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■ヒコーキの雑談・リスト■  [├雑談]

2005年
空港がいっぱい (全国に空港、飛行場はいっぱいあるという話)
飛行場の跡地  (オイラの地元の飛行場跡地の話)
ボーイング王国日本(今後日本がボーイング王国になってしまうという話)
太平洋無着陸横断への挑戦(挑戦の様子を年表形式でまとめたような話)
岩手県・花巻空港(旧ターミナル運用当時
)(国道のすぐわきに空港があった話)    
3レターコード
  (3レターについての話)
飛行機の燃費節約(ヒコーキ流燃料節約術の話)
さようなら YS-11(YSについての話)

2006年
エコノミー席での背もたれ倒し(エコノミーで背もたれを倒すのはやめませんか?という話)
災害とヒコーキ (新潟中越地震とヒコーキの話)
一ヒコーキ好きの嘆き(ヒコーキマニアの自虐ネタの話)
日航機ニアミス判決(判決についての話)
ヒコーキはなぜ飛ぶか・1(空気はスゲー重いという話)
ヒコーキはなぜ飛ぶか・2(ヒコーキはスゲー軽いという話)
あなたもパイロットになれますか?(人を陥れる話)
ベルヌーイvsニュートン・1(ベルヌーイで世界中が納得しているかと思ったら大間違いという話)
ベルヌーイvsニュートン・2(ベルヌーイの疑問点の話)
ベルヌーイvsニュートン・3(それぞれの言い分の話)
乗客が全員力士だったら(それでもヒコーキは飛ぶか?という話)
大西飛行場のその後(大西さんの夢はまだまだ続いているという話)
戦闘妖精雪風・DVD(雪風カッコイイイイイ!という話)
「機長、コーヒーです」(自衛隊関係者の皆様、ゴメンなさいという話)
気をつけなくっちゃ(マスメディアのヒコーキ話には結構ツッコミどころが多いという話)
本当の幸せとは(パイロットもいろいろ大変。という話)
YS-11企画展@所沢航空発祥記念館(YSイベントの話)
鳥人間コンテスト(同コンテストについての妄想記事)
UFO(UFOの正体にするどく迫った記事・笑)
A380の翼面荷重(A380の翼面荷重を他機といろいろ比較してみた話)
ヒコーキ雲(ヒコーキ雲ができる条件の話)
羽田空港の駐車場(P1,P2)(P1,P2の利用法の話)

2007年 
ぼくは航空管制官(について熱く語った話)
ぼくは航空管制官2(同上)
空港ランキング(ビューベスト5)(今まで見た中で、眺めのよい空港の話)
空港ランキング(マニア度 ベスト5)(今まで見た中でマニアックだった空港の話)
空港ランキング(家族でドライブ ベスト5)(今まで見た中でドライブにお勧めな空港の話)
ボン社事故(Q400胴体着陸関連の妄想記事)
ヒコーキ好きにとって魅力的な空港(オイラ的魅力的な空港)      
新石垣空港建設計画
(建設決定 という話)      
ホンダエアポート/飛行船
(ホンダエアポートで飛行船を見学した話)      
石垣空港の跡地利用
(地元の方の懸念の話)      
PAN AM Tシャツ
(もらって嬉しかった話)
新潟空港阿賀野川側からの撮影情報
(解放して欲しい話)     
B787・1 開発開始までの迷走
(開発までを時系列で並べてみた話)      
B787・2 開発開始
(ロールアウトまでを時系列で並べてみた話)       
4レターコードの ”とり説”(改訂版)・1
(4レターの法則についての妄想話)
4レターコードの”とり説”(改訂版)・2(4レターの法則についての妄想話・2)
那覇~下地島 運休(エアトランセがコケてしまった話)     
ブログ紹介
(すごいお方のブログ紹介の話)     
波照間路線の今後
(エアードルフィンさん、引き継いでくれるの? という話)
名古屋空港事故(F-2事故の話)      
いわて花巻空港の展示物
(気になっていたものを確認した話)       
波照間路線の今後・2
(エアードルフィンさん、ありがとう!!という話)
妄想ドライバーの日々(運転中、パイロットになりきってる人の話)
波照間路線の今後・3(RAC波照間便廃止、という話)

2008年
交通機関とエコ その1(三乗の法則のちょっとおさらいの話)
交通機関とエコ その2(まずは船にダメ出しする話)
交通機関とエコ その3(列車にダメ出しする話)
交通機関とエコ その4(ヒコーキにダメ出しする話)
交通機関とエコ その5(鉄道活用の話)
岐阜県・各務原(各務原すげー!という話)
静岡空港(開港前)
(開港前に見に行った話)
羽田空港
(鶴丸ゲットした話)
ぼくは航空管制官3(ぼく菅3 出たよ!という話)
運休、廃止福島空港、佐渡便の話)
ふくスカ桃祭り 2008・1(カンクリさんに会った話)
ふくスカ桃祭り 2008・2(室屋さんを見た話)
新サービス?(ここはドコ?という話)
ふくスカ・1(リンゴ祭り・午前の話)
ふくスカ・2(リンゴ祭り・午後の話)
旭伸航空(見納めの話)
映画 ハッピーフライト(珍しく映画の話)

2009年
空港探索について・1(ブログの路線変更の話)
空港探索について・2(優先順位の話)
バードストライク、FOD・1(用語の薀蓄話)
バードストライク、FOD・2(エンジンに金網張れない話)
バードストライク、FOD・3(鳥を追い払う苦労話)
バードストライク、FOD・4(エンジンの話)
バードストライク、FOD・5(またエンジンの話)
バードストライク、FOD・6(安心させる話)
787情報(787進捗情報の話) 
B787・3 ロールアウト以降のつまずき (ロールアウト以降の時系列の話)
787関連 衝撃の人事発表(恒例のお騒がせ話)
B787・4 概要(787スペックなどの話) 
Hotelicopter(壮大なスケールのエイプリルフール話) 
続・Hotelicopter(なんでこんなに壮大なことしたかの話)
羽田おきてん(羽田空港の変遷の話)       
アンケートのお願い
(メーカー、機種の人気投票の話)    
B787 6月にテストフライト  か?
(見事に裏切られた話)   
アンケートの結果です
(そのまんま結果発表の話)  
戦争遺構(なんで跡地を回っているのか、の話)     
ファーストクラスの世界・1
(行きの話)    
ファーストクラスの世界・2(戻りの話)   
ファーストクラスの世界・3(38,000円!!!! の話) 
787 エンジンテスト(787のエンジンの話) 
787 中間ガントレットテスト終了(初飛行の期待が高まっていた話)    
羽田D滑走路工事
(D滑走路を見学した話)  
羽田再拡張
(あちこち工事してる話) 
787初飛行延期
(トラブル発生!!! の話)  
東武小泉線物語
(小泉線変遷の話) 
東武小泉線西小泉駅
(西小泉駅周辺の話)      
熊谷~大幡・前編
(熊谷駅から歩いてみた話)  
熊谷~大幡・後編
(続きの話)   
787 いつになったら飛ぶの?
(豚よりは速く飛んで欲しい話)      
787 新スケジュール発表される
(今度は大丈夫??? という話)      
JALのこと・1
(コストをLCCと比較してみる話)     
JALのこと・2 安全確保
(整備費以外を削って欲しい話)    
JALのこと・3 日本の空にLCC
(LCCの運賃にビックリの話)    
Amazing Jumbo Landing!
(ヒコーキ動画の話)       
北方領土の飛行場
(上から丸見えの話)       
九州へ行った話
(社長に謁見した話)    
室谷さん@会津塩川バルーンフェスティバル2009
(ご家族の会話が面白かった話)      
それがマニア・1
(マニアの心理に鋭く迫った話 かな??)    
沈まぬ太陽
(JALに頑張って欲しい話)      
それがマニア・2
(自己診断の話)    
ヒコーキ版・今年の重大ニュース(アンケートのお願い)
(そのまんま今年の重大ニュースの話)    
ヒコーキ版・来年の重大ニュース(アンケートのお願い)
(来年に何に興味ある?? の話)     
787ファーストフライト スケジュール発表
(予定通り飛んでおくれ~ という話)   
787ファーストフライト
(やっと飛んだ話)    
B787・5 初飛行までの経緯
(初飛行までを時系列に並べた話)     
ヒコーキ版・今年の重大ニュース 結果発表
(投票ありがとうございました という話)    

