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神風号亜欧連絡飛行・1 [├雑談]

パリ~東京間百時間懸賞飛行

昭和2年(1927年)リンドバークの大西洋横断飛行により大海賊飛行時代が幕を開けます。

以後数々の大飛行が行われるようになりました。

そんな中、フランスがパリ~東京間百時間以内の飛行に多額の懸賞をかけました。

これは昭和3年のコスト、ル・ブリ両氏による160時間の記録が破られず残っていたためでした。

そしてヨーロッパの著名な飛行家たちがこの記録に続々挑戦。

ところが昭和6年から12年までにヨーロッパの4組の飛行家が挑戦したのですが、

すべて失敗に終わっていました。

昭和6年 マルセル・ドレ氏他2名がシベリアコースで挑戦。ウラル山系に墜落、ドレ以外の2名死亡
昭和9年 ドレド氏が南回りコースで挑むが、ベトナムで中止
昭和11年 ジャピー氏が単身南回りで挑み、パリからのスピード記録を次々更新するものの、佐賀県背振山に墜落し重傷
昭和12年2月 デニス氏による挑戦も失敗

ジャピー氏、なんと佐賀県まで到達していたのに惜しいことをしましたね。

しかもパリから九州まで75時間できていました。

ペース的には余裕で100時間を切りますから、達成目前での事故でした。

日本で手厚い介護を受けたジャピー氏は無事帰国することができ、飯沼飛行士へのアドバイスもしています。

このように故障、事故が相次いだため、懸賞は取りやめとなってしまいました。

 

新聞社とヒコーキ

航空機の黎明期においては新聞社のヒコーキ活用が非常に大きな位置を占めているのですが、

これは遠隔地の取材、撮影にヒコーキを使用していたからで、

情報通信技術の発達した現代とは異なり、原稿や記事の運搬にもヒコーキが使われていました。

そのため飛行機の性能及び飛行士の技量は新聞社にとって大きな意味を持ちました。

ライバル社としのぎを削る状況は現代と変わらずですが、

当時は社有機とパイロットの優劣が紙面そのものを大きく左右したわけです。

そんな中、朝日新聞社は昭和12年(1937年)5月12日にロンドンで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに、

ブリュッセル、ベルリン、パリ、ローマの各国首都親善訪問を併せて行うこととし、亜欧連絡飛行を企画します。

しかも、 東京~パリ間160時間の記録を破るのみならず、東京~ロンドン間100時間記録樹立を計画しました。

懸賞が掛かっていた東京~パリ間よりも更に遠いロンドン(今回の飛行ではパリ~ロンドン間:357km)に

百時間以内に到達しようとしたわけです。

しかも西回りなので風向きは逆です。

 

