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片岡飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年12月 訪問 

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1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

前記事の続きです。

片岡飛行場の方が宗里飛行場よりも場所の予想が(個人的には)立てやすいので、こちらを先に決めてしまおうと思います。

資料③:「郷土つるみ」第58号の中で、

石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。」とあります。

石油タンクが建設された場所が片岡飛行場の候補になる訳です。

A,Dは、1925年の地図(両飛行場が現役当時の地図)で既に開発が進んでおり、飛行場に見えないため、先ず除外します。

残るB,C,E,Fの4つですが、CとFは年代を追って現在まで確認したのですが、結局石油タンクになりませんでした。

そしてB,Eの2つは飛行場閉鎖後に石油タンクになっています。

ということで、B,Eのどちらかが片岡飛行場と思います。

 

次に、候補となった2つの埋め立て地について、石油タンクが建設された時期を調べてみました。

先ずBの埋め立て地についてですが、

1931年の地図では敷地の西側に丸いタンクっぽいのもが描かれている(説明書きは無し)のですが、

ここは東京瓦斯の敷地のため、石油タンクとは考えにくいです。

次にBの埋め立て地が閲覧できる1938年の地図では、それまでほぼ更地だった東側に石油タンクが建設されています。

Bの埋め立て地は飛行場閉鎖(1926年)から5年後の地図で未だ石油タンクはなく、

12年後の地図で石油タンクが確認できる。ということです。

 

次にEの埋め立て地についてですが、

ここは片岡飛行場閉鎖から2年後の1928年の地図を見ると、もう石油タンク施設が確認できます。

Eは飛行場閉鎖から2年後の地図で既に石油タンクになっているのに対し、

Bの方は、少なくとも飛行場閉鎖から5年間は石油タンクになりませんでした。

石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。」

という記述からすると、

飛行場閉鎖後すぐに石油タンクが建設されたEが片岡飛行場である可能性が高いのではないかと思います。

ただし、「(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した。」

という資料とは食い違ってしまうのですが。。。

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1922年測量(旧1万地形図 o453生麥、o448安善町)(「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

開設2年前の地図と-

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1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)   

閉鎖から2年後の地図。

丸く見えているのが石油タンク。

 


片岡飛行場の大きさについては具体的な情報がないのですが、「宗里飛行場とほぼ同じ大きさ」とのことですので、

一応宗里飛行場と同じサイズ(636.3mx545m)で線を引くとこんな感じ。

飛行場開設時には更地であり、広さも十分で、閉鎖後石油タンクになっており、条件を満たしていると思います。

オイラと致しましては、片岡飛行場はココだったと思います。

 

鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」の中で片岡飛行場について非常に詳しい資料がありました。

前記事では場所特定に関係する部分のみの引用でしたので、以下抜粋させて頂きました。

(鶴見歴史の会様よりブログ掲載の許可頂いております)

鶴見歴史の会様、ありがとうございました。

 

③片岡飛行学校(片岡文三郎)

片岡文三郎が、潮田の第一航空学校に隣接して、ほとんど同じ広さの土地を借りて飛行場をつくり片岡飛行場と名付け、

片岡飛行学校を建設したのは、大正十三年(一九二四)二月一日であった。

文三郎は愛知県で明治二十八年(一八九五)七月三十日に生まれているので、このとき二十九歳であった。

文三郎は大正三年、十八歳のとき飛行家を志して上京した。

片岡飛行学校の相談役、大竹文輔は新愛知新聞(中日新聞の前身)の飛行記者だったが、

「ガラッ八の多かったあのころの民間飛行機乗りの中では、

極おとなしい性格で友人や教え子たちに心遣いをする親切な男であった」と述べている。(中略)