2010年    
ヒコーキ版・今年気になるランキング(こちらもご協力ありがとうございました という話)   
佐賀空港のYS-11再び!! (またワイエスが見られるようになる。という話)    
羽田・1
(羽田空港を見学して来た話)       
羽田・2(続きの話)      
787は今年中にデリバリーできるのか?
(についてアンケートお願いの話)       
どの路線にデビューする? 787
(についてアンケートお願いの話)       
航空自由化と離島路線
(小難しい話)
鴨池飛行場(鹿児島のこういちさんからいただいた当時の貴重な情報とお写真の話)
モヒカンジェット(やっとモヒカンをゲットできた話)
ツェッペリンNT号 事業停止(飛行船の話)  
ヒコーキ二題(ヒコーキの話ふたつ)
717の話(そのまんま717の話)
787デリバリー またまた遅延(また遅れてしまった話)
LCCの話(そのまんまLCCの話)
成田空港の運用時間は何時間?(成田の運用時間は短い。という話)
羽田見学(国際線ターミナル見学の話)
ハブ空港・1 国内線ここまでの話(国内線のここまで話)
ハブ空港・2 「ハブ空港」=「大空港」?(ハブ空港の話)
「ハブ空港」・3 日本と「ハブ空港」(ハブでいろいろ妄想する話)

2011年    
787デリバリー 新スケジュール発表
(2011年第3四半期(7~9月)だそうですよという話
ハブとメーカー
(787と380の話)
「オペレーション・スターシップ」(エイプリル・フールネタ)
Q:どの位燃やされる?(久々の三択クイズ)
6周年(どうもありがとうございます)
A:どの位燃やされる?(三択クイズの続き)
B787、日本初飛来決定!(そのまんまの話)
二宮忠八とライト兄弟・1(思いつくままにいろいろ書いた話)
二宮忠八とライト兄弟・2(上に同じ)
ビードル号記念飛行(帰ってきたビードル号の話)    
787とウインドウォッシャー
(ついた話)
B787・6 デリバリー開始までの経緯(シリーズ完結の話)
787就航
(おろ・おろしさんおめでとうございます。という話)
日本とダグラス旅客機(ダグラス大好き~という話)

2012年     
ヒコーキの前後バランスの話
(ウエバラの話)
エンジン位置の話(意外といろいろ差が出る。という話)
HondaJet・1 年表(実は先の二つの記事は前フリだった話)
HondaJet・2 MH02(元祖HondaJetの話)
飛行場の場所を教えてくださいm(_ _)m(他力本願な話)
日本のジェットエンジン開発(エンジン開発の皆さん、頑張ってください!という話)
HondaJet・3 エンジン開発(実は前記事は前フリだった話)
翼の取り付け位置の話(いろんな事情の話)
HondaJet・4 OTWEM(「主翼上面エンジン配置」の話)
HondaJet・5 翼型(「自然層流翼型」の話)
沖縄の飛行場の変遷(沖縄にはたくさん飛行場があった話)
787の近況(大急ぎで作らないといけない話)
米国にエアバスの工場(受注競争に与える影響を心配する話)
秘匿飛行場
(本当にここだったのかしらん。という話)
HondaJet・6 機体の特徴など(シリーズ完結。という話)
787デリバリー1周年(次の1年で何機デリバリーできるかという話)
岩国錦帯橋空港(べっ、別に偶然開港前にたまたま前を通りかかっただけなんだからねっ! という話)

201     
787運行停止
(今のうちに膿を出し切って欲しい話)
787運行停止・その2(トラブルまとめの話)
787運行停止・その3(バッテリーの話)
787運行停止・その4(大人の事情の話)
A350XWB の近況(後発の利点を最大限活かしてる話)
枕崎空港廃止(寂しい話)
神風号亜欧連絡飛行・1(出発までの話)
神風号亜欧連絡飛行・2(その後の話)
787運行再開(やっと再開した話)
"重い"787(実は重かった。という話)
飛行の中の非日常(ヒコーキが怖くなる話)
八丈島の飛行場・補足(米軍もよくやるよ。。。という話)
787デリバリー2周年(OILMANさんおめどうございます。という話)
「君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處らず。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」(防空識別圏の話)

201   
福島空港とウルトラマン(福島空港を応援する話)
とり日記(ムック本に載った話)
広島ヘリポートのレターコード(ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。という話)
ANAの787(データ拾うのにすんごい苦労した割に地味な話)
桶川飛行場の「弾薬庫」のこと(奉安殿?? という話)
内閣中央航空研究所のこと(どんな研究所?? という話)
福岡第一飛行場
(離陸待機の話)
787デリバリー 3周年(いろいろ妄想が広がった話)
MRJ・1(祝・MRJロールアウト という話)
MRJ・2(続きの話)

2015年   
ヒコーキネタ(ヒコーキネタいろいろの話)
HondaJet ワールドツアー@岡南飛行場
(おろ・おろしさん ありがとうございます!! という話)
伊良部大橋開通(やっと開通したけれど…という話)
オバーの歌(不思議な歌の話)
御宿と銚子のVOR廃止(コース変更の話)  
祝! MRJ 初飛行(この先も頑張って欲しい話)   
根岸氏と水産試験場のこと(疑惑の話)   
Honda Jet デリバリー開始(\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/)   
続・根岸氏と水産試験場のこと(やっぱりそうだったっぽい話)   

2016年   
ANA、A380発注正式発表(ANAは別にA380の運航がしたい訳じゃないような気がする話)
セントレア二題(順調にすすむのかしらん。という話)  
磯子埋立地 1,500mのナゾ(いろいろ妄想した話)   
ボーイングのデリバリー数(もうすぐ500!という話)  


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ボーイングのデリバリー数 [├雑談]

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2012年に「ボーイング旅客機 年別デリバリー数」という記事で作成したデータを久々に更新しました  

せっかくなのでこちらにも載せておきます。

数字は全てボーイング公式サイト 2016/10/16現在のものです。

以下、このデータでぐだぐだと。

 

表をご覧いただいての通りで、

年別で最も多くデリバリーされたのは、2015年にB737が叩き出した、495機となっております。

1日1機を優に超えるペースですね(@Д@)

1967年のデリバリー開始以来、既に半世紀が経過しているというのに、

その勢いは衰えるどころか、ここ4年連続で記録更新中です。

現在のところ総デリバリー数は、9,213機なのですが、バックログはなんと4,350機!(☆Д☆)

1万機を遥かに超え、更にデリバリー数を伸ばしていくであろう737。

2014年のプレスリリースでは、737の生産レートを2018年に月産52機にすると発表しており、

計画通りなら、年産数はナント624機に!

1日で2機弱ペースですね。

この驚異的な生産数でも、バックログを消化するのに7年を要する計算です。

ライバルであるエアバスA320NEOの存在があり、ボーイングとしては何としてもこの計画を遂行したいところでしょう。

 

一方、ワイドボディ機の年間デリバリー数についてですが、

こちらは1970年にジャンボが記録した92機が長いことずっと最多数でした。

2013年になって777が98機でやっとこの記録を塗り替えたのですが、

787が2014年に114機、2015年には135機で、立て続けに記録を更新しており、

これが現在のところボーイングワイドボディの年間最多記録となっています。

受注開始以降、民間航空機史上最速ペースで受注を伸ばしていった787。

いつだったかの記事で、「787は計画通り月産10機達成できるのかしらん」なんてこと書いたような気がするんですが、

2015年に135機ですから、達成したんですねヽ(*´ヮ`)ノ

ボーイング最新モデルの787ですが、もう500号機に手が届きそうなんですね。

早いものです。

こちらも737と同様A350というライバル機の存在があります。

一時期、度重なる開発の遅れから、受注が一部A350に流れるという出来事がありました。

このため2012年にノースチャールストンの第二工場でも787のデリバリーが始まりました。

北米大陸の西海岸と東海岸に分かれての生産体制ということで、大丈夫なのかしらん。と思っていたのですが、

2016年2月、この第二工場から100機目の787デリバリーがありました。

787の現在の生産レートは月12機なのですが、ボーイングは2020年までにこれを14機に引き上げるとしており、

日本の787関連企業でもこの増産に向けた工事が既に始まっています。

787は894機ものバックログを抱えており、順調に生産レートを伸ばしても、これを全て消化するのに約6年かかります。

787の総受注数は1,361機に達しており、これで(生粋の)ボーイング旅客機は全モデル1,000機超え確定です。

 

現在ボーイング機の主な生産は、737、777、787の3機種にほぼ収斂していますが、

747と767の生産もまだ続いており、

747は、-8が9機、-8Fが6機のバックログ、

767は、-2Cが23機、-300Fが73機のバックログを抱えています。

787の生産が軌道に乗ったら、767は早々に生産終了かと思ってたんですけど、まだしばらく767の生産続くんですね~。


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磯子埋立地 1,500mのナゾ [├雑談]

1,500m??

前記事を2行でまとめると、

太平洋無着陸横断に挑んだタコマ市号が横浜港に到着し、

磯子町の市電埋立地から無事霞ヶ浦飛行場に飛び立った。

となります。

ところで。

実は複数の資料、サイト内で、1組目の挑戦者であるブロムリーとゲッティーは、当時の神奈川県知事に対し、

1,500mの滑走が可能な市内の離陸場所を見つけてほしい」と依頼した。と記されています。

そしてその要望に応じて提供されたのが、磯子の埋立地である。と続いています。

で、前記事でも載せましたが当時の磯子埋立地で滑走できそうな長さはどの程度かというと-

無題.png
1931年測量の地図 (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

埋立地そのものは525m位あるのですが、北側は既に建物が建っているため、

滑走路として使えそうなのは、なんとたったの385mしかないのです。

余談ですが、プロムリーの飛行から10年後、東隣に「根岸飛行場」が完成しました。

ヨコハマは本当に飛行場だらけ!

