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倉吉(高城)秘匿飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2012年10月 訪問 

無題3.png

鳥取県‎倉吉市を走る県道34号線。

下福田~横田にかけて約1,800mの直線なのですが、戦時中ここが「倉吉(高城)秘匿飛行場跡地」として使用されていました。

1948年当時の写真(下記リンク参照)で見てもこの部分は直線になっており、

実際にこの直線道路をどの程度滑走路として使用していたかは不明なのですが、

一応直線部分を囲ってみました。

それからオレンジ部分は現在久米中なのですが、当時はこの辺りが駐機場だったのだそうです。

 

2014/3/8追記:毎日新聞2013年08月07日地方版にて当飛行場の記事が載りました。

当時をよく知る地元の方のインタビューを交えて伝えています。以下記事から要約。

 役場に数人の軍人が訪れ飛行場建設について一方的に通告。約15軒あった予定地の住民には退去命令が出され、僅か3日後には引っ越しが始まった。高射砲の薬きょう作りに従事していて、久しぶりに下宿先から帰ると家が無くなっていて驚いたという方も。
 建設場所は▽長い直線道路がある▽近くに民家が少ない▽周りが山に囲まれている−などの理由で決まった。地元住民はもちろん、西は米子市淀江町、東は鳥取市気高町浜村などからも作業員が汽車に乗って通ったという。約500人が雨の日も休まず、軍の監視下で毎日、突貫工事に従事した。作業は全て人力。近くの河原から掘り出した石や、丘を削った土をリヤカーなどで運んだ。8月10日、延べ約12万人を動員し飛行場は完成。コンクリートは使われず、土を盛っただけの簡素な飛行場だった。
 飛来第一陣は九州の飛行場から、米子市の飛行場などを経由して降りた中間練習機、通称「赤とんぼ」。18〜19歳の少年が操縦し、四国沖に襲来が予想される敵艦隊に特攻攻撃を仕掛ける想定だった。「(練習機の)赤とんぼで戦闘するなんて、おしまいだ。最後のあがきだと思った。」
 終戦後、飛行場の土地は元の住民に返されが、戦後の混乱で飛行場のまま返され、住民は自力で元の状態に戻したという。滑走路の盛り土を中央部分に集めたため、現在の県道は周辺より盛り上がっている。

 

D20_0119.jpg

・A地点。

真っ直ぐです。

建設は本格化した段階で「り号演習」へ切り替えられ、1日500人、延べ12万人を動員して行われました。

内容は、国府河原の石を掘り出し、モッコで運び、地面を固める。久米が原台地の赤土の運搬。というものでした。

 

倉吉(高城)秘匿飛行場跡地:map  


      鳥取県・倉吉(高城)秘匿飛行場跡地     
終戦間近の完成だったためか、赤トンボが10機着陸したのみだったのだそうです

倉吉(高城)秘匿飛行場 データ
空港種別:秘匿飛行場
所在地:鳥取県‎倉吉市‎下米積‎
座 標:N35°25′23″E133°45′55″
滑走路:1,800m?
磁方位:11/29
*座標、磁方位はグーグルアースにて算出

沿革
1945年
05月06日 高城村役場に数人の軍人が訪れ「横田から下福田を滑走路とする飛行場を作る」と通告
   09日 飛行場予定地住民の引っ越しが始まる。高城小学校生徒を動員した麦刈りの開始
06月11日 着工
08月10日 ほぼ完成。空542部隊中等練習機到着
      15日 終戦。飛行場のまま住民に返還される 

関連サイト:
国土地理院 1948年4月当時の写真(USA M909 57) (■→「同意する」→戻る→再度■をクリック)  
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