(三本葭の)飛行場は多摩川を挟んで河口の干潟、通称「三本葭」を利用した。

開港は大正六年一月四日で、十人の練習生が集まった中に、二十歳の片岡文三郎が混じっていた。

そのころのことを、文三郎自身は、

「羽田時代は食糧に窮して馬齢(鈴)を米の代わりにしたり副食物に毎日胡麻塩をなめて飢えを凌いだことがありました」

と述べているが、食生活にも事欠きながら、どのようにして高額の飛行練習費を捻出したのか不明だが、

大竹記者は次のように書いている。

「羽田の(中略)飛行場で文字通り辛酸をなめ漸く巣立ち三等飛行士(三等飛行機操縦士)免状をとったのが大正十一年五月、

それからとんとん拍子に大正十二年八月早くも一等飛行士(一等飛行機操縦士)になっている」といい、

存在を認められるようになったのは、大正十二年六月、

帝国飛行協会主催第四回飛行競技会が下志津で催されたとき優勝してからである。

賞金二千五百円のほかに、副賞として十時間分燃料つき中島式五型複葉機を収得したのだ。

それまでの文三郎は、日本飛行学校が開港して四か月後の五月、玉井清太郎が事故死し、

相羽主事が弟の玉井藤一郎と共同経営のかたちで再建を図ったが、

藤一郎はまだ練習生に毛が生えた程度の技量だったので、外部から予備役陸軍飛行将校を招いて再建を図ったが、

三か月後、台風による高潮で壊滅した。

大正七年二月、玉井藤一郎は相羽有と手を切り、片岡文三郎ら数名の練習生を伴って羽田飛行研究所を創立、

飛行家養成の旗印で再々起を図った。

藤一郎が照高と改名したのはこのころで二十四歳であった。

片岡文三郎はひとつ年下の二十三歳であった。

文三郎は大正十年(一九二一)二六歳のとき、津田沼の伊藤飛行機研究所に練習生として入所した。

照高が伊藤音次郎と親交があったので、いわば文三郎を内地留学させたのであった。

そのお蔭で、大正一二年(一九二三)一月にはじまった朝日新聞社の東西定期航空会による東京-大阪間の定期便に

伊藤音次郎門下の一人として参加することが出来た。

東西定期航空会は伊藤音次郎と白戸榮之助が朝日に進言した結果結成された定期航空会社であった。

しかし三か月後、運航成績がはかばかしくないので、以後は朝日新聞が主導力を握り、

伊藤音次郎は整備部門だけを担当、白戸榮之助は航空会から引退した。

二ヶ月後、文三郎は懸賞飛行競技大会で優勝し、名が知られるようになった。

大正十四年四月、片岡飛行学校に航空局から三菱十年式艦上偵察機を払い下げられた。

これは同乗席を改造して垂直写真機を取り付け、空中写真測量をはじめるための準備作業だったが、

資金不足のため成功は覚束なくなった。

大正十四年七月下旬、山階宮武彦王がおいでになった。

単なる空の宮様ではなく、操縦も海軍で本格的に訓練を受けた皇族であった。大竹の文によろう。

「空の宮様として航空事業の振興に多大の力を注いでおられた海軍少佐、

山階宮武彦王殿下が潮田の片岡飛行学校にお成りになった。

御用係の仕事をしていた三等飛行士の伊藤酉夫(とりお)君と日本飛行学校の相羽有君が随行。

飛行家から宮家の自動車運転手に抱えられた大野資君の運転で午前十時にお着きになった。

片岡君は殿下の御所望により愛機の飛行ぶりをお目にかけることになり、さっと空中に舞い上ってしまった。

(中略)やがて片岡君が着陸すると殿下を中心に飛行機の前で記念撮影をした。

殿下はお帰りの節、金何十疋(びき)かを片岡飛行学校に御下賜になり、

隣の第一飛行学校(航空学校)に車を向かわせられた。

余談になるが、山階宮も二か月前の五月二十三日、民間航空発展のため、立川陸軍飛行場西地区に、

自前で御国(みくに)航空練習所を建設して上棟式を終え、九月二十一日の入所式を待っているところであった。

大正十五年二月、約束通り埋立地が工場地帯になり、石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。

その後、片岡文三郎は、横浜市外杉田(現・磯子区杉田町)の日本飛行機(株)でフランスから輸入した小型機

「空のプー(虱=しらみ)」の試験飛行などをしていたが、招かれて豊田自動織機芝浦研究所に入社した。

詳細は略すが、豊田自動織機はトヨタ自動車の前身で、

早くから定款に「航空機の製造販売」を事業目的の一つとして挙げており、「空飛ぶ大衆車」の製造を目標にしていた。

昭和十八年三月、豊田自動織機は別会社を設立した。すなわち東海航空工業(後の東海飛行機)である。

文三郎はしかし、一三式練習機「トヨタ」の飛行もあるし、小型旅客機の試作もあるので技術部長として本社に残り、

敗戦後一年ほど勤めて退職した。五十一歳であった。

昭和五十七年(一九八二)五月十七日、片岡文三郎は戦後の航空会の発展ぶりに感慨を深くしながら、

岡崎市伊賀町の自宅で八十六年の生涯を閉じた。

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     神奈川県・片岡飛行場跡地     

片岡飛行場 データ

設置管理者:片岡文三郎
空港種別:陸上飛行場
所在地:神奈川県横浜市鶴見区安善町2丁目?
座 標:N35°29′30″E139°42′20″?
標 高:2m?
面 積:34.6ha?
着陸帯:636.3mx545m?
(座標、標高、面積、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1924年2月 1日 開設
1926年2月 閉鎖。跡地は石油タンクに

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「鶴見町史」1925年
「鶴見興隆誌」1930年
「鶴見区市」1982年
「航空情報」1986年12月号
「鶴見の百年」1987年
「郷土つるみ」鶴見歴史の会機関誌第58号 2003年
「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925
「鶴見区全図」高塚工務所/著 高塚工務所 1930


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