏ご本人の手記にはこうあります。

「魚群探査事業は県の水産試験場、水産課が取り上げなかったものを強引に実施したため、これの当事者から陰からの妨害も少なからずあった。これを排除しながら行わねばならなかったことは、非常な苦労であった。」

この「妨害」の一例として、前述の不意の県費カット未遂事件が発生しました。

 

「明治37年に静岡県水産試験場が業務を開始してから今日までの百年間に、静岡県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果のうち代表的なものを紹介します。」 

これが様々な"成果"についての前口上です。

航空機を使用した魚群探査方式の効果性については、根岸氏の手記でも、水産試験場側の資料でも、

漁師から非常に喜ばれる成果があったと記録に残っています。

試験場自体がこうして創立百年の代表的な研究成果の1つに魚群探査飛行を挙げ、

「漁獲を飛躍的に向上させた」と"自画自賛"する程です。

「研究成果」では、魚探の開始年を端的に「昭和3年から」としています。

「碧水」の他の号では、昭和2年は試験期間、3年から八丈島を基地にして稼働開始。ということになっています。

当時伊豆諸島唯一の飛行場は八丈島の三根飛行場だったのですが、これは昭和2年10月開場です。

それまでは三保しかないのですが、魚探の開始年を「昭和3年から」とすることで、

三保飛行場の稼働期間は実質たったの数ヶ月になってしまうのです(後で詳述します)。

因みに根岸氏の手記の中では、試験期間とか本格稼働とかの区別なしに昭和2年から始めたことになっています。

ところが「碧水」の「研究成果」では、この事業を開始した人物の名前も出て来ず、使われている写真も根岸氏とは無関係の水上機。

「魚群探査のために」と開設した飛行場も、陸上飛行機も、

およそ根岸氏と関わるあらゆる痕跡を塗り消してしまうかのような取り上げ方です。

 

「誰がやったかという事ではなく、純粋に事業成果を発表する」というのが趣旨かもしれません。

しかし県と水産試験場は、事業開始前は「飛んだら墜ちるから」と、危険を理由に魚群探査を頑として認めようとしませんでした。

そして開始後も、執拗に妨害を繰り返しておきながら、

魚群探査を「県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果」に持ってきて自画自賛。というのは、どうなんでしょうか。

根岸氏のことを知らない方がこの説明を見れば、県水産試験場が独自にこの事業を始め、成果を挙げたと捉えるでしょう。

「先進的なことをしてたんだなあ。当時の場長さんは、よほど先見の明があったに違いない。静岡水産試験場さん、やるじゃん!」

そんなに根岸氏に触れたくないのなら、百年間の代表的な成果事例から魚群探査を外すという選択肢もあったはずです。

失礼な言い方で申し訳ないのですが、「碧水」の取り上げ方は根岸氏を闇に葬り、手柄だけ横取りしているように見えます。

根岸氏が試験場の一職員ならまだ分かるのですが。。。

 

水産試験場が魚群探査費用の全額、若しくは殆どを出しているならまだしも、

費用分担は、「航空局から年額4千円、農林省から2千円、県費2,260円」なので、静岡県が出しているのは全体の27%です。

残りの73%を出してくれた航空局、農林省に一言も触れず、手柄だけ独り占めですから、

ましてや一個人のことなど-ということなのでしょうか。

「研究成果」をpdfで実際にご覧頂ければ早いのですが、

34の代表例はそれぞれ、1枚の写真の隣が説明文のスペースになっています。

「魚群探見飛行」の項目にはまだまだ説明スペースに余白があります。

魚群探査を水産試験場百年の成果として取り上げるのであればせめて、

「飛行家の根岸氏の働きかけで始まった当事業は~」という一文だけでも入れて欲しかったです。

 

「碧水」2002年6月号-進んだ発想の下に

2002年6月号(98号) 6-8pでも「魚群探見飛行」について取り上げている(下記リンク参照)のですが、

その扱い方がなかなか興味深いです。

興味のある方は下にリンク貼ってありますので是非実際に見て頂きたいのですが、要約するとこんな書き出しで始まります。

「魚探に飛行機を使用するという、当時としてはかなり進んだ発想の下に、昭和2年一大プロジェクトは始まった」

この6月号(98号)全体でも根岸氏の名前は、脚注の引用文献の中でたった1回登場するだけで、

根岸氏が何者なのかということは、この号を見ても分かりません。

「魚探に飛行機を使用するのは、当時としてはかなり進んだ発想である」

これは事実その通りなのですが、その発想をしたのは根岸氏で、この発想の下にプロジェクトを始めたのも根岸氏です。

試験場はその発想を否定し続け、一大プロジェクト開始後も妨害を繰り返し、

根岸氏に非常な苦労を負わせ、止めさせようとした側です。

ところが文中に根岸の根の字も入れておらず、これでは当記事を目にした方は、

「かなり進んだ発想」を持っていた試験場により、事業が推し進められた。

と受け取ることでしょう。

これでは事実と逆です。

 