実際に滑走路可能な範囲を囲むとこんな感じ。

そして埋立地の南端から1,500mだと、どこまで達するかというと-


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1931年測量の地図 (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

こうなります。

流石大都市横浜。

1931年にして既に21世紀のオイラの地元駅以上に周辺には建物がギッシリと埋め尽くしており、

とてもヒコーキが滑走するような雰囲気ではありません。



現在だとこんな感じ。

埋立地そのものがたった525mしかないところに1,500mですから大きく飛び出してしまい、

「横浜市立滝頭小」まで達してしまうのです。

「1,500mの滑走が可能な市内の離陸場所を見つけてほしい」という依頼に対し、

提供したのが400m弱では短過ぎにも程があり、日米問題にまで発展しそうです。

ゴジ〇じゃあるまいし、 「横浜市立滝頭小」から海に向かってヒコーキが滑走するなどあり得ないことは明白です。

一体どうした事でしょうか??

 

という内容を(ゴ〇ラの件は省いてもっと簡潔に)「離陸場所は磯子埋立地」と教えて頂いた

「横浜市中央図書館レファレンスサービス」様にお伝えし、「この件で何か手がかりになる資料はありませんでしょうか?」

と再びお尋ねしてみました。

そして様々調べて頂いたのですが、結論を2行でまとめますと、

「様々な資料からすると、やはり埋立地内で滑走したと思われ、確かにこれは矛盾しているように見える。

当時の新聞記事で1,500mと出てくるが、どうしてこの数字なのかは不明」

とのことでした。

レファレンスサービス様が多方面から調査した過程で知り得た内容も教えて頂いたのですがその中に、

この"1,500m問題"の発端と思えるものがありました。

「横濱貿易新報」1930年8月19日付の記事にこうあります。

「元来アノ埋立地はギリギリ一ぱいで千三百米突(メートルとルビ・以下同様)しかない。中尉は千五百米突欲しいと云ふ。此二百米突を南風で補つて離陸するのだと中尉は云ふ。」

「米突」とは見慣れない言葉だったのですが、「メートル」の当て字なんですね。

この記事が載せられた1930年8月19日とは、タコマ市号が磯子を離陸した日です。

「1,500m」という、一見突拍子もないように思える数字は確かにここに載っていました。

後日オイラも市立図書館にお邪魔して、横浜貿易新報の当時のマイクロフィルムを閲覧させて頂いたのですが、

タコマ市号関連で「千五百米突」という数字が紙面に出たのはこの1回きりでした。

レファレンスサービス様は、当時の他紙、他の書籍にも当たってくださったのですが、

それでも千五百米突という具体的な数字は結局この1つしか見つかっていません。

レファレンスサービス様の見解は、

「磯子区1988年発行の書籍(浜・海・道 あの頃、そして今…磯子は)、区の関連サイトはじめ散見される

"1,500m"という数字はこの新聞記事が情報源になっていると思われる」

というものでした。

タコマ市号離陸当日の地元紙に「千五百米突」と書かれれば、そりゃその数字が出回りますよね。

 

妄想話

磯子埋立地の滑走可能距離が実際は385mしかないにも関わらず、1,500mという数字が書籍、サイト内で散見される。

これは、離陸当日の地元紙に1,500mという数字が記されていたためであると思われる。

ここまでを2行でまとめますとこうなります。

ではどうして横濱貿易新報にこんなあり得ない数字が出てきたのか考えてみました。

ココから先は完全にオイラの妄想話ですので、話半分で読んでください。

繰り返しになりますが問題の「横濱貿易新報」の中では、

「元来アノ埋立地はギリギリ一ぱいで千三百米突しかない。中尉は千五百米突欲しいと云ふ。

此の二百米突を南風で補って離陸するのだと中尉は云ふ。」

と記されています。

 

~本当は1,500m欲しいけど、埋立地は最大でも1,300mしかない~

 

実際の埋立地の長さは、最大でも525m。滑走可能距離は最大385m。

どうしてこの埋立地から1,500mとか1,300mとかいう数字が飛び出すのか。。。

いろいろ考えた挙句にハタと思いついたのは、(もしかしたら、新聞記事は単位を間違えたかもしれない)ということでした。

ブロムリーとゲッティーはアメリカ人です。

アメリカでは滑走路の長さをフィートで表します。

1フィート(以下ft)=0.3048m として計算すると、

1,300ft≒396.24m

1,500ft≒457.2m 

となります。

記者がフィートをメートルと間違えたと仮定して換算するとこうなります。

「本当は457.2m欲しいけど、埋立地は最大でも396.24mしかない」

これなら埋立地の実際の滑走可能距離(385m)とほぼ一致し、話の辻褄が合います。

実は当時のタコマ市号関連の新聞記事の中では、長さを表す単位として「間」と「米突」が混在しています。

新聞記者がブロムリー/ゲッティーと実際にやりとりをした際は、

フィート法に基づいた1,500とか1,300という数字が出てきたはず。

米国人の彼らの口から出てくるフィートの数字を、紙面では「間」か「米突」に換算しなければなりません。

3つの単位が混在した結果の換算ミスだったのではないか。

そう考えたオイラは、横浜市立図書館でマイクロフィルムを閲覧させて頂いた際、

「千五百米突」と書いた翌日の記事で訂正がないだろうか。とも考えていたのですが、

離陸翌日以降もタコマ市号関連の記事はいくつかあるものの、訂正は入っていませんでした。

余談ですが、磯子区のサイト内にこの磯子埋立地での一件について扱ったページがあり、

その中でも「離陸に必要な1,500mとれる場所を提供して欲しい」的な一文があります。

で、磯子区様にここまでの内容を(もっと簡潔に)メールしてみました。

(大きなお世話だったかしらん(´・ω・`) )と思っていたのですが2日後に区役所の方から、

「記事修正し、距離の記載は取りやめました」とお返事頂いたのでした。

 

~~以下、完全に物理の話~~

結局彼らは霞ヶ浦ではなく、青森県の淋代海岸から太平洋横断を試みるのですが、1,700m滑走して離陸しています。

「1,700mも滑走して離陸したのに、磯子ではたったの385mで離陸できるものなのか」

ということをいろいろ妄想してみました。

「なんか面倒臭いからもう読むの止めた!」という賢明な方のために、結論を先に書きます。

「385mでも飛べたはず!」(結論終わり)。

 

余談ですが、「横濱貿易新報」8月23日付には「太平洋横断機の飛行コース指定」という見出しの元に、

逓信省と軍部の協議の結果、太平洋横断飛行コースを決定したとあり、具体的には、

「霞ヶ浦から水戸に出て海岸線を岩手県宮古に直行それより東経百四十一度四十分を北海道落石に出て千島の東をアリューシャン群島に向かふ(千島の上空は飛行禁止)」

とありました。


地図にするとこんな感じ。

茨城からアメリカに向かう場合、すぐさま太平洋に出て一直線に東進したくなりますよね?

「北海道をかすめて飛ぶように」という指示を聞くと、なんだかすごく大回りな気がしますが、

大圏コースで見るとそんなこともないですね。

前述の通りブロムリ―は青森の淋代から飛んだので、この霞ヶ浦を出発地とする飛行コースは結局使いませんでした。

淋代からの飛行コースにも何らかの指定がついたのではないかと思うのですが、不明です。

グーグルアースで測ってみると、淋代海岸→タコマ市の(大圏コースでの)直線距離は、7,250km。

使用機はタコマ市号(正式名称:エムスコB-3)という単葉機で、

彼らは1,020ガロン(約3,861ℓ)のガソリンを搭載し、総重量は5.5tでした。

これでオイラに分かる範囲でいろいろ計算してみます。

 

当時どんなガソリンを使っていたか分からないため、普通にガソリンの比重:0.75として計算すると、

タコマ市号は3,861ℓ≒約2.9tのガソリンを搭載していたことになり、総重量の半分強をガソリンが占めていたことになります。

当時のヒコーキはオイルの消費も激しかったので、飛行時間に比してオイルもタップリ積む必要がありました。

タコマ市号の資料がないため参考値ですが、零戦は型により増槽タンク無しで480ℓ~570ℓの燃料を積めたのに対し、

オイルタンクは60ℓでしたから、燃料に対して1割強のオイルを積んでいました。

ガソリンエンジン用のオイルの比重は0.86~0.90位で、ガソリンより少し重いです。

強引ですが、これをそのままタコマ市号に当てはめ、 3,861ℓのガソリンに対し、420ℓのオイルを積んでいたとすると、

オイルの重量は0.37t程度になります。

このことから、タコマ市号のガソリン、オイルを抜いた重量は、おおよそ2.23t(5.5t-2.9t-0.37t=2.23t)となります。

 