冒険飛行

東京から遥か欧州への行く手には高い山脈、大砂漠、洋上飛行、強風と悪天で有名な難コースが待ち受けていました。

その過酷な飛行コースにどんなヒコーキで挑んだかといえば、全金属製低翼単葉機。

ここまではいいのですが、レシプロ単発、固定脚。

高い山脈、悪天は現代のジェット機なら高空を飛ぶことでやり過ごすことが出来ますが、

このヒコーキは与圧どころか酸素マスクもありませんから、地形、悪天との悪戦苦闘を強いられることになります。

そして問題なのが航法。

無電は装備しているので地上局と会話はできるのですが、

無電空白地帯、通信途絶があり、ラジオ航法装置もレーダーもありません。

このため航法は基本的に「推測航法」と「地文航法」しかありません。

「推測航法」とは、事前に目的地までの方向と距離を調べておき、

「この方角にこの速度で飛べば、○○分後にはこのあたりの上空に着けるはず」と推測して飛ぶという方法です。

「地文航法」とは、地上と地図と見比べて確認しつつ目的地に向かって飛行するという方法です。

例えばA地点からB地点に飛ぶとして、A地点からB地点までまっすぐ川や大きな道路、線路が伸びていれば、

その上を辿って行けばよいだけなので非常に楽です。

でもそんなに都合の良いコースばかりのはずがありません。

大砂漠、洋上飛行等、ルートの途中に目印になるものがないと大変です。

正しい方向に向かっているのか、それとも明後日の方向に飛んでしまっているのか一切確認することができず、

自分の計算が正しいことを信じてひたすら飛び続けるしかありません。

予定の時間が迫り、地上に目標物を見つけると、「ああよかった。大体合ってた(ホッ)」。

ということを繰り返すことになるのです。

当然のことですが上空は風が吹いています。

横風が吹けば進路が、そして追い風/向い風が吹けば到着予想時刻がどんどんズレていきます。

そして大抵風は斜めに吹きます。

だから、「無風状態なら○分頃つくはずだけど、右に流されてるから時々進路修正して、ちょっと追い風っぽい気がするから、

前もってよく地形を見てないと」などと絶えず計算していないといけないのです。

こんな調子ですから手記の中ではしばしば、悪天、濃霧を避けるため海面スレスレの飛行を強いられたことや、

「○○を右下に見る。予定通りだ」とか、

「コースを外れてをらず、地図の上に引かれた線の上に飛んでゐることを自分で見出した時ほど嬉しいことはない。」

などと書かれています。

また、季節により大きな湖が現れたり消えたりすることもあり、そのことを知らずに地図と照合。などということもあったようです。

こんな航法で遥か15,000km先まで(しかも急いで)飛ぼうとしたのです。

後述しますが記録飛行から2年後、このヒコーキは悪天から現在地が分からなくなってしまい、

地上局への援助も求めつつ天気の良かった出発地に引き返すことにしたのですが、

出発地周辺も天候が変わり、日没と強風のせいもあってなかなか現在地を特定することができないまま刻々と時間が過ぎてゆき、

とうとう燃料切れで不時着してしまいます。

この事故で乗員1人が行方不明、機体は廃機となってしまいます。

これは自国領空での出来事でした。自国内ですらこんな危険と隣り合わせなのです。

加えて単発機ですから、山岳地帯、大砂漠、洋上飛行中のエンジントラブルは即遭難死と直結します。

現代から見れば、「よくこんなヒコーキで挑戦しようとしたものだ」と思ってしまう代物でした。

この冒険飛行、何に例えられるだろうかといろいろ考えてみたのですが、

このリスクは日本ではもう味わうことのできないものなのではないでしょうか。

 

キ-15

この記録飛行に使用された機体の開発経緯についてですが、元々は陸軍の新型偵察機として開発されたものでした。

機体の考案者は陸軍きっての名パイロットと称され、陸軍航空研究所で航空機の研究をしていた藤田氏。

これまでの偵察機の概念を一新する戦略偵察機なるものを考案し、設計製作を三菱に依頼しました。

藤田氏が示した要求事項は、

・常用高度:2,000~4,000m
・行動半径:400km以上
・最大速度:450km/h以上  

というものでした。

依頼を受けた三菱は二十数人を動員して設計に取り掛かり、

「速度と航続距離を追求し戦闘性能を廃した航空機」として開発が進められました。

低翼単葉全金属製モノコック構造を採用、徹底的に軽量化を計り、空気抵抗の少ない枕頭鋲、速度と航続距離を伸ばす薄い翼、

脚は当時三菱で引き込み式の採用が始まっていたのですが、敢えて固定式を採用しました。

これは翼内を燃料タンクとして確保すると共に、不時着時の脚の強度確保、そして軽量化を追求した判断でした。

風洞実験結果により自社の二重星形の「金星」より成績の良かった中島飛行機の単列星形の「寿三型」550馬力を採用。

「三菱製の機体に中島の発動機」という組み合わせは昭和14年初飛行の零戦と同様ですが、

零戦は当初自社製の発動機を積む予定だったのに、軍からの指示で中島製にしたという経緯があります。

自社製に拘らず、ともかくその時点で最高の国産機を。という意図が感じられますね。

こうして昭和11年(1936年)5月、三菱重工名古屋航空機製作所で試作一号機(キ-15)が完成します。

諸元は、全幅12m、全長8.21m、最高速度500km/h、航続距離:2,500km、全重量2,300kg というものでした。

試験飛行の結果浮かび上がった問題点を改善した試作2号機のテストを行い、

昭和12年(1937年・皇紀2597年)5月、陸軍最初の司令部偵察機、九七式司令部偵察機(キ15-I)として制式採用されました。

この機体は昭和16年(1941年)まで生産が続けられ、総生産機数は437機でした。

そして朝日新聞社はこの機体に目をつけます。

「速度と航続距離を追求し戦闘性能を廃した航空機」というコンセプトが記録達成にうってつけと考えたのでしょう。

本機の試作2号機の払い下げを陸軍に依頼し、受領します。

この機体は制作してから三菱の山口操縦士による試験飛行が1時間ほど行われた後、

朝日新聞社が受領して飯沼操縦士による3月25日の初飛行から記録飛行が終わるまで、

操縦席には飯沼操縦士しか座って飛んだことがありませんでした。

因みにこの機体の依頼主となった藤田氏は、

飛行記録を達成することになる飯沼飛行士の所沢飛行学校時代の恩師でもあります。

藤田氏から飛行術を学び、恩師の考案した機体で大記録に挑んだのですね。

 

