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横浜水上(高知)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2014年06月 訪問 

無題8.png

高知県‎高知市‎横浜‎にあった「横浜水上(高知)飛行場」。

浦戸湾に突き出した四角の部分(A)は(海面に出ているのはオレンジで囲った部分のみ)、水上機用の格納庫跡で、

これとその横で海面に突き出した水上機係留用の石柱(←部分)が、ここに飛行場があった頃の名残です。

Aの四角の大きさをグーグルアースで測ってみたところ、南北方向38m、東西方向43mでした。

 

当飛行場の竣工は昭和6年8月のことで、

主に利用していたのは「高知義勇航空輸送研究所」とその付属の「高知航空学校」、そして海軍でした。

海軍は地元漁業関係者を権力でねじ伏せ、開設を推進させたのだそうです。

竣工から2年後の昭和8年4月に高知新聞社航空部が発足し、新聞創刊一万号となる同年6月17日に

海軍から中古の水上偵察機二機を購入し、月見台西に格納庫を建設しました。

この格納庫の土台部分が今も残っている訳です。

当地は海岸線すぐ側まで山が迫っており、

堤防の続く海岸線に沿って、車がすれ違える程度の道路が設けられているのみです。

平坦な場所が少ないため、海面に突き出す形で格納庫を設けたのではないかと思います。

大阪から記事と写真の空輸をすることが目的で、「航空機でいち早く情報を」ということ自体は、

交通、通信未発達の当時の新聞社が普通に採用したやり方だったのですが、

地方紙としては、高知新聞社の当飛行場が全国に先駆けてのものだったようです。

水上機はクレーンで陸揚げし、格納庫へ格納されていましたが、高知新聞社以外の水上機は海上に係留させていました。

高知新聞が当飛行場を使用し始めてから3年後の昭和11年10月、日本航空輸送株式会社が当地に出張所を開設しました。

水上機による徳島経由大阪行きの旅客輸送を開始したのです。

当時の運賃は高知-徳島間が11円、大阪間が19円で、はりまや橋待合所から毎日送迎バスを運行していました。

ところが旅客輸送開始から3年も経たない昭和14年8月、国策による官民共同の「大日本航空会社」が発足すると、

日本航空輸送社は解散し、高知の旅客輸送も休止してしまいました。

高知新聞航空部も徴兵により部員が取られ、消滅してしまい、事実上、横浜水上飛行場の歴史も幕を閉じたのでした。

高知新聞社の格納庫は戦後、「四国建機株式会社」が工場として利用していましたが、

90年代に同社は撤退し、格納庫も撤去されました。

 

「高知航空史」に当飛行場の事が出ていました。

「新聞紙面というのは、おおむね県内ニュース4割、国内と世界のニュース6割で構成される。東京、大阪からのニュースだと、記事は電話で遅れても、写真は郵送や汽車便を待つほかない。新しいニュースが載っても、写真はない。写真が載った時、もうニュースは古くなっている(高知新聞社の岡山-高知間電送写真開始は1937年3月22日)。そこで大阪-高知間、記事と写真を空輸しようというのが、水上機購入のおもな目的だった。(中略)水上機は…2式複座水上偵察機を払下げてもらった。同機種は戦艦、巡洋艦などに搭載して偵察に使っていた。3人乗りで、5時間の航続力を持つ。上昇力が強いので、短い水上滑走で離水できた。海軍が必要としたとき、いつでも返納に応ずるという条件がついていた。(中略)水上飛行場として浦戸湾の西岸、吾川郡長浜町横浜の月見台と巣山を見通した線から西の水域が設定された。これには、当然、船舶運航、漁船出入りに制限が加わるため、強い反対の声も出たが、海軍、内務当局のバックアップがあって実現にこぎつけた。横浜の海岸を本格的な工事で埋め立て、格納庫も完成した。2機は、高新第1号、同2号と命名された。高新号の配備をきっかけに、横浜は水上機の基地的性格を強めていく。軍用や民間の水上機の離着水にはここが使われた。1936年、日本航空輸送株式会社が水上旅客機により大阪-徳島-高知間の定期旅客輸送を開始した際、高新機格納庫の隣に発着場ができた。海軍指定のガソリン貯蔵所が建設され、1日10機を補給できる燃料が貯蔵されていた。1940年2月には、ここに高知航空無線電信局も置かれるのである。」