対して磯子埋立地→霞ヶ浦飛行場(海軍の航空基地)は、直線距離で86km。

アメリカ行きと比較して飛行距離は1/84なので、

搭載燃料とオイル搭載量も単純に1/84にすると、それぞれ34kgと4.4kgとなります。

タコマ市号のガソリン、オイルを抜いた重量2.23tにこれを加えると、2.27tとなります。

これはアメリカ行きの総重量(5.5t)の41%です。

当然搭載燃料、オイルには充分の余裕を持たせたでしょうが、

前記事の通り、滑走路の長さが少し足りず、2日間南風待ちをしたとありますから、

そんなにタップリとは積めなかったはずです。

横浜貿易新報8月20日付は、タコマ号が19日に無事霞ヶ浦に到着した様子を写真付きで伝えているのですが、

機体を思う存分軽くして空中輸送をしたため、荷物を1つも積んでいないので、今日は横浜に引き上げ明朝霞ヶ浦に引っ越してくる。

というプロムリー中尉のインタビュー記事が載っていました。

重量を軽減するため、必要な荷物も積めないほどの切り詰め方をしていたことが窺えます。

太平洋横断時は必要な荷物、水、食料を積んだはずですから、もう少し重くなったはず。

実は搭載燃料量、総離陸重量の計算はものすごく複雑で、

離陸開始から巡航高度に達するまでの燃料消費が最も激しいから、

飛行距離が1/84だから燃料も1/84で済むなどという単純な話ではない。とか、

燃料を大量に積むと、その大量の燃料に位置/運動エネルギーを与えるため更に燃料が必要なのだ。

とかいろいろあり、とてもオイラのような一般人の手には負えません。

また、淋代→タコマ市の飛行コースにも指定がついて飛行距離は若干伸びたかもしれない等々いろいろあってキリがないため、

磯子→霞ヶ浦飛行場の飛行の際、離陸前重量は、太平洋横断時の41%(2.27t)として以下話を進めます。

 

ヒコーキの離陸滑走を物理的に考える際、関係する基本的な公式が幾つもあるのですが、

切っても切れない3要素として先ずは、加速度、力、質量があります。

この3つの関係は、 

a(加速度)=F(力)÷m(質量)  

という式で表されます。

それぞれの数値は、掛け算割り算で変化するということですね。

仮に総重量(質量)が半分とすると、 この公式に当てはめるならば、離陸滑走時の加速度は倍になります。

加速度が倍になると、単純に滑走距離が半分で済む(この式には摩擦が入っていないので等加速度)ことになります。

霞ヶ浦行きの離陸前重量が太平洋横断時の41%(2.27t)とすると、加速度は2.44倍になり、

同じ速度に達するのに必要な滑走距離は697mで済みます。

 

加えて離陸について考慮する際に必要な要素として、揚力と速度の関係があります。

揚力は速度の二乗に比例する

という式があり、これは「揚力をより多く発生させるには、その分だけ速度を上げなければならない」ということです。

上の加速度の計算では、太平洋横断時と同等の離陸速度に達するのに、重量が41%なら、

697mの滑走でオッケーと出ましたが、そもそも重量が41%なら、そこまで増速せずとも離陸可能ということです。

これで滑走距離はもっと縮まりました。

 

更に、

空気抵抗は速度の二乗に比例する

という式があり、これは、「速度が上がるごとに空気抵抗が二乗倍で増える」ということです。

総重量が重いと、それだけ余計に速度を上げなければ離陸できないのは前述の通りですが、

重さのせいでただでさえ鈍い加速は、滑走速度が増すごとに空気抵抗が二乗倍で増えてゆき、みるみる鈍ってゆきます。

スロットルレバーを一杯まで押して滑走を開始し、そのままエンジン全開の状態にし続けたとしても、

速度計の針は、その上がり方が徐々に鈍ってゆきます。

ヒコーキに乗った方は、離陸滑走の際、最初は背中が背もたれにすんごい勢いで押さえつけられていたのが、

徐々に和らぐ感じがするのではないでしょうか。

アレは体が加速に慣れたのでも、ましてやパイロットが最初だけ本気出して乗客をビビらせようとしているのでもありません。

二乗倍で増えるという空気抵抗の式のせいです。

高速道路で100km/hで走行中、窓から手や足を出したことのある方は、その空気抵抗の凄さを実感しておられると思います。

現代の旅客機の離陸速度は240~300km/hにも達するので、100km/hでも凄い空気抵抗は、

300km/hの時はなんと9倍(300km/hは100km/hの3倍だから、3の二乗倍=9)にも達します。

CAさんの言いつけをちゃんと守り、危ないですから飛行中は窓から手や足を出さないが良いです。

こんな大きな壁がヒコーキの前に立ちはだかって巨大な抵抗となる訳で、

結果として加速度は徐々に鈍り、必要滑走距離は二乗倍に比例して延びてしまうことになります。

 

要するに、

燃料を満載し、鈍い加速で、それでもうんと速度を上げなければならず、1,700m走ってどうにか離陸速度に達した機体は、

重量が41%になれば、あっという間に加速して、低い速度でもサッと離陸可能。

ということです。

そこに風の力も借りれば、385mあればなんとかなるのではないかと思います。
 

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セントレア二題 [├雑談]

 

787展示施設

2015年7月、ボーイングからセントレアに787が1機寄贈されました。

これは飛行試験初号機(ZA001)という記念すべきものです。

ちなみにANAカラーの7872号機(ZA002)はアリゾナ州ピマ航空博物館が、

3号機(ZA003)はシアトルのミュージアム・オブ・フライトが、それぞれ譲り受けています。

セントレアは2016年3月31日、「この787飛行試験初号機の屋内展示を核とした、複合商業施設を整備する」と発表しました。

展示エリアでは教育的コンテンツも併設することで、若年層の航空への興味を喚起し、

次世代を担う人材育成に資する等、地域への貢献にも繋げていく計画です。

加えて商業エリアでは、シアトルを中心としたアメリカの雰囲気を演出し、

魅力的な飲食、物販店舗の展開を検討しているのだそうです。

 

建設予定地は中部国際空港の南側立体駐車場近接地、2017年度下期開業を予定しています。

本家ボーイングサイト によりますと、2016年4月現在の787の最新デリバリー数は380機でした。

2011年のデリバリー開始からもうそんなになっていたのですね。

しかも2015年は135機を達成しています(@Д@)

ボーイングは今後も月産レート引き上げを予定しており、続々と787が生産される予定です。

■ボーイング787ドリームライナー「ZA001」
客室仕様:テスト飛行仕様
初飛行:2009年12月15日
最終飛行:2015年6月22日
最終到着地:中部国際空港
テスト飛行時間:計1,363時間
テスト回数:525回以上
地上試験:計1,464時間
エンジン:ロールスロイストレント1000
試験項目:耐空性・フラッター・システム及び低速性能・安定性とコントロール・フライトコントロール等を含む航空力学機能

 

LCCターミナル

またセントレアは2016年3月31日、LCCターミナル新設決定を発表しました。

建設場所は現ターミナルビルの南側の臨時駐車場で、LCCターミナルビルと駐機場(小型機5機+共用スポット拡張)。

2017年度に設計に着手し、2019年夏までに開業予定だそうです。

2本目の滑走路建設を目指しているセントレア。今後も動向が楽しみです。


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ANA、A380発注正式発表 [├雑談]

ANA、A380の発注を正式発表

1月29日、ANAがA380の3機発注を正式発表しましたね。

突然ですが、「世界最大の旅客機」A380はどれだけコンテナを積めるのか、B777-300と比較してみました。

広く使用される規格コンテナ(LD-3)の搭載可能数で比較すると、

B777-300:44個
A380-800:38個

で、A380はB777-300より搭載数が少ないです。

以前の記事 で書きましたが、A380は「重さと比較した翼面積(翼面荷重)」が他の旅客機より少し大きいです。

翼面積が大きいと、ゆっくり経済的に飛ぶには都合が良いのですが、

空気抵抗をより大きく受けるため、高速飛行には向きません。

ところがA380は巡航速度を高く設定しています。

加えて総二階建ての図体、B777-300よりやや推力の小さいエンジンを4つ回すため、

B777は勿論のこと、新世代の経済性に優れた旅客機と比較しても、「乗客1人あたりの燃料消費量」で分が悪く、

巨体の割にはコンテナも積めませんから、「搭乗率が低くても貨物で挽回」というのもなかなか難しく、

常に高い搭乗率を維持しないと利益を出すのが難しいヒコーキと言えます。

このため、ANAのA380発注を巡ってネット上では、

「あんな燃料喰いの高コスト機を導入してANAの経営は大丈夫なのか」

と危惧する系と、

「A380をホノルルに投入するANAの経営戦略」系に大きく二分されています。

この記事では特に「あんな燃料喰いの高コスト機を導入してANAの経営は大丈夫なのか」

と危惧する系に絞ってオイラの妄想話を。

 

ANAの圧勝!!