続けてこうあります。

「魚群探見飛行の試みとしては、大正12年(1923)に三重県での事例が最も古いが、実用化には結びつかなかった。継続された事業としては静岡県が本邦初である。」

三重県で魚探飛行を実施した大正12年とは、奇しくも根岸氏が「魚探のために」と三保(根岸)飛行場を開設した年です。

即座に魚群探査の許可を出していれば、「三重県と並んで最も古い」と書けたのに、惜しかったですね。

更に遡れば、根岸氏は最初から「魚探のために」と飛行場を開設しようとしたものの、

県からの強い反対で開設が遅れたという経緯があります。

もし本当に「かなり進んだ発想」を持っていれば、飛行場開設、魚探開始も早々に許可を出していたはずで、

堂々の「本邦初」になり得たのですが。。。

 

それでもこんなに早い時期に魚探を開始した事について、

「今の時代にたとえれば、地方の水産試験場が専用の人工衛星を打ち上げるにも匹敵する大事業だったに違いない。」

と述べています。

また、「試験を開始するにあたり大きな障害となったのは、世間一般の飛行機の安全性に対する不当な危惧であり」

とも述べています。

根岸氏は手記の中で、世間一般が大きな障害になったとは一言も述べておらず、

むしろ試験場そのものが大きな障害になったと書いているんですが。。。

この後の根岸氏の使用機についてのところでも触れますが、

三保飛行場が完成した大正12年は、第一次大戦終結から5年後で、ますます航空機の重要性が高まり、

海軍では空母、艦載機の開発、運用が進められ、

国民に広く航空機についての啓蒙活動を行う諸団体が既に組織されていた時期です。

そんな時代に、試験場が「大きな障害」と感じる程、世間一般からの具体的な圧力が本当にあったのでしょうか?

前記事でも触れましたが、根岸氏は三保に飛行場を開設する前に、同じ静岡県の福長飛行機製作所で操縦訓練をしていました。

その頃(大正8年~9年頃)の様子について、やはり日本民間航空史話に福長飛行機の関係者の手記がありました。

その本の45pには、当初なかなか飛ばないヒコーキに地元の人たちが「カニ飛行機」とあだ名を付けていたこと、

やがてヒコーキが飛ぶようになると、土地の人たちは敬意を表し、応援するようになったことが記されています。

同じ静岡県で、土地の人々は民間機の飛ぶ様子に敬意を示しました。

一方で、水産試験場はまがりなりにも官営の施設です。

今でこそこの種の反対運動は珍しくもありませんが、当時は軍国主義、官尊民卑といった言葉に象徴される時代背景のこともあり、

土地の強制接収とか、漁場を荒らされるとかを別にすれば、そんな運動が生じた事は聞いたことがありません。

試験場が(根岸氏が)やろうとしていたのは、漁師に魚群の位置を知らせようという試みでした。

これが成功すれば(成功するんですが)地元に計り知れない恩恵がある事業なのに、

それに対して世間一般が表立って障害となるような行動を起すものでしょうか?

この記事の筆者様は、「世間一般の飛行機に対する無知無理解には大いに困らされた」的な事を書いておられますが、

そうした事が実際にあったときちんと証明できるものを何か持ち合わせておいででしょうか。

根拠無しにこんなことを書いてしまうと、それこそ当時の地元の方に対する不当な批判になってしまいますが、大丈夫でしょうか。

そもそも当時、県と試験場は根岸氏の計画に大反対の立場でした。

世間から大きな反対運動が起こったら、むしろ大喜びしそうな気がするのですが。。。

 

大きな障壁となったのは、世間一般の「飛行機の安全性に対する不当な危惧」であり、当時の関係者の周囲には「懐疑と不安と確信とが渦巻いていた]。これを払拭するため、昭和2年9月、調査船富士丸(2世)の船尾から紅白の吹流しを曳かせて、それが高度何メートルまで見えるかという試験を行った。結局「ナアル程飛行機から見るってえのは、素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。

飛行機の安全性に対する不当な危惧を払しょくするため、試験飛行を実施し、試験は成功した。とありますが、

もし本当に飛行機の安全性が問題視されているのなら、当時はヒコーキが飛び回るだけで人が呼べる時代ですから、

試験に使用するヒコーキで飛行大会を開催し、地元の方を招待するとか、体験搭乗希望者を募るとかが普通だと思うのですが、

実際に行われたのは、船に吹流しを曳かせ、それが高度何メートルまで見えるか、というものでした。

そしてこれがなぜか大成功。

これって傍から見れば、沖に船を出し、その頭上でヒコーキが飛び回っているということですよね?

どうしてこれで試験場が「大きな障壁」と感じる程の飛行機の安全性に対する世間一般の不当な危惧を

めでたく払しょくできるのでしょうか??

注目すべきは最後の方です。

なぜか「素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。となっています。

当初は「世間一般の不当な危惧を払しょくするため」に試験を行っていたハズなのですが、

いつの間に試験の目的が世間一般から当局に変更されてしまったんでしょうか??

この試験、オイラには、まんま魚探飛行の有用性に疑念を抱く試験場職員(当局)に対する根岸氏の実証試験に見えるのですが。。。

コレ、語るに落ちてませんか?