企画の告知

朝日新聞は昭和12年(1937年)元日の紙面でこの企画を華々しく発表しました。

以後紙面上で詳細が知らされることになります。

1月20日の紙面ではコースを南方コースとすること、実施を4月上旬とすること、搭乗する飛行士、機関士が発表されました。

2月4日の紙面で使用機の機名募集を行い、53万余通の応募がありました。

そして2月24日の紙面で「神風」と決まったことが発表されました。

同月26日の紙面では飛行距離15,000kmに及ぶロンドンに至る経由地の発表がなされました。

飛行時間当て懸賞も行われ、これには4,745,791通という、社の新聞発行部数の2倍を超える応募がありました。

結果として朝日新聞は発行部数を大きく伸ばすことになりました。

この挑戦飛行に対する国民の反応は非常に熱狂的なものがあり、

全国に声援会組織ができ、市町村、学校単位で成功祈願祭が行われ、激励の手紙類が殺到し、

飯沼飛行士の郷里では成功を祈願して小学生が15,357本の幟を神社境内に立てたのでした。

「欧州の美しい街々を見物出来る位の気持ちで引き受けたのに、

出発の日が迫るにつれなんだかとんでもないことになってしまい、

これは相当えらいことを引き受けてしまったと不安な気持ちになってきた。」

飯沼操縦士は当時の心境をそう綴っています。

 

操縦士

この大飛行に抜擢されたのは、朝日新聞航空部所属の飯沼正明操縦士(24)と塚越賢爾機関士(36)でした。

飯沼操縦士は大正元年、長野県南穂高村生まれ。

昭和6年、松本中学校卒業、逓信省第11期陸軍委託操縦生として所沢飛行学校入学

昭和7年に朝日新聞航空部員として入社

昭和9年には北京訪問飛行に成功、昭和11年には台湾から東京まで10時間31分という国内新記録を樹立

それでも世界的にはまったく無名の飛行家でした。

氏の一面を偲ばせるものとして「航空随想」という本があります。

これは飯沼操縦士が記録飛行の後に記したものなのですが、この本はこんな一文で始まっています。

「私の書いたものが出版される、考へても恥しいことである。

(中略)今度の飛行などは、現在の航空日本の第一線に活躍して居る操縦士なら誰でも、より好い成績で出来ることである。」

 

一方、機関士を務めた塚越賢爾は明治33年(1900年)群馬県に生まれました。

小さい頃から機械に興味を抱き、日本自動車学校航空科を卒業後、第一航空学校にて三等操縦士の免状を取得。

第1回逓信省航空局委託機関学生合格、東京府立工芸学校、所沢陸軍飛行学校に学び、

昭和2年(1927年)朝日新聞入社し航空部員となりました。

飛行機に関する知識や技術力は社内で重宝され、

一等航空機関士・二等操縦士・航空通信士・二等航空士の免許も併せて所持する博識多芸な人物でした。

飯沼操縦士は塚越機関士のことを、

「研究家で勉強家で、恐らく乗務員の機関士としては日本一であろうと思う。

私が血気盛んで目茶苦茶に飛ぶのを、老練な塚越機関士が引き締めていくのでいいコンビだといわれるが、

時には私より勇猛で、また頑張ることがある。」

と書いています。

2人は同じ子年産まれで塚越氏の方が一回り年上でした。

同じ社の先輩後輩であり、この記録飛行で広く知られることとなる名コンビで、

宿泊先で部屋が別々だと、わざわざベッドを担ぎ上げて同室で寝る程の仲なのでした。

 

(続きます)


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コメント 2

セバスちゃん

百時間のロマンを感じつつも、ダブルシーザーサラダなオジさんが
頭から離れません。あー、駄目ですね・・・。

by セバスちゃん (2013-05-15 20:58) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■セバスちゃんさん
あのおじさんはインパクトありましたからね。
ファミレスに行くと、オイラも挑戦してみようかという気になることがあります。
やりませんけど。
by とり (2013-05-16 05:23) 

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