-ANAはA380を自社フリートの柱に据える気はなく、多少の赤字が出ても構わないと考えている-

結論から申しますと、これがオイラの予想です。

もう1つ付け加えるなら、余りに赤字が酷いようなら、とっとと売り払ってしまうはずです。

そもそもANAがA380を導入したのは、スカイマークを自社の傘下に置くためでした。

スカイマークの支援をどちらが行うかで米デルタ陣営との間で激しい争奪戦を演じ、

大方はANA不利と見ていたものの、フタを開けてみれば結果はANAの圧勝でした。

この大逆転劇は、スカイマークが発注したA380をANAが引き取るという条件で、

エアバス、ロールス・ロイス、CITの取り込みに成功したためだとされています。

 

ANAにとってのメリット

めでたくスカイマークを自社の傘下に置くことに成功した訳ですが、

A380というお荷物(となりかねないブツ)を引き取る代わりにANAが手にした最大のもの、

それは、スカイマークの持つ36という大量の羽田発着枠です。

ANAはこれが欲しかったからこそ、デルタと激しい争奪戦を繰り広げ、A380という高い買い物までしました。

これまで大手2社の羽田発着枠は、JAL:183.5便、ANA:171.5便 でした。

これが今後は、JAL:183.5便、ANA:171.5便+36便(207.5便) となります。

スカイマークはこれまで「大手に対抗する第三極」としてANA、JALとは距離を置く独自の経営を行い、

羽田便の値下げに大きな役割を果たしてきました。

ANAにとってみれば、目障りな存在。

スカイマークが傘下に入ることで、ANAはJALを上回る大量の発着枠を管理下に置くことになったばかりでなく、

羽田便のチケット代をコントロールすることが可能になりました。

勿論、傘下に入れたからといって、スカイマークとその発着枠が完全にANAの好き放題になる訳ではなく、

ANAも、そして当然ながらスカイマークも、「スカイマークの独自性は守る」としているのですが、

ANAは当初、新生スカイマークに自社から社長を送り込むつもりで、国交省から“やり過ぎだ”と待ったをかけられました。

旧スカイマーク経営陣、それに国をも巻き込んでの駆け引きは既に始まっています。

 

ANAにとってのデメリット

ANAはA380導入に伴い、パイロットと整備士の養成、運航する上での規定作り等、沢山の準備が必要となります。

実際に運航が始まれば、万一機材にトラブルが発生した時に備え、500~600人を運べる予備機にも気を回さねばなりません。

購入数はたったの3機ですが、保有数が少ないからといって準備と運航が楽になることは決してなく、

むしろ「しなければならないこと」の項目は3機だろうが100機だろうが大して変わりません。

導入に伴う諸々を考えると、本当は最低でもA380を10機は保有していないと効率よく回せず、

そのメリットが十分に活かしきれないのだそうです。

導入の前準備も、導入後の運航も本当に大変なことで、A380が驚くほどの高収益を上げるとも思えません。

しかしこうしたA380導入に伴うデメリットは、「ANAの言いなりにはさせまじ!」とする勢力にとって、

有形無形に利いてくるはずです。

「あーあ、どこかの代わりにデカブツ引き取らされたせいでウチは大変だなー、イヤーホントに大変だなー(チラ)」

みたいな感じで、A380導入に伴うデメリットでさえ、

ANAのシナリオ通りに事を進めようとする局面ではメリットになり得るはずです。

運航がなかなか軌道に乗らず、大きな赤字を出し続けるようであれば、A380を売却すれば良いだけで、

仮にそうなったとしても、A380を受け入れる代わりにANAが手にしたものは、

「A380を導入してまで守った権益」という事実と共に、売却後も残り続けます(リセールバリューは最悪でしょうが)。

仮にスカイマークがデルタの傘下に入っていたとしたら、羽田の36枠がデルタ側に行っていた訳で、

国内航空会社でさえ喉から手が出るほど欲しい大量のまとまった羽田枠を外国航空会社がどう使っていたか知れません。

「ANAで本当にヨカッタ~」と国交省も思ってるのじゃないかしらん。

 

もう1つのメリット

ANAがA380を導入するメリットとして、イメージ効果もあります。

一昔前に比べ、国内で747を見る機会は本当に少なくなりました。

そんな中、総二階建て4発機のインパクトは絶大です。

ANA塗装を施した巨人機の雄姿は、マニア様からオイラのような健全な一般人に至るまで恰好の被写体となり、

「ANA塗装のA380の横でチョコマカしてるJALのB737タソカワイイ!」みたいな対比写真も拡散しまくるはず。

"かつてのフラッグキャリア・JALさえ持っていない世界最大の旅客機"

JAL<ANA というイメージが浸透するはずです。

運航そのもので多少の赤字が出ても、この絶大なCM効果を生む写真が撮りまくられた時点で、

もうA380導入の意義は十分あると思います。

 

トータルで

繰り返しになりますが、A380の運航と、それに伴う諸々含めれば、労力とコストは相当なものになるでしょう。

パイロットは最低でも1機あたり10人必要なため、A380を3機運航するには、30人~40人を確保しなくてはならないそうです。

A380の運航と支援体制の構築と維持、諸々全部ひっくるめて利益が出せないとしても、

ここに挙げた(オイラが思いつかないだけで他にももっとあると思いますが)ようなメリット・デメリットをひっくるめ、

トータルで大きなプラスになると踏んだからこそ、ANAはA380の導入に踏み切ったはずです。

羽田の発着枠は、「1つで年間20億~30億円の利益が出る」とされています。

それを36も支配下に置き、これまで対抗上上げる事がなかなか難しかった羽田便の価格をコントロール下に置けるとなれば、

これは大きなメリットとなるはずです(羽田便利用者にとっては嬉しくない話ですが) 。

A380の導入がこうしたメリットを得るための手段であると割り切って見たとき、

ANAが購入するのがたったの3機であることも、シミュレーターと整備は社外とする方針であることも、

オイラにとっては、「ANAはしたたかだなあ」という思いを強くします。

「A380をホノルルに投入するANAの経営戦略」的な記事を拝見すると、

A380をホノルル線に持って来るメリットは様々あり、ANAもA380で赤字を垂れ流す気は毛頭なく、

様々な戦略を練っているようです。

 

どうなりますか。


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続・根岸氏と水産試験場のこと [├雑談]

少し前に「根岸氏と水産試験場のこと」という長々とした記事を書きました  

繰り返しになりますが、静岡県立水産試験場は根岸氏の魚探飛行を頑として認めようとせず、

実際に飛行が始まってからも執拗に妨害を繰り返したと根岸氏の手記に出てきます。

ところが後年水産試験場は広報誌「碧水」で数回この魚探飛行について取り上げた際、

根岸氏を極力表に出さず、手柄だけ横取りするような書き方をしました。

オイラはこの「碧水」の取り上げ方に疑問を感じたのでした。

そしてもう一つ、拙記事に長々と書き連ねて疑問を呈したのは、

魚探を実施した場所と期間について、根岸氏の手記と「碧水」の内容が食い違っているように見える。ということでした。

 

「碧水」の中では、魚探飛行の期間と場所について、

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年と4年の半ばまでは、八丈島の飛行場を基地としていましたが、 昭和4年以降、三保を基地に調査が行われました」。

と記しています。

一方、根岸氏は自身の手記の中で、魚群探査を行った期間と場所について端的にこう記しています。

「2年、3年、4年と駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場で」

 

一見同じことを言っているように思えるのですが、いろいろ調べてみると、「碧水」の書き方は不自然に見えます。

例えば、根岸氏は「魚探のために」と三保に「根岸飛行場」を建設し、5年の粘り強い交渉期間を経て、

やっと魚探事業開始の運びとなりました。

ところが仮に「碧水」の通りだとすると、根岸氏は昭和3年の実用飛行開始の際、なぜか根岸飛行場ではなく、

八丈島の既存の飛行場を基地にして、魚探事業を始めるのです。

昭和4年いっぱいで根岸氏はこの魚探事業の主体から外され、その後は東京航空輸送社と水上機による事業となります。

漁期、残された活動記録からすると、根岸氏が「根岸飛行場」で魚探事業を実施したのは、

最大でも昭和4年7月途中~10月までのたった数ヶ月だけということになってしまいます。

長くなるので中身は割愛しますが、運用機、魚群探査の実態、それぞれの飛行場の位置関係から考えると、

三保と八丈島は気軽に行き来する距離ではなく、このことからも八丈島を基地にしている間は、

伊豆諸島近海の魚探に専念したと考えられ、根岸氏の手記とは異なる気がします。

 