この記事の筆者様は、根岸氏の手記をご存じで書いているのか、ご存じなく書いているのか存じませんが、

根岸氏のご親族がこの号を目にしたら、どんな心境なのでしょうか。

 

八丈島を基地として-「碧水」1986年12月第38号

「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)は、

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱っています。

この資料の中では、

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年と4年の半ばまでは、八丈島の飛行場を基地としていましたが、 昭和4年以降、三保を基地に調査が行われました」。

と記されています。

この一文がどういうことを意味するかについて理解するため、

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つを調べてみました。

 

a.使用機

当時根岸氏が魚探に使用していたヒコーキについて、妄想推測も含めて記してみます。

根岸氏の陸上機について資料では、「払い下げを受けた三菱の十年式陸上機 複葉、乗員2名、300馬力」とあります。

戦史叢書の付表に当時の陸海軍機の一覧表があるのですが、「三菱の十年式」に当てはまるのは、

「艦上機の開祖、一〇式トリオ」と呼ばれる「一〇式艦上雷撃機/艦上戦闘機/艦上偵察機」の三機種です。

それで根岸氏の使用機は、恐らくこの三機種のどれかの事を指していると思うのですが、

資料に出てくる「複葉、乗員2名、300馬力」という条件と比較してみるとこうなります。

・一〇式艦上攻撃機→三葉、450馬力、単座 なので違う
・一〇式艦上戦闘機→複葉、300馬力だけど単座なので違う
・一〇式艦上偵察機→複葉、乗員2名、300馬力で合ってる

ということで、根岸氏が使用したのは、「一〇式艦上偵察機」なのではないかと思います。

根岸氏の手記でも、そして水産試験場の資料でも、「艦上機」ではなく、「陸上機」としているのが気になるところなのですが、

これは、根岸氏の魚群探査の後を継いだ機体がいずれも水上機なので、それと区別するためなのではないかと思います。

三菱の「一〇式艦上偵察機」は1924年(大正13年)に運用を開始し、159機生産され、民間にも払い下げられていますので、

この点も魚群探査機の条件と合致します。

「一〇式艦上偵察機」のスペックについて、戦史叢書の資料では、「全速110節、航続力3.5(時)」とあり、

Wikiには、「最高速度:204 km/h、航続距離:754 km」とあります。

110節はキロ換算すると、203.72km/hになるので、Wikiと数値が合っているのですが、

問題は航続距離の方です。

Wikiでは754 kmとあるのですが、戦史叢書のスペックからすると、(あり得ないことですが)全速で3.5時間飛んでも、

713kmにしか達せず、計算が合いません。

どちらか数字が間違っているのだと思います。

それで戦史叢書の数字をとることにしました。

最高速度:204 km/hなので、(オイラの独断で)巡航速度:150km/hと仮定すると、

航続力3.5(時)から、航続距離:525kmとなります。

以下、この数字で話を進めます。

この機の信頼性については「碧水」の中で、「30分もすればガタガタいいだす代物で、根岸氏は大変苦労されたようでした」

また別資料でも、「白竜号(根岸氏の使用機)は状態が悪く、天候不順、故障や事故による機体破損などで当初の予定通りには探見飛行が行われませんでした」

とあります。

 

繰り返しになってしまいますが、根岸氏の使用機は一体何だったのかについて要約すると、

「三菱製、陸上機、複葉、乗員2名、300馬力」と資料にあり、

その条件にピッタリ当てはまるのが「一〇式艦上偵察機」なので、この偵察機を流用したのだろうと考えているのですが、

根岸氏の手記の中で、所有機として「十年式戦闘機」という言葉がたった1回だけですが、出てきます。

(根岸氏は魚探から手を引いた後もずっと飛行家だったのですが、この戦闘機云々については魚群探査からすっかり手を引いた後の話の中で登場し、所有していた時期が記されていないため、ややこしい)

実は「一〇式トリオ」と呼ばれる一〇式艦上雷撃機/戦闘機/偵察機の三機種は、

全てイギリスのソッピース社から招聘したハーバート・スミス氏が設計しており、

スミス氏はまず戦闘機を手掛け、次いでこの戦闘機を拡大し複座にした偵察機を設計しました。

この2機は姉妹機ということで、外見は非常によく似ています(雷撃機の方は三葉で全くの別物)。

で、この戦闘機は単座なので、根岸氏の使用機候補からは除外したのですが、

よく調べてみたら、「二型」と呼ばれる複座型練習機もあったのだそうで、

根岸氏の手記に出てくる「十年式戦闘機」というのが、魚群探査に使用した機のことを指すのだとしたら、

もしかしたら使用機はこの、「一〇式艦上戦闘機・二型」なのかもしれません。

戦闘機の方は偵察機より若干早く、最高速度は215km/hなのですが、航続時間が2.5時間と短くなっております。

後述しますが、これだと魚探には更に厳しいスペックとなります。

 

