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観音寺(柞田)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2014年06月 訪問 

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香川県‎観音寺市‎柞田町‎にあった「観音寺(柞田)飛行場」。

「観音寺市誌通史編」に当飛行場の事が出ていました。

以下抜粋し、他資料からの情報も含めて書いてみます。



昭和18年4月、柞田地区右岸の出在家(上出、中出、下出)と常盤地区出南の全地域並びに

木之郷、栗井、池之尻の一部を含む観音寺平野の広大な測量が実施されました。

10月 測量終了

12月着工

昭和19年1月 関係地区の関係者が集められ立ち退き要請。

建設命令で勤労奉仕隊を結成、砂利を運び、コンクリートを流して広い田畑を飛行場に変える作業が開始されました。

設営隊が今の栗井出晴? と木之郷の間に造られ、地元からも無料奉仕の自弁当で駆り出されました。

昭和19年3月完成

(6月に長さ1.5㎞、幅50mnの滑走路がほぼ完成という資料もあり)

昭和20年6月頃から赤トンボを配備し、訓練しかけた頃、この飛行場も目標となり機銃掃射を浴びました。

8月15日 終戦。午前中に滑走路のコンクリ打ちが完了したところでした。

戦後、観音寺航空隊へは11月7,8日、ミラー中尉を隊長とする35名が進駐し、

12月まで駐屯して兵器、弾薬、施設、糧食等の接収を行いました。

進駐軍による接収終了後、入植希望者に払い下げられることになったのでした。

飛行場でつぶされた農地250ha、立ち退き350戸位。

昭和20年末開拓許可が出て、まず滑走路のコンクリートを掘り返し、元の田畑に返す作業が始まりました。

厚さ15cmのコンクリートを手作業で掘り起こし砕いて撤去し、七宝山から採取した赤土を入れて耕しました。

 

Wikiでも「国分海軍航空隊」の項目の中で以下の通り記されていました。

「(完成後)作戦に適さず放置されていたが、第一国分飛行場を実施部隊に引き渡した国分空の受け入れ先となり、移転のうえで新たに観音寺空を名乗った。(中略)実施部隊編入後は、乏しい燃料のために訓練を切り詰めつつ、特攻訓練を断続的に実施していた。一説によると、他の中練部隊と連合して編成した中練特攻隊の中に観音寺空からの選抜者もおり、かつて基地としていた第一国分飛行場に展開していたとする説もある。幸いにも観音寺空の中練特攻隊が出撃する前に終戦を迎えた。観音寺飛行場は現存しない。終戦直後より、引揚者の開拓地として大蔵省が開放したため、飛行場設置前と同じく水田地帯として復活した。」

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:観音寺 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1500x140 190コンクリート 主要機隊数:小型6.5 主任務:作戦教育 隧道竝ニ地下施設:居住(400㎡)電信所、爆弾庫、燃料庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、倉庫、工業場 小型機分解隠蔽35機分 掩体:小型有蓋22 小型隠蔽40 其ノ他記事:南方に偽滑走路アリ

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・A地点

現在跡地周辺はすっかり畑と住宅地。

とてもここにかつてコンクリ舗装の滑走路が伸びていたとは思えないのですが、この少し先から滑走路が広がっていたはずです。

 

観音寺(柞田)飛行場跡地 map   


      香川県・観音寺(柞田)飛行場跡地      

昭和50年頃まで当飛行場の指揮塔が残っていたのですが取り壊したのだそうです

観音寺(柞田)飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
空港種別:軍用飛行場
所在地:香川県‎観音寺市‎柞田町‎
座 標:N34°07′01″E133°40′13″
面 積:105ha?
滑走路:1,200m×100m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:08/26
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年04月 測量開始
      10月 測量終了
      12月 着工
1944年01月 関係者に対し立ち退き要請。建設命令。勤労奉仕隊を結成
1945年03月 完成。国分より転属し開隊。飛練42期の訓練を継続
      05月 5日 十二連空を廃止し第五航空艦隊第十二航空戦隊に改編、実施部隊に指定
      08月 15日 終戦。
      11月 7,8日 ミラー中尉を隊長とする35名が進駐(12月まで)
          その後、引揚者の開拓地となり飛行場設置前と同じく水田地帯になる
1975年     この頃飛行場の指揮塔取り壊し

関連サイト:
Wiki/国分海軍航空隊   
国土地理院 1948年1月当時の写真(USA M746 2) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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コメント(4)  トラックバック(0) 

コメント 4

Takashi

道路として使われている滑走路跡地もありますが、跡形も無く撤去されていますね。
ここに住んでいる人で、この場所に飛行場があったことを知らない人もいるんでしょうね。
by Takashi (2014-09-03 22:49) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございますm(_ _)m

■Takashiさん
僅かでも滑走路方向の地割が残ることは結構あるんですけど、
仰る通りでここは見事なくらい跡形もありませんでした。
地割や碑が残っていても、地元の年配者の方もご存じないことはよくありますから、
ここもご存じない方がおられても不思議はないと思います。
by とり (2014-09-04 04:35) 

匿名希望

今の、西部養護学校あたりに、昭和50年頃まで、コンクリート造りの管制塔が残っていた記憶があります。廃墟のようで、不気味だった。
by 匿名希望 (2015-04-22 14:41) 

とり

■匿名希望さん
貴重な情報をどうもありがとうございました。
by とり (2015-04-23 05:39) 

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