結局のところ、「根岸氏と水産試験場のこと」でオイラが最も言いたかったことを一行にまとめると、

「『碧水』に書かれている魚探の場所、時期についての記述は不自然に見える」

ということです。

ただし、オイラの説を証明する明確な証拠はありません。

飽くまでオイラが「碧水」と根岸氏の手記をいろいろ見比べてみて、

「根岸飛行場」をたった数ヶ月しか使用しないとする「碧水」は不自然に「感じる」ということです。

 

で、ここからが本題なのですが、タカアシガニ1号さんという方から、「平木国男(1983)空駆けた人たち-静岡民間航空史」

という参考文献を挙げていただきまして、ポチッてみました。

この本に問題部分に関する非常に興味深い情報がありましたので、その点を記してみます。

先ず、「空駆けた人たち」の著者の平木国男氏について、かの木村秀政氏のオビ文で次のように紹介しています。

「著者は…航空大学校で民間航空史を講義している人だけに、正確無比といっていい内容を興味深く読ませてあきさせない」

同書文末の資料・写真・談話提供者には、根岸氏ご本人の名前が挙げられており、

「主な参考文献」には、「根岸錦蔵『錦蔵・思い出の空』(日本婦人航空協会の機関誌に連載中)が挙げられていました。

また発行者の石川浅雄氏については、NHK「静岡の昭和史・航空編」に根岸氏と共に出演、

静岡県民間航空研究家として紹介されたという人物です。

憶測のみで仮説を立てるオイラのヘッポコ記事など比較にならない信憑性がある本ですね。

 

この「空駆けた人たち」の中では、根岸氏の魚探への取り組みについて非常に詳しく記されており、

今まで不明だった時期についても様々情報が記されていました。

一例として、魚探事業の許可が下りた時期。

これまでは、単に「昭和2年」に許可が下り、この年は試験飛行を実施した。としか分からなかったので、

試験飛行に丸々1年も使ったのかしらん。と考えていました。

「空駆けた人たち」によれば、航空局、農林省、静岡県から魚探飛行の予算が計上された際のことをこう書いています。

「いよいよ魚群探査飛行開始のメドがついたのだ。昭和二年十月であった。もっとも試験飛行もあり、実際に開始されたのは翌三年六月からで(以下省略)」

と記されています。

昭和2年もかなり後になって動けるようになったのですね。

明けて昭和3年。「碧水」によれば、根岸氏はこの年から八丈島を基地にしたと繰り返し記述しているのですが、

「空駆けた人たち」には昭和3年の根岸氏の活動の様子について、一部要約ですがこう記しています。

 

「魚探飛行の効果で俄然漁獲高が上がり、三保飛行場のところは急に海が深いので海岸すれすれに大漁旗を掲げた船が

大声に有難度うと言っては魚を岸に投げて行く。私は嬉しかった。

伊豆や焼津へ帰る船もあるだろうが皆が喜んでくれている事がよく分かった。

漁の休みの日に一升持って礼に来る義理堅い漁師もあった。」

 

この短い記述で昭和3年、根岸氏がどこで魚探飛行をしていたかは明白です。

「碧水」によれば八丈島を基地としていたとありますが、

「空駆けた人たち」では、根岸飛行場を基地として駿河湾で魚探飛行を行っています。

因みに「空駆けた人たち」66p~67pの間に写真の頁が挟まれていて、

その中の一枚は魚探に使用した「白龍号」と根岸氏他数人の写真が掲載されており、

「昭和3年6月ごろ、根岸飛行場で」というキャプションがついています。

「碧水第98号」ではこの年八丈島を基地にしたとあり、示されているデータによれば、

この年の魚探飛行の期間は6月~8月までとなっているのですが。。。

 

「空駆けた人たち」90pで、根岸氏は昭和4年5月に八丈島に渡り、この年は八丈島を基地にして魚群探査飛行を続けたとあります。

またこの時の八丈島への飛行について、根岸飛行場から八丈島まで250kmの距離があり、

最大時速190kmの三菱式R1-2だから、無風時で2時間弱の飛行であること、

陸上機による2時間の洋上飛行というものは、

慣れない人にとってはいい気持ちのしない、特殊なものであることにも触れています。

 

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年と4年の半ばまでは、八丈島の飛行場を基地としていましたが、 昭和4年以降、三保を基地に調査が行われました」。

とする「碧水」

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年は根岸飛行場で、4年は八丈島の飛行場を基地とした」

とする「空駆けた人たち」

両者は、昭和3年に根岸氏がどこで魚探飛行を行ったかで食い違っています。

根岸氏の手記にある「2年、3年、4年と駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場で」

という表現にピッタリフィットするのは、「空駆けた人たち」の方だとオイラは思います。

水産試験場は広報誌で「昭和3年から八丈島を基地とした」と繰り返すことで、

根岸氏と根岸飛行場の活動を闇に葬り去ろうとしているようにオイラは思います。


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Honda Jet デリバリー開始 [├雑談]

12月8日にFAAから型式証明を取得していたHonda Jet が23日にいよいよデリバリーを開始しましたね。

創業者本田宗一郎氏の夢がついに結実しました。

\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/


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根岸氏と水産試験場のこと [├雑談]

~~前記事の続きでオイラの妄想を多分に含んだ長文です~~

~~真面目に読むと疲れますのでご了承くださいませm(_ _)m~~  

 

「碧水」2004年1月号

静岡県水産試験場から「碧水」という広報誌が年4回出ており、

これは1980年7月の創刊号からpdf形式で全て閲覧することが出来ます。

この「碧水」の2004年1月号(下記リンク参照)は、「静岡県水産試験場創立百周年特別号」になっていて、

5p~11pまで、静岡県水産試験場の「研究成果」と題して、34の代表例が挙げられており、

5pには代表例の4番目として「魚群探見飛行」という項目があります。

 

水産試験場の「研究成果」 

「飛行機自体が珍しい時代に、小型飛行機で上空からカツオ等の魚群を探索し、通信筒を投下して漁船に伝え、漁獲を飛躍的に向上させた。この事業は駿河湾から伊豆七島海域を対象として昭和3年から18年ころまで続けられた。」

この説明文には海岸に駐機する2機の水上機の写真が添えられ、

「魚群探見飛行機 義勇8号と9号」というキャプションがついています。

これが魚群探査についての説明の全てです。

そこには、ヒコーキによる魚群探査を生涯の仕事にしようと考え、交渉の末に飛行場を設置し、

飛行場設置後、実に5年に亘り県、試験場に魚群探査実施を懸命に働きかけた人物の事は一切出てきません。

やっとのことで始まった根岸氏の魚群探査事業に対し、当の水産試験場は当時どんな反応だったでしょうか。

前記事の「暗転」の項でも触れましたが、「日本民間航空史話」根岸氏ご本人の手記にはこうあります。

「魚群探査事業は県の水産試験場、水産課が取り上げなかったものを強引に実施したため、これの当事者から陰からの妨害も少なからずあった。これを排除しながら行わねばならなかったことは、非常な苦労であった。」

この「妨害」の一例として、前述の不意の県費カット未遂事件が発生しました。

 

「明治37年に静岡県水産試験場が業務を開始してから今日までの百年間に、静岡県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果のうち代表的なものを紹介します。」 

これが様々な"成果"についての前口上です。

航空機を使用した魚群探査方式の効果性については、根岸氏の手記でも、水産試験場側の資料でも、

漁師から非常に喜ばれる成果があったと記録に残っています。

試験場自体がこうして創立百年の代表的な研究成果の1つに魚群探査飛行を挙げ、

「漁獲を飛躍的に向上させた」と"自画自賛"する程です。

「研究成果」では、魚探の開始年を端的に「昭和3年から」としています。

「碧水」の他の号では、昭和2年は試験期間、3年から八丈島を基地にして稼働開始。ということになっています。

当時伊豆諸島唯一の飛行場は八丈島の三根飛行場だったのですが、これは昭和2年10月開場です。

それまでは三保しかないのですが、魚探の開始年を「昭和3年から」とすることで、

三保飛行場の稼働期間は実質たったの数ヶ月になってしまうのです(後で詳述します)。

因みに根岸氏の手記の中では、試験期間とか本格稼働とかの区別なしに昭和2年から始めたことになっています。

ところが「碧水」の「研究成果」では、この事業を開始した人物の名前も出て来ず、使われている写真も根岸氏とは無関係の水上機。

「魚群探査のために」と開設した飛行場も、陸上飛行機も、

およそ根岸氏と関わるあらゆる痕跡を塗り消してしまうかのような取り上げ方です。

 

「誰がやったかという事ではなく、純粋に事業成果を発表する」というのが趣旨かもしれません。

しかし県と水産試験場は、事業開始前は「飛んだら墜ちるから」と、危険を理由に魚群探査を頑として認めようとしませんでした。

そして開始後も、執拗に妨害を繰り返しておきながら、

魚群探査を「県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果」に持ってきて自画自賛。というのは、どうなんでしょうか。