余談ですが、使用機に搭載している発動機について、根岸氏の手記の中では、「イスパノスイザ300馬力」と記されており、

戦史叢書の資料では、艦上戦闘機/偵察機共に「ヒスパノ300馬力」と記されているのですが、

根岸氏の使用機は、「イスパノスイザ300馬力」を三菱でライセンス生産した「三菱ヒ式300馬力」を使用していた。

とするサイトもあります。

 

b.魚群探査の実態

魚群探査飛行が具体的にどのように行われていたのか、水産試験場の資料に説明されていました。

初期の頃は無線を搭載した漁船が少なかったのだそうです。

それで上空から魚群を発見すると、その情報を紙に記して通信筒に入れ、

情報が欲しいと旗やたもを振って合図してくる漁船に投下して知らせるという方法がとられました。

つまり、飛行場を離陸し、漁場まで飛行し、魚群を探し、

それから情報を欲している漁船の上空まで行き、通信筒を投下しけなければなりません。

目標海域上空に到達してからが本番な訳で、「30分もすればガタガタいいだす」信頼性の乏しい陸上型のヒコーキで、

しかも洋上飛行となれば、飛行場から目的地までは1分でも近い方がいいに決まっています。

 

余談ですが、「碧水」(2002年6月 第98号)7pには、年度別の魚群探査の詳しいデータが示されています。

それによれば、昭和3年度は調査飛行回数25回に対して、飛行時間は24時間25分、

同じく昭和4年度は20回で23時間37分となっており、

1回の平均飛行時間は、昭和3年度が59分、昭和4年度は1時間11分です。

この魚群探査の所要時間についてですが、根岸氏の手記の中で

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とあります。

ところが現実には1時間凸凹ですから、本当はもっと飛びたかったはずで、

使用機の信頼性のせいで1回の飛行時間を制限せざるを得なかったのかもしれません。

 

c.位置関係

飛行場、漁場の位置関係はこんな感じ↓です。

無題2.png

八丈島は伊豆七島の中では駿河湾から最も遠く、駿河湾~八丈島間は最短でも約200kmあります。

三保から伊豆半島挟んで反対側の大島とか、もっと近ければ、駿河湾だろうが伊豆諸島近海だろうが、

それほど支障なさそうですが、結構離れていたんですね。

「伊豆諸島東京移管百年史」1088pによれば、八丈島近海は「日本三大漁場の一つ」なのだそうで、

それならここで漁をする船はたくさんあるでしょうから、魚探飛行をする意味は大いにあるのだと思います。

またこの資料では、八丈島近海の漁について、3~5月はトビウオ、ハマトビ漁、8~12月はクサヤモロ漁等、

通年獲れるものもあるが、狙う魚種により漁期というものがあることが記されています。

根岸氏の手記でも「漁期」という言葉が出ており、

これが通年ではなく限られた期間しか探査飛行をしなかったことに繋がっているようです。

 

余談ですが、根岸氏が八丈島で使用していた飛行場はドコかについて。

現在の八丈島空港のあたりに海軍の飛行場が建設されたのは戦争末期の時期ですから、

根岸氏が使用したのは、八丈島に最初に建設された「三根飛行場」という、

現在の空港の北東側にあった飛行場(昭和2年10月開場)でした。

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つが出ましたので、この3つでいろいろ妄想考えてみます。

 

八丈島から駿河湾に飛ぼうとすると

水産試験場の資料では、事業化した昭和3年から、八丈島を基地にして魚探飛行を行ったとあります。

一方で、根岸氏の手記では、昭和2年から4年にかけて駿河湾でも、八丈島でも魚群探査を行ったとあります。

仮にの話なのですが、八丈島を基地にしていた当時、駿河湾の魚群探査に向かったとするとどうなるのか具体的に考えてみました。

使用機についてですが、機種は前述の通り「一〇式艦上偵察機」。
(最高速度:204 km/h、巡航速度:150km/h、航続時間:3.5時間、航続距離:525km)と仮定して以下話を進めます。

このヒコーキで八丈島から駿河湾に向かうとすると、最短でも200kmですから、片道1時間30分位かかる計算になります。

八丈島飛行場と駿河湾の往復に3時間、

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とありますが、

現場海域で魚群探査をするために残っている燃料は0.5時間分ということになります。

 

既にまともな魚探は出来ない計算になるのですが、この当時、伊豆七島には八丈島以外にまだ飛行場はありませんでした。

(八丈島以南はこの当時、700km離れた父島にも、930km離れた硫黄島にもまだ陸上飛行場は整備されていません)

ですから、八丈島~三保の飛行中何かトラブルがあれば、ルート途上に緊急着陸可能な飛行場は存在せず、

切迫していればそのまま着水するか、もう少し余裕があれば進路を東にとり、

伊豆諸島のどこかの島の適当な空き地を探す羽目になります。

八丈島か三保の飛行場まで辿り着けそうもないという事態になった時点で、

陸地か、海面か、いずれにせよ不時着決定ということです。

悪くすれば機体は使用不能で廃棄処分、良くても機体の回収、修理が必要となり、捜索隊出動という事態になるかもしれません。

実際、昭和4年7月にこの機は本当に不時着してしまい、機体は破損、使用されなくなり、新たに同型機の払い下げを受けています。

根岸氏の魚群探査事業は、危険を理由に長く許可が出なかったところを無理を押して事業化したという経緯があり、

ただでさえ試験場が止めさせようと虎視眈々狙ってますから、事故は事業中止の立派な大義名分となり得ます。

使用していたのは海軍機でしたから、無事に着水できればすぐ沈むことはなかったはずですが、

いろんな意味で、不時着は避けたいところです。

 