同じく「高知航空史」に当飛行場での旅客輸送についても出ていました。

「1936年10月1日から水上旅客機が毎日運航で飛んだ。旅客のほかに航空郵便も輸送した。(中略)使用機は、フォッカー・スーパーユニバーサル水上旅客機が使われた。単発、高翼、単葉、ジュピター420馬力エンジンを装備、旅客6人、乗員2人を乗せ、最高時速235キロ、巡航時速185キロ、航続5時間という性能を持っていた。当時、世界で最も安全性に優れた、操縦がしやすく、信頼できる旅客機といわれた。同機種は、オランダ人フォッカーの設計だが、アメリカのアトランチック社がライセンス生産していた。日本航空輸送株式会社が6機購入し、1929年から国内線に使い始めた。水陸交換式で、陸上用にも水上用にも使えた。その後、中島飛行機株式会社がライセンス生産を始め、1931年に国産1号機を完成、陸軍、海軍向けを含み40機以上が作られた。日本の航空定期旅客輸送を本格化した旅客機といえる。」同書には当飛行場の写真が載せられており、海上に張り出した四角の高知新聞社格納庫の東側の海岸に水上旅客機発着場が設けられ、フォッカー・スーパーユニバーサル水上旅客機が2機浮かび、大勢の人が集まっている様子が映っていました。

 

D20_0067.jpg

・A 高知新聞社水上機格納庫跡

新聞社以外の水上機は、格納庫の手前側の海上に係留していました。

 

D20_0070.jpg

海岸線に沿ってずっと堤防が続いており、格納庫跡に立ち入ることが出来ません。

この格納庫跡のある位置の堤防裏手に回ってみると-

 

D20_0075.jpg

こんな感じ。

 

D20_0074.jpg

 

D20_0066.jpg

上図(←)部分。

水上機係留用の石柱が海面に顔を出しています。

 

横浜水上(高知)飛行場跡地 map   


      高知県・横浜水上(高知)飛行場跡地      

アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和10年」の中で当飛行場が出ていました。「高知飛行場(水上)高知縣吾川郡長濱町大字横濱孕小脇三番地ノ五(滑走区域:東西七〇〇米・南北650米)」アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

横浜水上(高知)飛行場跡地 データ
設置管理者:高知新聞社(格納庫部粉)
空港種別:水上機用飛行場
所在地:高知県‎高知市‎横浜‎
座 標:N33°31′46″E133°33′33″
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1931年08月  飛行場竣工
1933年04月 高知新聞社航空部が発足
     06月 17日 海軍から中古の水上偵察機二機を購入。格納庫建設
1936年10月 01日 日本航空輸送、高知~徳島~大阪線開設
1939年08月 国策による官民共同の「大日本航空会社」が発足。日本航空輸送社解散、高新航空部消滅

関連サイト:
戦争遺跡ハイキング(16)横浜水上飛行場   
ひまわり乳業株式会社/浦戸湾、月見台横の不思議なオブジェ    
国土地理院 1947年12月当時の写真(USA M692-1-1 81) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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コメント 2

Takashi

水上機を係留。後々のメンテナンスが大変そうですね。
厚木のP-3Cも着陸後に噴水みたいな装置で機体洗浄をしていました。
それだけ海水の影響があるんだと思います。
by Takashi (2014-09-08 23:02) 

とり

■Takashiさん
>P-3C
水上機でもないのに(@Д@)
潜水艦探すときはどの位の高度で飛ぶのかしらん。
長い目で見ると、やっぱり塩分大敵ということなんでしょうね。
ありがとうございました。
by とり (2014-09-10 04:57) 

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