根岸氏のことを知らない方がこの説明を見れば、県水産試験場が独自にこの事業を始め、成果を挙げたと捉えるでしょう。

「先進的なことをしてたんだなあ。当時の場長さんは、よほど先見の明があったに違いない。静岡水産試験場さん、やるじゃん!」

そんなに根岸氏に触れたくないのなら、百年間の代表的な成果事例から魚群探査を外すという選択肢もあったはずです。

失礼な言い方で申し訳ないのですが、「碧水」の取り上げ方は根岸氏を闇に葬り、手柄だけ横取りしているように見えます。

根岸氏が試験場の一職員ならまだ分かるのですが。。。

 

水産試験場が魚群探査費用の全額、若しくは殆どを出しているならまだしも、

費用分担は、「航空局から年額4千円、農林省から2千円、県費2,260円」なので、静岡県が出しているのは全体の27%です。

残りの73%を出してくれた航空局、農林省に一言も触れず、手柄だけ独り占めですから、

ましてや一個人のことなど-ということなのでしょうか。

「研究成果」をpdfで実際にご覧頂ければ早いのですが、

34の代表例はそれぞれ、1枚の写真の隣が説明文のスペースになっています。

「魚群探見飛行」の項目にはまだまだ説明スペースに余白があります。

魚群探査を水産試験場百年の成果として取り上げるのであればせめて、

「飛行家の根岸氏の働きかけで始まった当事業は~」という一文だけでも入れて欲しかったです。

 

「碧水」2002年6月号-進んだ発想の下に

2002年6月号(98号) 6-8pでも「魚群探見飛行」について取り上げている(下記リンク参照)のですが、

その扱い方がなかなか興味深いです。

興味のある方は下にリンク貼ってありますので是非実際に見て頂きたいのですが、要約するとこんな書き出しで始まります。

「魚探に飛行機を使用するという、当時としてはかなり進んだ発想の下に、昭和2年一大プロジェクトは始まった」

この6月号(98号)全体でも根岸氏の名前は、脚注の引用文献の中でたった1回登場するだけで、

根岸氏が何者なのかということは、この号を見ても分かりません。

「魚探に飛行機を使用するのは、当時としてはかなり進んだ発想である」

これは事実その通りなのですが、その発想をしたのは根岸氏で、この発想の下にプロジェクトを始めたのも根岸氏です。

試験場はその発想を否定し続け、一大プロジェクト開始後も妨害を繰り返し、

根岸氏に非常な苦労を負わせ、止めさせようとした側です。

ところが文中に根岸の根の字も入れておらず、これでは当記事を目にした方は、

「かなり進んだ発想」を持っていた試験場により、事業が推し進められた。

と受け取ることでしょう。

これでは事実と逆です。

 

続けてこうあります。

「魚群探見飛行の試みとしては、大正12年(1923)に三重県での事例が最も古いが、実用化には結びつかなかった。継続された事業としては静岡県が本邦初である。」

三重県で魚探飛行を実施した大正12年とは、奇しくも根岸氏が「魚探のために」と三保(根岸)飛行場を開設した年です。

即座に魚群探査の許可を出していれば、「三重県と並んで最も古い」と書けたのに、惜しかったですね。

更に遡れば、根岸氏は最初から「魚探のために」と飛行場を開設しようとしたものの、

県からの強い反対で開設が遅れたという経緯があります。

もし本当に「かなり進んだ発想」を持っていれば、飛行場開設、魚探開始も早々に許可を出していたはずで、

堂々の「本邦初」になり得たのですが。。。

 

それでもこんなに早い時期に魚探を開始した事について、

「今の時代にたとえれば、地方の水産試験場が専用の人工衛星を打ち上げるにも匹敵する大事業だったに違いない。」

と述べています。

また、「試験を開始するにあたり大きな障害となったのは、世間一般の飛行機の安全性に対する不当な危惧であり」

とも述べています。

根岸氏は手記の中で、世間一般が大きな障害になったとは一言も述べておらず、

むしろ試験場そのものが大きな障害になったと書いているんですが。。。

この後の根岸氏の使用機についてのところでも触れますが、

三保飛行場が完成した大正12年は、第一次大戦終結から5年後で、ますます航空機の重要性が高まり、

海軍では空母、艦載機の開発、運用が進められ、

国民に広く航空機についての啓蒙活動を行う諸団体が既に組織されていた時期です。

そんな時代に、試験場が「大きな障害」と感じる程、世間一般からの具体的な圧力が本当にあったのでしょうか?

前記事でも触れましたが、根岸氏は三保に飛行場を開設する前に、同じ静岡県の福長飛行機製作所で操縦訓練をしていました。

その頃(大正8年~9年頃)の様子について、やはり日本民間航空史話に福長飛行機の関係者の手記がありました。

その本の45pには、当初なかなか飛ばないヒコーキに地元の人たちが「カニ飛行機」とあだ名を付けていたこと、

やがてヒコーキが飛ぶようになると、土地の人たちは敬意を表し、応援するようになったことが記されています。

同じ静岡県で、土地の人々は民間機の飛ぶ様子に敬意を示しました。

一方で、水産試験場はまがりなりにも官営の施設です。

今でこそこの種の反対運動は珍しくもありませんが、当時は軍国主義、官尊民卑といった言葉に象徴される時代背景のこともあり、

土地の強制接収とか、漁場を荒らされるとかを別にすれば、そんな運動が生じた事は聞いたことがありません。

試験場が(根岸氏が)やろうとしていたのは、漁師に魚群の位置を知らせようという試みでした。

これが成功すれば(成功するんですが)地元に計り知れない恩恵がある事業なのに、

それに対して世間一般が表立って障害となるような行動を起すものでしょうか?

この記事の筆者様は、「世間一般の飛行機に対する無知無理解には大いに困らされた」的な事を書いておられますが、

そうした事が実際にあったときちんと証明できるものを何か持ち合わせておいででしょうか。

根拠無しにこんなことを書いてしまうと、それこそ当時の地元の方に対する不当な批判になってしまいますが、大丈夫でしょうか。

そもそも当時、県と試験場は根岸氏の計画に大反対の立場でした。

世間から大きな反対運動が起こったら、むしろ大喜びしそうな気がするのですが。。。

 

大きな障壁となったのは、世間一般の「飛行機の安全性に対する不当な危惧」であり、当時の関係者の周囲には「懐疑と不安と確信とが渦巻いていた]。これを払拭するため、昭和2年9月、調査船富士丸(2世)の船尾から紅白の吹流しを曳かせて、それが高度何メートルまで見えるかという試験を行った。結局「ナアル程飛行機から見るってえのは、素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。

飛行機の安全性に対する不当な危惧を払しょくするため、試験飛行を実施し、試験は成功した。とありますが、

もし本当に飛行機の安全性が問題視されているのなら、当時はヒコーキが飛び回るだけで人が呼べる時代ですから、

試験に使用するヒコーキで飛行大会を開催し、地元の方を招待するとか、体験搭乗希望者を募るとかが普通だと思うのですが、

実際に行われたのは、船に吹流しを曳かせ、それが高度何メートルまで見えるか、というものでした。

そしてこれがなぜか大成功。

これって傍から見れば、沖に船を出し、その頭上でヒコーキが飛び回っているということですよね?

どうしてこれで試験場が「大きな障壁」と感じる程の飛行機の安全性に対する世間一般の不当な危惧を

めでたく払しょくできるのでしょうか??

注目すべきは最後の方です。

なぜか「素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。となっています。

当初は「世間一般の不当な危惧を払しょくするため」に試験を行っていたハズなのですが、

いつの間に試験の目的が世間一般から当局に変更されてしまったんでしょうか??

この試験、オイラには、まんま魚探飛行の有用性に疑念を抱く試験場職員(当局)に対する根岸氏の実証試験に見えるのですが。。。

コレ、語るに落ちてませんか?