不時着に至りかねない要因としては、機体の故障の他に、天候の悪化により目的の飛行場に着陸できないというのがあります。

機体の信頼性が比較にならないほど向上した現代では、こちらの方が運航に与える影響はずっと大きいですが、

様々な手記を見ると、当時の天候との闘いは本当に大変なものでした。

天候の影響をモロに受ける高度で飛ばざるを得ず、機速が遅いほど、風の影響を大きく受ける事になります。

追い風なら目的地に早く着けるのですが、向かい風があれば押し戻され、

横風があれば進路は狂い、目的地までのみかけの距離がどんどん長くなります。

現代と比べれば、当時は満足な航法装置も、地上の支援装置もなく、

自機がドコにいるのか、ドコに向かえばよいのか全く分からなくなり、

そのまま不時着できればいい方で、燃料切れで墜落、行方不明という事故は多く起こりました。

洋上飛行での不時着等の事故は命を危険に曝しますし、事業停止に至りかねませんから、

ルート上に代替飛行場のない長時間の洋上飛行ということも考え合わせると、

予備燃料の確保は非常に重要だったはずです。

 

戦史叢書の「航続力3.5時間」という数値でいろいろ考えている訳ですが、

この3.5時間というのは、理想的な高度、速度で真っ直ぐ飛び続けた場合の数字です。

b.魚群探査の実態 の項目で記しましたが、

魚群探査、漁船探査、通信筒投下のためには、理想的な巡航飛行とは程遠い、

上昇/下降、加速/減速、旋回の連続を強いられたはずです。

「碧水」98号7pによれば、魚群探査に適当な高度は300m程度とされています。

漁船に通信筒を投下する際には、更に高度を落としたかもしれません。

高度が下がるほど空気密度が濃くなります。

空気が濃いこと自体は、エンジン効率アップ、燃費向上につながるのですが、

高速で飛ぶヒコーキの場合、空気密度が濃いことは、エンジン効率を良くする以上に空気抵抗の増加につながり、燃費を悪くします。

これは当時のレシプロ機でも、現代のジェット機でも同様で、より経済的な運航をするために高度を上げるのはこのためです。

魚探飛行は、巡航速度を保ち、理想的な高度で一直線に飛び続けて出す「航続力:3.5時間」という数字を、

大幅に下回ったはずです。

 

「航続時間3.5時間、目的地との往復に3時間。残り0.5時間」

というのは、八丈島を離陸し、非常に理想的な飛行で駿河湾上空に到達したら即引き返し、

帰りも理想的な飛行が出来たとして、あと30分分の燃料が残っている。ということです。

こんなことあり得ませんし、帰りも理想的な飛行が出来るという保証はどこにもありません。

こうして現実的に諸々考えると、「30分しかないけど、それじゃあ早速魚探やりますかー!」

とか言っている場合ではないことになります。

当時の飛行場の位置関係、使用機の性能を考えると、

八丈島を離陸して、先ずは三保飛行場で給油してから魚群探査を行い、

帰りにまた三保で給油と整備を済ませてから八丈島に戻るというのが現実的だろうと思います。

 

三保飛行場から八丈島飛行場までは240kmあり、計算上1時間36分で飛べるのですが、1時間45分かかるとすると、

往復で丁度航続時間の3.5時間を使い果たすことになります。

往路八丈島を離陸して三保に向かったとして、三保が天候不良で降りられないとしても、燃料に十分余裕があれば、

本土には当時既にいくつか飛行場がありましたからどこかにダイバートできるはずなのですが、

復路三保を離陸して八丈島に向かった場合、目的地上空に近づいてみたらベッタリと黒雲に覆われているのが見えたとすると、

八丈島周辺に代替飛行場はありませんから、天候回復を信じて上空で旋回待機するか、

即刻三保に引き返すか、決断を迫られます。

特に戻りは燃料満載だったんじゃないでしょうか。

 

加えてコストの問題もあります。

根岸氏の手記の中で、使用していたヒコーキのエンジンは、60時間ごとに分解しなければならなかったと記されています。

三保飛行場と八丈島の三根飛行場を往復するだけで4時間近く使ってしまいます。

魚群探査飛行は、魚群を探査してナンボですから、燃料代もバカにならず、非常に不経済なことになってしまいます。

こうして考えてみると、八丈島を基地にしている間は、やたらと三保に戻ったりせず、また駿河湾の探索などせず、

八丈島周辺を飛び回るのが自然のように思います。

「明日は気分を変えて、久しぶりに駿河湾でもいくかー!」なんてノリで、ホイホイ気軽に行き来したとは思えません。

三保飛行場にいる時は駿河湾を、八丈島にいる時は伊豆諸島近海を、という具合に、

目の前の海で魚探を行うのが自然だと思います。

実際、「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pでは、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、機上(白熊号)より本島を認められる範囲内(約40マイル)の漁場を調査する実用試験に人った」

と記されています。

 

ということで、水産試験場の資料に記されている通り、本当に昭和2年は試験飛行、

そして昭和3年と4年の半ばまで八丈島を基地にしていたとすると、

その間は三保(根岸)飛行場の出番はほとんどなく、また捜索海域も駿河湾ではなく、

主に伊豆諸島近海に限定されるのではないかと考えられます。

この場合、三保の飛行場が稼働し、魚群探査の実績を挙げた期間は、

昭和4年の後半のたった半年しかないことになります。

「碧水」98号7pの魚探飛行データによれば、昭和4年の魚探飛行は10月27日で終了しており、期間は更に限られます。

前述の通り、根岸氏の使用機は八丈島で不時着事故を起こしたのですが、

これはよりによって根岸氏の魚探飛行最終年である昭和4年7月のことです。

残念ながら事故日が7月の何日かは不明なのですが、不時着を起こした場所は八丈島ですから、

7月に入っても根岸氏はまだ八丈島で飛んでいたことになります。

「碧水」の資料では、同型機の払い下げを受けて使用したとあるのですが、

7月に八丈島で事故を起こし、それから内地に戻り、機体を受領し、

三保(根岸)飛行場で魚探飛行を再開するまでにどの位の期間が必要だったのでしょうか。

そして、この年の調査飛行が終了する10月27日までに、どの位の期間飛べたのでしょうか。

いずれにせよ、三保(根岸)飛行場が日の目を見たのは、せいぜい数か月だけに留まったという事で、

根岸氏の作った三保飛行場はほとんど役に立っていないことになってしまいます。

そして昭和5年以降、根岸氏はクビになり、魚群探査に水上機が使用されているため、

「三保(根岸)飛行場」は魚探にはもう永遠に不要なのです。

 

水産試験場の資料からすると、「三保(根岸)飛行場」が魚群探査の基地として稼働した期間は、

昭和4年の後半の数か月のみ。そしてその後はもう出番はありません。

一方、根岸氏は自身の手記の中で、魚群探査を行った期間についてこう記しています。

「2年、3年、4年と駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場で」

「碧水」の資料とは、随分イメージが異なるのではないでしょうか。

 

三保(根岸)飛行場はなぜ造られたのか

根岸氏の手記の中では、魚群探査のために使用した具体的な飛行場については、「八丈島」しか出てきません。

時期により基地の変更があったとか、駿河湾の魚群探査にどの飛行場を使用したか明示する箇所はありません。

それは、駿河湾の魚群探査にドコの飛行場を使用したかということなど、言わずもがなだったからではないでしょうか。

そもそも三保(根岸)飛行場は、静岡電気鉄道専務、「東海の飛将軍」と称された大実業家、現鈴与創設者、

地元在住の大臣といった錚々たるメンバーから、「地元発展のために」等の思いから後援者になってもらい、

「魚群探査のために」と県に設置願いを出して苦労して認めさせたという経緯があります。

三保飛行場はまさに、「魚探のために造られた飛行場」でした。

ところが水産試験場の資料によれば、試験期間を経ていよいよ実用化の段階に来た時、

なぜか根岸氏は八丈島に移動し、そこで1年半も活動していたことになります。

念願叶って魚群探査を開始するとき、真っ先に活動の基地にしたのが、苦労の末に自ら完成させた飛行場ではないのです。

これはオイラには非常に不自然に映ります。

根岸氏が自らの意思でこんなことをするとはとても考えられず、

これが事実だとすれば、水産試験場から「先ずは八丈島でやれ」と強要される等、何か余程の事情があったはず。

後援者の手前もあり、こんなことが実際にあったのだとしたら、

手記の中で県への苦言を記している根岸氏のこと、そんな不条理な要求は当然手記に記録したのではないかと思うのですが。

 

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱った「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)の中では、

昭和2年の試験飛行が良好な結果であったこと等、なぜかその年の事業報告に記載されておらず、

なぜか7年後の昭和11年5月の静岡県水産試験場月報の中でやっと登場したことが記されています。

 

八丈島側の記録

因みに八丈島側にも、魚群探査飛行について少しだけ記録に残っています。

「伊豆諸島東京移管百年史」の中で、

「1928年(昭和3年)7月7日 (八丈島に)静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」と記されています。

年表では「白竜号飛来」とあるだけで、これが初飛来であるかどうか等記されていないのですが、

白竜号は何度も八丈島に飛来しているはずなのに、わざわざこの一回だけ記録が残っているというのは、

これが初飛来だったからなのではないかと思います。

 

「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」には、各年度ごとの魚群探査実施期間、飛行回数等のデータが記録されており、

1928年(昭和3年)は、探見飛行は6月~8月にかけて実施、調査飛行回数25回となっています。

何度も繰り返し書いていますが、水産試験場の資料では、根岸氏は昭和3年と翌4年の半ばまでは、

八丈島を基地にしていたことになっています。

昭和3年は1年間丸々八丈島を基地とし、魚探飛行は6月から開始ということは、

遅くとも6月には八丈島に飛来して、早速伊豆の近海を飛び回っているはずです。

では、八丈島側の「静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」という記録の日付が7月7日というのはどうしたことでしょう。

ちゃんと魚探事業したとして記録が残っている6月は一体ドコで飛んでいたのでしょうか?

