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東京飛行場(1940~1945) [├国内の空港、飛行場]

  2016年4月 訪問 

無題4.png 1944年11月当時の写真(8926 C2 13) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

前記事の通り、1931年に約300mの滑走路1本で開場した「東京羽田飛行場」でしたが、

「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(下記リンク参照)によれば、

1940年に拡張工事を行い、名称が「東京羽田飛行場」→「東京飛行場」に変更となりました。

また、「海軍航空基地現状表(内地の部)」でも1940年建設、滑走路(1,000mx75m)x2とあり、

日本海軍航空史:「終戦時の内地航空隊、航空基地」でも滑走路(1,000mx75m)x2の海軍飛行場として図示されています。

羽田空港は一時期、海軍の飛行場だった時代があるのですね。

(一部の資料では「1942年に陸軍が接収」という記述あり)

「全国空港ウォッチングガイド」には「滑走路は800x80mの2本を十字型に配置」とありました。

上の写真は拡張工事から4年後のもの。

最初の細い滑走路がまだ残ってますね。

「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」の中に東京飛行場の詳しい図があり、

上の写真に赤字で情報を加えてみました。

 

グーグルマップに落とすとこんな感じ。

上述の通り、滑走路の長さは資料により、(1,000mx75m)x2とも、(800x80m)x2とも記されているのですが、

先頭の航空写真の通りに作図してターニングパッドを含めると、(830mx70m)x2でした。

飛行場敷地が南側に拡張した結果、 「三本葭飛行場」時代の飛行学校まであと150mのところまで迫っています。

また、敷地南東部分は、B滑走路、誘導路T-3,T-4,T-5まで達しています。

こうして徐々に拡張していった「東京飛行場」だったのですが、終戦と共に米軍に接収されてしまいます。

その時のことを、ここに飛行場が出現するきっかけとなった相羽氏本人が、「日本民間航空史話」の中でこう記しています。

「昭和二十年、終戦とともに、米軍命令で、えびとり川以東の穴守一帯は、稲荷神社、数百戸の住居全部が一夜にして立ち退きを強制された。弁天橋と稲荷橋も交通を遮断された。この前代未聞の不測の運命に泣いた方々に、ここに半世紀前に飛行場を創始したことに発端することを顧み、申しわけないと思っている。 」

米軍に接収された「東京飛行場」は「ハネダエアベース」となり、大変貌を遂げることになります。

続きは次の記事で。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:東京 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1000x75x2アスファルト 主要機隊数:小型練2.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:指通?土中式燃爆場?分解 掩体:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:飛行場ハ逓信省陸軍ト共有建物ハ□□(判別できず)海軍施設


      東京都・東京飛行場     

東京飛行場 データ

設置管理者:逓信省→海軍
所在地:東京都大田区羽田空港1丁目
座 標:N35°33′22″E139°45′37″
標 高:9m
面 積:80ha?
滑走路:(830mx70m)x2?
方 位:09/27,18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位、面積はグーグルアースから)

沿革
1939年 隣接地を買収して拡張。滑走路十字型に2本新設
1945年 9月 米軍による接収を受け、拡張開始

関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
「終戦時の内地航空隊、航空基地」
「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」


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