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山鹿(竈門、赤穂原)秘匿飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

   2013年10月訪問 最終更新日:2017/6/19  


無題6.png
1947年4月(USA M198-2 134) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎玉名郡‎和水町‎竈門‎にあった「山鹿(やまが)飛行場」。

「竈門(かまど)秘匿飛行場」、「赤穂原(あこばる)飛行場」、とも呼ばれました。

この飛行場跡地はあさんのおかげで場所特定できました。あさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

上図は「菊水町史 通史編」の「赤穂原飛行場余聞」に載っていた地図を参考にさせて頂きました。

滑走路の西側には、滑走路と同程度の幅と長さの畑地が接するように設けられ(滑走路に接する薄い線)、

敵機から発見されないよう工夫していました。

畑地北端には飛行機を隠す場所が設けられ、滑走路東側に重機が置かれました。

また滑走路中心付近に排水施設、畑地の西側には作業本部、杉の木を利用した高さ約20mの見張り台、

休憩所などがありました。

飛行場西側の橋は、建設当時洪水で流されており、仮橋を架けて地域の人たちに感謝されたのだそうです。

将兵はこの橋を渡って飛行場に通いました。

また、昭和20年6月頃、10機位のB29が編隊を組んで竈門上空を飛行した際、

陸軍の隼戦闘機が2機後ろから追いかけてきたので、

それを追い払うためにB29が機銃弾2発を発射し、1発は竈門の砂利道に落ちて穴が開き、

もう1発は民家の屋根を突き抜けて部屋の床下に落ちるという一件がありました。

 

飛行場建設には軍人約200人(将校2人、見習士官3人、その他30~40歳代)、

それに朝鮮の人たち約200人が杉の伐採や開墾に従事しました。

ブルドーザー、ローラーも数台ずつ使用しました。

軍人は川沿国民学校講堂(現在の菊水西小学校)や長小田の集会場に、

朝鮮の人たちは東郷国民学校校舎(現在の菊水東小学校)に宿泊しました。

川沿村の男・女青年団員約20人が地ならし作業の手伝いをし、長小田など各地から現場まで弁当持参で

10回以上自転車などで通い、朝八時半~夕方五時頃まで作業したのだそうです。

 

「九州の戦争遺跡」によれば、飛行場建設の際、西にある菊池川の河原から石を運んだのだそうです。

飛行場は敵の軍用機が着陸できないように、トロッコのレールを数メートルおきに並べてあり、

カモフラージュのために、木の板で作った植木鉢に繁殖力の強いヨモギを植えてありました。

その鉢には日本の軍用機が着陸するとき、すぐにスペースを空けられるように、

移動に便利な取っ手がついていました。

また、着陸した友軍機を隠す場所が十か所ほど設けてありました。

川沿校から飛行場まで将兵が通る道筋は決まっていて、飛行場に一番近い民家にラジオがあることを知っていた兵隊たちは、

終戦の詔勅の「玉音放送」のときに、その家の土間に30人ぐらいがどっと入ってきて放送を聴いていました。

なかには涙する人もいたのだそうです。

その後、20日頃に、海軍飛行隊の教官だった人が複葉機に乗って着陸復員したという一例だけが、

当飛行場の実績なのだそうです。

飛行場ができるのはよいのですが、花房飛行場のグラマンによる空襲を知っていたため、

地域住民が一番心配していたのは空襲でした。

 

「広報やまが」2012/10/1号に「ふるさと歴史探訪 山鹿にも残る第二次世界大戦戦争遺跡」という記事の中でも

当飛行場のことが扱われており、

「米軍の九州上陸が迫る中で、 米軍の上陸時には特攻機発進基地となるはずでした。 花房、 大浜、 健軍(熊本市) 、 など既存の飛行場は米軍からの攻撃で機能を失うことが予測されたため、「秘匿飛行場」 が必要だったのです。 この他にも西合志(現在の合志市) 木原野(きばるの)にも同時期に同様な飛行場(植木秘匿飛行場) が建設されています。 しかし、 いずれの飛行場も形は完成したものの、実際に航空基地として使われることなく終戦を迎えました。 」

と記されていました。

D20_0109.jpg

ここから滑走路が伸びていたはずです。


      熊本県・山鹿(竈門、赤穂原)秘匿飛行場跡地     
大正10年のワシントン軍縮条約で廃棄されることになった水上機の巨大な木製プロペラが、この地域出身の大久保中佐の奉納により、飛行場すぐ西にある竈門神社社殿の天井に今もあるのだそうです。

山鹿(竈門、赤穂原)秘匿飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
空港種別:秘匿飛行場
所在地:熊本県‎玉名郡‎和水町‎竈門‎
座 標:N33°00′28″E130°36′45″
滑走路:750m?
磁方位:02/20
*座標、滑走路長、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1944年 秋頃5人位の軍人が測量開始。個人所有の畑、杉山を強制収用して約5haの土地を切り開いた
1945年 2月 玉名飛行場から近隣の江田国民学校に複葉練習機2機が運ばれる
      6月 完成。植木飛行場工事に携わった陸軍第7056部隊200人、朝鮮人100人
          この頃当飛行場上空でB29と隼の空中戦。付近に機銃弾が2発落下
      8月 終戦前に完成していたと思われる。20日頃、練習機で復員した海軍機があった

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
菊水町史 通史編1129~1131p
広報やまが 2012.10.1 14p
熊本の戦争遺跡 戦後65年25p
九州の戦争遺跡


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コメント 2

tooshiba

ごぶさたしております。
お元気そうでなによりです。
今は九州編なのですね。愛車での全国行脚、頭が下がります。m(_ _)m
by tooshiba (2013-11-03 02:13) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■tooshibaさん
こちらこそご無沙汰しておりました。
また今後とも宜しくお願い致しますm(_ _)m
by とり (2013-11-04 10:27) 

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