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千鳥(下の、第一)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

     ( 訪 問 不 可 )   

千鳥、元山+計画の北 書き込み.png

前記事の父島の南南西約270kmにある東京都‎小笠原村‎硫黄島‎。

一般人の立ち入りが制限されている島です。

戦時中この島に海軍が飛行場を建設しました。

昭和8年に戦闘機用飛行場(南北800m×200m)を仮設したのが始まりで、以後逐次増強し、飛行場だらけの島になりました。

 

作図の話

上図は「軍令部水路部が作成した縮尺1万分の1の硫黄島全図」(下記リンク参照)を元に作りました。

こうやって当時の地図、写真に写っている滑走路を現在の地図上に描く場合、

まずは両者の同じ地形を探すところから始めます。

道路、線路、畑等の地割、海岸線、山、川(用水路みたいな細い川は意外と流れが変わらないことがある)等の自然から、

当時と現在で同じ部分を探すのです。

同じ部分を複数個所見つけて基準点とし、縮尺を取り、作図します。

ところでこの硫黄島の場合、昭和19年6月29日作成のこの地図が出来上がった後、

「島の形が変わる」と形容される激しい爆撃が加えられました。

そのせいなのか、70年という歳月も関係するのか、はたまた現在尚活動する火山島であるからなのか(滑走路がどんどん凸凹になっていくらしい)、

硫黄島は、軍令部が地図を作った当時と現在では島の形が全体的に変化しています(そもそもの地図が写真に撮ったものなので多少歪みが出ていることもあるのでしょうが)。

極端な例では、西側のカブトムシの角みたいに突き出した部分、当時はありません。

おおまかに当時と似た海岸線の部分でも、線を引き、角度を測ってみると、微妙に異なっています。

1時間地図を睨めっこしたのですが、どうしても基準となる地形を見つけることが出来なかったため、

大坂山と摺鉢山の頂上を線で結び、この線を基準に定規と分度器で作図しました。

擂鉢山も「爆撃で山の形が変わった」と言われており、頂上の位置が変化してやしないかと心配なのですが、

他に基準点が見つからないので致し方なし。

こんなこと初めてです。

これまで古い写真や地図を元にあちこちの滑走路跡をグーグルマップ上に描きましたが、

なかなか基準点が見つからなくても、ずっと見ていると必ず何かしら見つかるものなのですが。。。

そんな訳で、多少ズレがあると思いますが、おおよそこんな感じだと思います。

ご了承くださいませ。

 

千鳥 書き込み2.png

 

千鳥飛行場

前置きが長くなりましたが、当記事は、千鳥ケ原にあった「千鳥飛行場」のことを書きます。

「第一飛行場」とも呼ばれた他、坂井三郎氏の本等で「下の飛行場」とも呼ばれていたことが記されています。

様々なサイトで硫黄島の3つの飛行場には「第一」~「第三」という呼称もあったとしているのですが、

あるサイト様に、「第一とか第二というのは米軍の呼称である」と記されていました。

Wikiに米軍が作成した硫黄島の地図(下記リンク参照)があるのですが、その地図では3つの飛行場が

名前ではなく、No.1 No.2 No.3 と、番号が付されているのみです。

「米軍の呼称である」とはこのことを指しているのかもしれません。

 

上図3本の滑走路に振ってあるアルファベットは、オイラが便宜上勝手に付けたものです。

Aが短い戦闘機用、そしてBとCが長い大型機用です。

C滑走路は1,200mなのですが、後に1,800mになったとする資料があり、

1969年測量の地図(下記リンク参照)で見ると、丁度C滑走路の位置に「飛行場跡」の表記があり、

破線で滑走路が描かれていて、北東側エンド部分がかなり長く延びています。

これを見ると、資料通り十分1,800mありそうです。

2本の大型機用滑走路を有し、戦時中は硫黄島メインの飛行場でした。

本土から物資輸送のため定期的に大型機が来ました。

内地からここまで1,200km。一式陸攻で4時間位なのだそうです。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:第一硫黄島 建設年:1944 飛行場長x幅 米:1500x80 2000x100 800x80舗装 主要機隊数:中型2.0 主任務:作戦

 

両軍と硫黄島 

日米双方に多数の犠牲者を出したことであまりに有名な硫黄島。

昭和20年2月16日、米軍が硫黄島上陸作戦を開始するのですが、

米軍が硫黄島占領を目論んだのは、前年の昭和19年11月から始まっていた

マリアナ諸島からのB-29による日本本土空襲をより効果的にするためでした。 

 

グアム.png

日本本土を爆撃するB-29はマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから発進しました。

マリアナ諸島を離陸したB-29は、それこそ(北海道以外の)全土を爆撃した訳ですが、

以前山梨の大槻防空監視哨(下記リンク参照)にお邪魔したところ説明版の中に、

「B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり」

という一文があったため、上図では一例としてグアムと富士山を結んでみました。

富士山~硫黄島 1,200km
硫黄島~グアム 1,300km

硫黄島が本土爆撃のための進路のほぼ中間、そしてほぼ直下に位置しています。

 

硫黄島占領前

・日本は、B-29の本土到着2時間前に警報を発することが出来ました。
・往路、復路共に硫黄島から離陸した戦闘機で攻撃を加えることが出来ました。
・硫黄島からマリアナに駐機するB-29を攻撃出来ました。

