So-net無料ブログ作成
検索選択

東京羽田飛行場(1931~1939) [├国内の空港、飛行場]

  2016年3月 訪問 

少し前の記事:「三本葭飛行場跡地」に書いた通り、

相羽有氏と玉井清太郎氏により開設した日本飛行学校の「三本葭飛行場」は、大正6年10月の台風で壊滅してしまいます。

相羽氏は資金集めの為一時航空界から身を引き、

もう一方の、兄清太郎の遺志を継いだ弟の玉井照高も大正10年11月末に横浜市鶴見区生麦の「玉井飛行場」に移転。

こうして羽田はしばしの空白期を迎えることになりました。

「日本民間航空史話」で相羽氏ご本人が「三本葭飛行場」から身を引いたその後について記しています。

それによれば、相羽氏は資金集めのため、自動車学校創立、出版事業、米車輸入元となり、巨利を得ました。

そしてそんな頃、陸軍の「立川飛行場」が建設され、西半分は草原で遊ばせていたため、

草刈りをする条件で使用許可を得て格納庫を作り、東京府からの公認も得てここに日本飛行学校が再開したとあります。

 

一方の羽田ですが、再び飛行場として注目されることとなります。

「日本民間航空史話」に相羽氏が記した続く部分によれば、

昭和4年(1929年)、羽田穴守が「東京国際空港」の適地として目を付けられ、

鴨猟場の北側の埋立地、16万坪を1坪10円で買収し、ここに南北の方向に600m滑走路1本が昭和6年に完成。

そして相羽氏には、「日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だから」ということで特別の承認を得て、

民間飛行学校と土地が割り当てられました。

(「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」によれば、「逓信省航空局が民間用飛行場を開設」とあります)

 

大正6年(1917年)10月の台風で壊滅してしまい、資金集めの為一時身を引いてから、昭和6年(1931年)の飛行場完成まで、

14年、相羽氏は再び羽田に戻ってくることになったのです。

この時の心情をご本人が「日本民間航空史話」の中でこう綴っています。

「大正五年、三本よしの干潟に発祥してから、拮据経営、実に十五年の歳月であった。あらゆる困難を踏み越え、有為転変の世の中に浮きつ沈みつ、よくもここまで来つるものかと、感慨は無量であった。」

 

無題3.png
1936年6月当時の写真(B8 C4 82) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

これが建設された羽田空港。

相羽氏と玉井氏が飛行学校を構えていた場所の北約530mに当たります。

相羽氏は割り当てられた土地に鉄骨格納庫、教室その他を整備。

ここに東京航空株式会社を創立し、フォッカー式や愛知式AB一型の水上旅客機を使い、羽田を拠点として、

伊東-下田-沼津-清水港への定期旅客郵便航空を開始し、政府から補助金を与えられました。

この辺のところは以前の記事 で書きましたが、清水の三保飛行場の根岸氏の話と繋がりますね。

「水路部 航空路資料 関東地方飛行場及不時着場 昭和18.8」の中に「東京飛行場」の詳しい地図がありました。

上の航空写真で飛行場西側にピョコンと飛び出した部分が見えますが、この部分は地図に「水上機滑走台」と記されており、

そこから一列に並ぶ格納庫は、一番西の端から順に、

「航空局第二格納庫」、「東京毎日新聞社格納庫」、「東京航空株式会社格納庫」…と記されています。

ここに水上機を格納してあり、飛行の際は滑走台に移動していたんじゃないでしょうか。

しかし羽田空港に水上機の定期便が飛ぶ時代があったのですね~。

 

 

グーグルマップに落とすとこんな感じ。

横風用B滑走路04エンドのすぐ西側の場所で、

海上保安庁、コンパスエリア、Nスポットのずらりと並ぶNエリアを含む、旧整備場地区に当たります。

ここから現在の羽田が始まったのですね~。

 

この羽田飛行場の面積と滑走路の長さについてですが、

「日本民間航空史話」の相羽氏:「十六万坪、南北の方向に六百メートルの滑走路」
サイト「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」:「面積53haに延長300mの滑走路1本」
「全国空港ウォッチングガイド」:「15万8千坪、滑走路300x15m」

とあります。

まず面積ですが、16万坪≒52.89ha なので、三者ともほぼ同じ広さを記していることになります。

で、滑走路の長さなのですが、これは600mと300mで倍も違っています。

グーグルアースで測ってみると、当時の東京羽田飛行場の敷地の南北方向の長さが610mでした。

そして先頭の1936年の航空写真、南北に白く浮いている部分全体で460m。

ターニングパッドは滑走路に含めないとすると、380mでした。

上の写真の南北に走る滑走路、かなり細いので、当初実はコレ、誘導路じゃないのかしらんとも思っていたのですが、

「全国空港ウォッチングガイド」に「滑走路300x15m」とあり、作図したグーグルマップで幅を図ってみたら、ピッタリ15mでした。

ということで、やっぱりこの白い部分が滑走路ということみたいです。

しかし細いですね(←まだ言ってる)。

沿革にまとめましたが、羽田は続々日本各地を結ぶ定期便が開設されることになり、 国際空港ともなりました。

こうして昭和6年、細っっそい滑走路1本で始まった「東京羽田飛行場」は、その後昭和15年に拡張して名称も変更となります。

続きは次の記事で。

DSC_0035a.jpg

DSC_0037.jpg

(2枚とも)旧整備場地区。

関係者以外がウロウロしてよい雰囲気ではありませんが、特に立ち入り禁止等の表示はありませんでした。 


      東京都・東京羽田飛行場     

東京羽田飛行場 データ

設置管理者:逓信省(「全国空港ウォッチングガイド」には「政府が建設」とあり)
所在地:東京都大田区羽田空港1丁目
座 標:N35°33′28″E139°45′32″
標 高:10m
面 積:53ha
滑走路:380m×15m?
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1930年 2月 土地買収、逓信省航空局が民間用飛行場着工
1931年 4月1日 東京航空輸送、東京~清水線定期航空便開設
      8月 東京飛行場開場。日本航空輸送の定期便が立川陸軍飛行場から移転
      最初の外国機ユンカース・ユニオールがベルリンから到着
1933年 11月 日本航空輸送、東京~大阪間の夜間飛行開始
1935年 5月 東西定期航空会、東京~新潟~富山~大阪線開設
1936年 10月 日本航空輸送、東京~新潟線、東京~富山~大阪線など開設
1937年 4月 日本航空輸送、札幌線の定期便開設
      6月 日本航空輸送、中島式AT型機で東京~福岡~京城~新京(現・長春)線開設
1938年 10月 日本航空輸送、北京線開設

関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「郷土つるみ第58号」
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」


コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL: