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東京陸軍航空学校滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2014年06月 2015年7月 訪問 

2015/7/20追記:碑の写真を追加し、テキストを修正しました。

無題4.png

東京都‎武蔵村山市大南。

住宅が立ち並び、公園、学校などがある静かな場所ですが、

かつてここに「東京陸軍航空学校」(後の少年飛行兵学校)がありました。

おおよそですが、学校の敷地の範囲を切り出したのが上の地図です。

敷地北側には当時滑空場がありました。

この滑空場の正確な位置は不明なのですが、資料を探すと、

「滑空場は大南2丁目周辺にあった」という記述があります。

学校の敷地内で大南2丁目の部分、そして1941年の航空写真(下記リンク参照)で畑等滑空場に適さない部分を除いたのが、

上図のオレンジの太線部分です。

「滑空場は大南2丁目周辺にあった」という微妙な表現のため、

大南2丁目からは外れるものの、学校敷地内で当時更地になっていて、

滑空場適地と思われる部分をオレンジの細線で囲いました。

太字の部分が怪しいのではないかと思っているのですが、しもかすると細線の部分も含めて滑空場だったのかもしれません。

太いオレンジ線、細いオレンジ線で囲った範囲の南側は、学校の諸施設が立ち並んでいるのが当時の写真で確認できます。

 

D20_0056.jpg

・A地点。

滑空場があったと思われる方向。

 

D20_0017.jpg

・B地点。

飛行学校本部校舎の跡地。 

 

D20_0018.jpg

碑の下部(全文):建立の趣旨 ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充要請により、昭和十三年、この地に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校した。終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた戦没者は四千五百余柱を数う。昭和三十八年、ここに陸軍少年飛行兵戦没者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてきたが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺に遷座することとなった。若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立し、これを長く後世に伝えるものである。平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会

横に設置された説明版(全文):
武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満十四歳から十七歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練などの術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が修了すると、適性検査の後、操縦、整備、通信の各分野に分かれた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会

 

D20_0001.jpg

・C地点。

飛行学校正門跡に建立された碑。

説明版全文:武蔵村山市指定旧跡 東京陸軍少年飛行兵学校跡地 指定第二十一号 平成十九年七月十日指定 この「東航正門跡」石碑の建っている場所には、かつて東京陸軍少年飛行兵学校の正門がありました。東京陸軍少年飛行兵学校は、陸軍航空併用制のため、昭和十二年(一九三七)十月、熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍航空学校として開校しました。翌昭和十三年(一九三八)九月、村山村中藤(現在の武蔵村山市大南三・四丁目)の立川陸軍飛行第五連隊射爆場跡に二十万坪(約六十四万㎡)の敷地を得て移転してきました。その後、昭和十八年(一九四三)三月の陸軍少年飛行兵学校令公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校と名称を改めました。当時の様子を留める建物は現在残っていませんが、かつての少年の飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をととめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。平成二十一年三月 武蔵村山市教育委員会

 

D20_0004.jpg

説明版の写真 

 

D20_0005.jpg

碑の裏側はこんな。

(全文)昭和十三年九月 東京陸軍航空学校(のち東京陸軍少年飛行兵学校)が開校されこの地が正門跡地である 陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第六期生から第二十期生まで二万八千名が誠忠の志高く青春の全てを捧げ祖国の安泰と繁栄を念じて日夜心身を練磨した地である 平成十一年四月吉日 武蔵村山市

 

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碑のすぐ近くにある標識。 

 

D20_0011.jpg

手前から奥に向かう道が「東航通り」。

(暗くてよく分からないですけど)画面左端にあるのが、ここが学校正門跡に建立された碑。

先に進む方向が学校中心部です。

 

東京陸軍航空学校滑空場跡地 map   


      東京都・東京陸軍航空学校滑空場跡地      

東京陸軍航空学校滑空場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:滑空訓練場
所在地:東京都‎武蔵村山市‎大南‎2丁目‎
座 標:N35°44′20″E139°24′14″
着陸帯:400m×130m?
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1934年     所沢陸軍飛行学校に少年航空兵の一期生入校
1937年10月 熊谷陸軍飛行学校内に東京陸軍飛行学校開設
1938年08月 村山村中藤(現在の大南3,4丁目)に新校舎完成
      09月 村山村中藤の新校舎に飛行学校移転
1943年03月 名称を東京陸軍少年飛行兵学校に変更
1945年04月 村山国民学校(現市立第一小)に対し、将来空襲で校舎が使えなくなった場合の校舎使用申し入れ
      08月 終戦。直後から食糧難に備えて中藤地区の農家等に分割払い下げ
      11月 陸軍少年飛行兵学校令の廃止を受け廃校
1963年     慰霊碑建立
1966年     都営住宅村山団地誕生
2007年07月 武蔵村山市教育委員会、市の文化財に東京陸軍少年飛行兵学校跡地を旧跡として指定

関連サイト:
武蔵村山市立歴史民俗資料館報 第47号     
Wiki/東京陸軍航空学校   
国土地理院 1941年6月当時の写真(X1 C6 278) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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