B-29は「超空の要塞」という愛称も相まって、しばしば「日本軍機も高射砲も届かない高空を悠々と」と表現されますが、

この革新的な新兵器は当初故障が多く、また爆撃精度優先のため、焼夷弾投下のため、高度を下げるようになり、

迎撃機、高射砲により多くの損傷を受け、撃墜されました。

なんとか撃墜は免れ、傷だらけの状態で帰途に着けても、マリアナまでもたずに墜落したり、

再び硫黄島からの迎撃を受ける事になり、多くのB-29が墜落したため、

第二十航空軍の司令官カーティスルメイ将軍は、「これ以上こんな損失をこうむらせる事は出来ない」 と通告を出す程でした。

B-29の被害が大きかったのは、本土まで長距離のため、直掩機を付けることが出来ないという点も大きいです。

また、硫黄島を基地とする日本軍機がテニアンとサイパンを急襲したことによる、駐機中のB-29への被害も大きく、

こうして破壊されたB-29の数は、東京への全爆撃飛行で失われた数より多いのだそうです。

 

こうしたことから、日本本土爆撃を効果的に実施するために硫黄島を占領することにしたのですが、

日本軍の激しい抵抗は当初から予想され、米側に多数の死傷者が出るであろうことは分かっていました。

そのため米軍内部では、果たして犠牲に見合うだけの価値がこの作戦にあるのかという強い反対意見が出ました。

そうした懸念を抱えつつ、 昭和20年2月16日、米軍は硫黄島上陸作戦を開始しました。

2月20日、千鳥飛行場制圧。激しい攻防戦の最中、米軍は即座に千鳥飛行場の整備に取り掛かりました。

2月26日、千島飛行場で観測機の使用が可能に。

3月初めには飛行場の機能が殆ど完成しました。

3月4日、東京空襲で損傷したB-29「ダイナ・マイト」号が千鳥飛行場に緊急着陸。

補修と燃料の補給を受けました。

日本軍との戦闘はまだまだ続いており、激しい戦闘の最中でしたが、早くも硫黄島占領の目的を果たしたことになります。

そして3月26日、アメリカは硫黄島を占領します。

 

硫黄島占領後

・日本軍は硫黄島からの航空攻撃が出来なくなりました。
・米軍はB-29に硫黄島から発進した直掩機をつける事が出来るようになりました。
・復路、硫黄島に緊急着陸することが出来るようになりました。

緊急着陸場として硫黄島を使用できるようになった事の効果は絶大で、

4月7日には、出撃したB-29 100余機のうち70機が損傷、負傷者の手当て、燃料補給のために硫黄島に着陸しました。

終戦までの間に延べ2,251機のB-29が硫黄島に不時着し、

アメリカ軍は自国の死者6,821名と負傷者22,000名の代償として、

延べ25,000の航空機乗員が硫黄島の恩恵を受けたとしています。

 

千鳥飛行場のその後

日本海軍がメインで使用しており、硫黄島攻防の最中から米軍に使用されていた千鳥飛行場ですが、

この飛行場がいつまで使用されたのかは不明です。

硫黄島は昭和43年日本に返還され、早くも同年測量の地図、航空写真が撮られているのですが、

千鳥飛行場を確認すると、地図には「千鳥飛行場跡」とあり、航空写真では既にかなり溶けかかっています。

同じ写真の元山飛行場跡とその東側のエリアに作られた滑走路(現硫黄島飛行場)との差は歴然で、

地図と写真を見る限り、千鳥飛行場は戦後早々に放棄されたのではないかと思います。

 

千鳥(下の、第一)飛行場跡地 map   


      東京都・千鳥(下の、第一)飛行場跡地     

千鳥(下の、第一)飛行場 データ

設置管理者:旧海軍
空港種別:軍用飛行場
所在地:東京都‎小笠原村‎硫黄島千鳥ケ原‎
座 標:N24°46′10″E141°18′15″
滑走路:
A:600m(11/29)
B:1,200m(18/36)
C:1,200m(1,800m)(05/23)
*座標、磁方位、滑走路長はグーグルアースにて算出

沿革
1933年     海軍、戦闘機用飛行場(南北800m×200m)を仮設、以後逐次増強
1937年     完成
1945年02月 米軍に飛行場制圧され、翌月から使用される
1968年06月 返還。海上自衛隊硫黄島航空基地分遣隊発足

関連サイト:
軍令部作成縮尺1万分の1の硫黄島全図    
Wiki/硫黄島の戦い (米軍作成の地図)  
国土地理院 1968年11月当時の写真(KT685YZ C1 2) 
国土地理院 1968年測量の地図(5000国土基本図 5000 14-OC-52) (千鳥飛行場付近の地図)
国土地理院 1969年測量の地図(2.5万地形図 25000 145-4-3-1) 
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(大月防空監視哨跡)


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コメント 2

鹿児島のこういち

本土をなんとしても守らないといけないと、命を投げ打って硫黄島で玉砕した日本軍人に敬意を表します。
戦争が好きという訳ではありません。しかし当時どうしようもない状況、逃げる事のできない状況の中、自分ならどうすることが出来るのか・・・・・同じことをするかもしれないです。
by 鹿児島のこういち (2014-07-28 18:36) 

とり

■鹿児島のこういちさん
あの方々が今の日本を見たらどんな感想を持つだろう。
記事を作りながら考えさせられました。
by とり (2014-07-29 07:28) 

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