また、この年表では魚探飛行について記しているのは7月7日の記述のみで、

八丈島を基地として1年半魚群探査をしていたにしては、受け入れ側の年表は余りにも素っ気なく感じます。

前述の通り、三保から八丈島は、そう気軽に行き来するような距離でないことも考えると、

「7月7日飛来」というのは不自然に思います。

 

双方の隔たり

長々と書いてしまいましたが、こうして水産試験場の魚探についての扱い方と、根岸氏の手記を比較するとき、

幾つか疑問点が浮かび上がります。

・水産試験場広報誌は事実を曲げて根岸氏を表に出さないようにしている(ように見える)
・魚探事業が本格稼働期に移行すると、八丈島に基地を移し、伊豆諸島近海でばかり飛行している
・魚探のために開設した三保は、本格稼働から1年半後にようやく使用し始め、結局ほんの数か月程度しか稼働していない

 

前出の「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pには、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、(中略)実用試験に人ったが、機関故障や機体破損のため、なかなか思い通りにはいかず、本格化したのは5年度からであった。」

とあり、この号では根岸氏のことも根岸飛行場についての説明も一切なく、

根岸氏が関わっていた昭和4年までは、「なかなか思い通りにいかない実用試験期」ということになっています。

根岸氏が試験場と関わっていた時期の両者の関係性、

そしてその後の「碧水」の露骨なまでの根岸氏の排除ぶり、浮かび上がる疑問点を考えると、

オイラ個人としましては、「碧水」の魚探についての記述をそのまま受け入れるより、

「昭和2年から4年にかけて、駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場でも魚探を行った」

という 根岸氏の手記の方がすんなり受け入れやすく思えます。

この根岸氏の書き方、「魚探活動のメインは飽くまで駿河湾」というニュアンスが感じられるのですが、

水産試験場の言う通り、もし本当に駿河湾での稼働期間がほんの数か月に留まっていたとしたら、

果たしてこんな書き方が出来るものでしょうか?

そもそも根岸氏が魚探事業をクビになった発端は前記事の通り、

伊豆諸島のカツオが南方に移って少なくなったため、サイパンを根拠として大型飛行艇による魚群探査を行おうと考えたことでした。

カツオは高度回遊魚で、一定のルートを巡って回遊します。

一年半の間、ひたすら八丈島周辺海域のみで魚探を行ったのではなく、

様々な魚群の回遊、移動に合わせて根拠地を変えようとした-

こちらの方がオイラには自然な気がします。

 

最後になりますが、この記事を書くに当たり大いに参考にさせて頂きました、

「魚群探見飛行のこと」という記事(「碧水」1986年12月第38号 5,6p)について。

この号を作成された方に限っては、根岸氏を疎むどころか、その多大の苦労を非常に好意的に扱っており、

公平な目で当時の資料を扱っているように受け取れるという点を申し添えておきます。

根岸氏の手記と比較すると、矛盾と感じる部分はあるのですが、この執筆者が使用した資料が身内のものですから、

その資料だけ見て書けば、当然こうなるだろうなあ。というのがオイラの印象です。

この方が作成した記事(1986年12月 第38号)と、「「百周年特別号」(2004年1月 第105号)が、

世に出る順番が逆であったなら、せめてもの救いだったのですが。

 

静岡県立水産試験場は広報誌を創刊するに当たり、「碧水」という言葉を誌名に選びました。

この広報誌の発行は現在も続いています。

オイラが検索した限り、「碧水」ではこれまでに3度魚群探査の特集記事を出しました。

今後、その誌名通りの記事が記されるようになることを心より望みます。

 


関連サイト:
「碧水」(1986年12月 第38号)「魚群探見飛行のこと」pdf(5、6p)   
「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」pdf(6-8p)   
「碧水」(2004年1月 第105号)「「百周年特別号」pdf(5p)   
(「碧水」は再生おじさんから情報頂きましたm(_ _)m )

この記事の資料:
日本民間航空史話
戦史叢書95巻:海軍航空概史 付表第一
伊豆諸島東京移管百年史


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コメント 7

セバスちゃん

長文(前後編)とも楽しく読んでしまいました。
飛行場に良くも悪くも歴史ありですね。
FDAも鈴与ですし・・・、んー感慨深いですね。
by セバスちゃん (2015-11-23 14:22) 

me-co

非常に興味深い記事だったのですが・・・最初にすみません。
この3連休、のうち2日間は座学だったので、脳が疲労しておりまして、斜め読みしました。でも、「ディバート」使ったのは、見逃さなかったデス◎◎;
by me-co (2015-11-23 23:52) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■セバスちゃんさん
「楽しく」と言って頂けるとホッとします。
オイラなら、こんな理屈っぽい記事は読んでも疲れるだけですけど、
セバスちゃんさんは普段から本読まれるから大丈夫なのかしらん。
何もここに限った事ではなく、ほかでも良くも悪くもいろいろとあったんでしょうね~。
鈴与って、非常に古くからヒコーキに関わり持っていたのですね。

■me-coさん
この記事は脳が疲労してる時に読んじゃダメです^^;
でもありがとうございます。
by とり (2015-11-24 06:29) 

me-co

御回答します。
わたくしが今まで見聞してきた中で、上三川町上蒲生に軍関係施設があったとは聞いておりません。何年か前にその工場見学した時、地主数名と話がついたので、あの広大な敷地が確保できた=もともと山林だったと聞いたような気がします。
ただ、上蒲生から北に十数キロの所(とりさんも取材されている)あの工業団地には関係施設がありましたので、そこと錯綜しているのでは?と思います。
証拠の無い話なので、間違っているかもしれません。その時は申し訳無いデス。
by me-co (2015-11-25 01:10) 

とり

■me-coさん
早速のご回答感謝ですm(_ _)m
土地取得のいきさつは非常に有力な証言ですね。
ありがとうございました。
by とり (2015-11-25 05:43) 

タカアシガニ1号

公的な記録、特に科学技術の総論には、成果・失敗も含め、誰それという氏名は原則かかれません。多くの事柄には背景があるため、その部署の目的を最優先に、客観的な評価や検証が可能な科学的事項を単純に示します。
某を追放云々ということがらは、当時の公的記録にも残ってないハズですし、あったとしても100年史総論の中で取り上げることではありません。

さて、「静岡水産研究百年のあゆみ」(H15.11)に魚群探見飛行が記されています。
碧水の執筆者とは同じと思います。その中で、
・関係者の懐疑と不安を払しょくするため、S2.9に調査船富士丸(2世)の船尾から紅白の吹き流しを曳かせて、目視試験を行った。試験は成功し、その時の飛行機は陸軍払下げの陸上練習機、三菱10年式RⅠ2型(白龍号)であった。
・S3年度から、八丈島三根海軍飛行場を根拠地として白龍号より・・・
・S5年度からは使用機は中島式3座水上機(義勇8、9号で5,9,10年度は2機、それ以外は1基を使用、5年度にはハンザ式単葉水上機1機も使用した。
とあります。
これら以外にも参考文献は、S3~13静岡水試事報、や平木国男(1983)空駆けた人たち-静岡民間航空史が挙げられています。
by タカアシガニ1号 (2015-12-16 22:28) 

とり

■タカアシガニ1号さん いらっしゃいませ
貴重なご意見をありがとうございます。
言わんとすることは分かります。
当初の「部署の目的」は、魚探事業そのものを潰すことでした。
事業費の三割足らずしか負担せず、部署外の人間により始まった計画にもかかわらず、
個人、背景を省くことが、「そういうものである」という慣習、組織の論理で消されてしまい、
それがいつの間にか試験場の成果にすり替わっています。
公の論理の前に闇に葬られた個に光を当てるのが拙記事の趣旨です。

「静岡水産研究百年のあゆみ」(H15.11)という資料はまったく知りませんでした。
(静岡県立図書館の蔵書検索でもヒットせず)
タカアシガニ1号さんがこの資料を挙げたのは、
「百周年特別号の中では取り上げていないが、使用機が白竜号だったことはきちんと出ている」
ということでしょうか?
だとしたら、記事の中でも触れましたが、
「碧水」1986年12月第38号、2002年6月第98号の中では、
どちらも限定的ではありますが根岸氏の名前が出てきますし、
白竜号での飛行がどんなものであったか、わりと詳しく出てきますよ。

それはともかく、「静岡水産研究百年のあゆみ」の中では、
船尾から紅白の吹き流しを曳かせる実験のことが触れられているのですね。
ここではこれが「関係者の懐疑と不安を払しょくするため」とのことですが、
「碧水」(2002年6月 第98号)では、まったく同じ実験が、
「世間一般の不当な危惧」を払しょくするため。となっています。
我々一般人も容易に閲覧可能な広報誌では、
この事業を阻害する要因が当時の世間一般ということになっているのに、
翌年の我々一般人にはなかなか目に触れない資料では、
この事業に懐疑と不安を抱いていたのが、関係者ときちんと出ている。
これは一体どうしたことでしょうか?

「静岡水産研究百年のあゆみ」と、挙げて下さった二点の参考文献
「S3~13静岡水試事報」、「空駆けた人たち-静岡民間航空史」
の中では、もしかしたら当時の実情が正確に記されているのかもしれませんが、
残念ながらこの三点いずれも静岡県立図書館、清水市図書館の蔵書検索でヒットしません。
我々一般人も容易に閲覧可能な広報誌に記されている内容のフォローにしても、
お膝元の図書館ですら閲覧できないのでは意味がないと思うのですが、如何でしょうか。

最後に「碧水の執筆者とは同じと思います。」について。
「碧水」(1986年12月 第38号)「魚群探見飛行のこと」の執筆者はB氏
「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」の執筆者はH氏 
「碧水」(2004年1月 第105号)「「百周年特別号」の執筆者は記載なし
で、執筆者はバラバラです。
タカアシガニ1号さん仰る「静岡水産研究百年のあゆみ」と同じ執筆者とは、
一体どの執筆者と同じなのでしょうか?
by とり (2015-12-17 07:04) 

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