この記事の筆者様は、根岸氏の手記をご存じで書いているのか、ご存じなく書いているのか存じませんが、

根岸氏のご親族がこの号を目にしたら、どんな心境なのでしょうか。

 

八丈島を基地として-「碧水」1986年12月第38号

「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)は、

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱っています。

この資料の中では、

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年と4年の半ばまでは、八丈島の飛行場を基地としていましたが、 昭和4年以降、三保を基地に調査が行われました」。

と記されています。

この一文がどういうことを意味するかについて理解するため、

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つを調べてみました。

 

a.使用機

当時根岸氏が魚探に使用していたヒコーキについて、妄想推測も含めて記してみます。

根岸氏の陸上機について資料では、「払い下げを受けた三菱の十年式陸上機 複葉、乗員2名、300馬力」とあります。

戦史叢書の付表に当時の陸海軍機の一覧表があるのですが、「三菱の十年式」に当てはまるのは、

「艦上機の開祖、一〇式トリオ」と呼ばれる「一〇式艦上雷撃機/艦上戦闘機/艦上偵察機」の三機種です。

それで根岸氏の使用機は、恐らくこの三機種のどれかの事を指していると思うのですが、

資料に出てくる「複葉、乗員2名、300馬力」という条件と比較してみるとこうなります。

・一〇式艦上攻撃機→三葉、450馬力、単座 なので違う
・一〇式艦上戦闘機→複葉、300馬力だけど単座なので違う
・一〇式艦上偵察機→複葉、乗員2名、300馬力で合ってる

ということで、根岸氏が使用したのは、「一〇式艦上偵察機」なのではないかと思います。

根岸氏の手記でも、そして水産試験場の資料でも、「艦上機」ではなく、「陸上機」としているのが気になるところなのですが、

これは、根岸氏の魚群探査の後を継いだ機体がいずれも水上機なので、それと区別するためなのではないかと思います。

三菱の「一〇式艦上偵察機」は1924年(大正13年)に運用を開始し、159機生産され、民間にも払い下げられていますので、

この点も魚群探査機の条件と合致します。

「一〇式艦上偵察機」のスペックについて、戦史叢書の資料では、「全速110節、航続力3.5(時)」とあり、

Wikiには、「最高速度:204 km/h、航続距離:754 km」とあります。

110節はキロ換算すると、203.72km/hになるので、Wikiと数値が合っているのですが、

問題は航続距離の方です。

Wikiでは754 kmとあるのですが、戦史叢書のスペックからすると、(あり得ないことですが)全速で3.5時間飛んでも、

713kmにしか達せず、計算が合いません。

どちらか数字が間違っているのだと思います。

それで戦史叢書の数字をとることにしました。

最高速度:204 km/hなので、(オイラの独断で)巡航速度:150km/hと仮定すると、

航続力3.5(時)から、航続距離:525kmとなります。

以下、この数字で話を進めます。

この機の信頼性については「碧水」の中で、「30分もすればガタガタいいだす代物で、根岸氏は大変苦労されたようでした」

また別資料でも、「白竜号(根岸氏の使用機)は状態が悪く、天候不順、故障や事故による機体破損などで当初の予定通りには探見飛行が行われませんでした」

とあります。

 

繰り返しになってしまいますが、根岸氏の使用機は一体何だったのかについて要約すると、

「三菱製、陸上機、複葉、乗員2名、300馬力」と資料にあり、

その条件にピッタリ当てはまるのが「一〇式艦上偵察機」なので、この偵察機を流用したのだろうと考えているのですが、

根岸氏の手記の中で、所有機として「十年式戦闘機」という言葉がたった1回だけですが、出てきます。

(根岸氏は魚探から手を引いた後もずっと飛行家だったのですが、この戦闘機云々については魚群探査からすっかり手を引いた後の話の中で登場し、所有していた時期が記されていないため、ややこしい)

実は「一〇式トリオ」と呼ばれる一〇式艦上雷撃機/戦闘機/偵察機の三機種は、

全てイギリスのソッピース社から招聘したハーバート・スミス氏が設計しており、

スミス氏はまず戦闘機を手掛け、次いでこの戦闘機を拡大し複座にした偵察機を設計しました。

この2機は姉妹機ということで、外見は非常によく似ています(雷撃機の方は三葉で全くの別物)。

で、この戦闘機は単座なので、根岸氏の使用機候補からは除外したのですが、

よく調べてみたら、「二型」と呼ばれる複座型練習機もあったのだそうで、

根岸氏の手記に出てくる「十年式戦闘機」というのが、魚群探査に使用した機のことを指すのだとしたら、

もしかしたら使用機はこの、「一〇式艦上戦闘機・二型」なのかもしれません。

戦闘機の方は偵察機より若干早く、最高速度は215km/hなのですが、航続時間が2.5時間と短くなっております。

後述しますが、これだと魚探には更に厳しいスペックとなります。

 

余談ですが、使用機に搭載している発動機について、根岸氏の手記の中では、「イスパノスイザ300馬力」と記されており、

戦史叢書の資料では、艦上戦闘機/偵察機共に「ヒスパノ300馬力」と記されているのですが、

根岸氏の使用機は、「イスパノスイザ300馬力」を三菱でライセンス生産した「三菱ヒ式300馬力」を使用していた。

とするサイトもあります。

 

b.魚群探査の実態

魚群探査飛行が具体的にどのように行われていたのか、水産試験場の資料に説明されていました。

初期の頃は無線を搭載した漁船が少なかったのだそうです。

それで上空から魚群を発見すると、その情報を紙に記して通信筒に入れ、

情報が欲しいと旗やたもを振って合図してくる漁船に投下して知らせるという方法がとられました。

つまり、飛行場を離陸し、漁場まで飛行し、魚群を探し、

それから情報を欲している漁船の上空まで行き、通信筒を投下しけなければなりません。

目標海域上空に到達してからが本番な訳で、「30分もすればガタガタいいだす」信頼性の乏しい陸上型のヒコーキで、

しかも洋上飛行となれば、飛行場から目的地までは1分でも近い方がいいに決まっています。

 

余談ですが、「碧水」(2002年6月 第98号)7pには、年度別の魚群探査の詳しいデータが示されています。

それによれば、昭和3年度は調査飛行回数25回に対して、飛行時間は24時間25分、

同じく昭和4年度は20回で23時間37分となっており、

1回の平均飛行時間は、昭和3年度が59分、昭和4年度は1時間11分です。

この魚群探査の所要時間についてですが、根岸氏の手記の中で

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とあります。

ところが現実には1時間凸凹ですから、本当はもっと飛びたかったはずで、

使用機の信頼性のせいで1回の飛行時間を制限せざるを得なかったのかもしれません。

 

c.位置関係

飛行場、漁場の位置関係はこんな感じ↓です。

無題2.png

八丈島は伊豆七島の中では駿河湾から最も遠く、駿河湾~八丈島間は最短でも約200kmあります。

三保から伊豆半島挟んで反対側の大島とか、もっと近ければ、駿河湾だろうが伊豆諸島近海だろうが、

それほど支障なさそうですが、結構離れていたんですね。

「伊豆諸島東京移管百年史」1088pによれば、八丈島近海は「日本三大漁場の一つ」なのだそうで、

それならここで漁をする船はたくさんあるでしょうから、魚探飛行をする意味は大いにあるのだと思います。

またこの資料では、八丈島近海の漁について、3~5月はトビウオ、ハマトビ漁、8~12月はクサヤモロ漁等、

通年獲れるものもあるが、狙う魚種により漁期というものがあることが記されています。

根岸氏の手記でも「漁期」という言葉が出ており、

これが通年ではなく限られた期間しか探査飛行をしなかったことに繋がっているようです。

 

余談ですが、根岸氏が八丈島で使用していた飛行場はドコかについて。

現在の八丈島空港のあたりに海軍の飛行場が建設されたのは戦争末期の時期ですから、

根岸氏が使用したのは、八丈島に最初に建設された「三根飛行場」という、

現在の空港の北東側にあった飛行場(昭和2年10月開場)でした。

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つが出ましたので、この3つでいろいろ妄想考えてみます。

 

八丈島から駿河湾に飛ぼうとすると

水産試験場の資料では、事業化した昭和3年から、八丈島を基地にして魚探飛行を行ったとあります。

一方で、根岸氏の手記では、昭和2年から4年にかけて駿河湾でも、八丈島でも魚群探査を行ったとあります。

仮にの話なのですが、八丈島を基地にしていた当時、駿河湾の魚群探査に向かったとするとどうなるのか具体的に考えてみました。

使用機についてですが、機種は前述の通り「一〇式艦上偵察機」。
(最高速度:204 km/h、巡航速度:150km/h、航続時間:3.5時間、航続距離:525km)と仮定して以下話を進めます。

このヒコーキで八丈島から駿河湾に向かうとすると、最短でも200kmですから、片道1時間30分位かかる計算になります。

八丈島飛行場と駿河湾の往復に3時間、

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とありますが、

現場海域で魚群探査をするために残っている燃料は0.5時間分ということになります。

 

既にまともな魚探は出来ない計算になるのですが、この当時、伊豆七島には八丈島以外にまだ飛行場はありませんでした。

(八丈島以南はこの当時、700km離れた父島にも、930km離れた硫黄島にもまだ陸上飛行場は整備されていません)

ですから、八丈島~三保の飛行中何かトラブルがあれば、ルート途上に緊急着陸可能な飛行場は存在せず、

切迫していればそのまま着水するか、もう少し余裕があれば進路を東にとり、

伊豆諸島のどこかの島の適当な空き地を探す羽目になります。

八丈島か三保の飛行場まで辿り着けそうもないという事態になった時点で、

陸地か、海面か、いずれにせよ不時着決定ということです。

悪くすれば機体は使用不能で廃棄処分、良くても機体の回収、修理が必要となり、捜索隊出動という事態になるかもしれません。

実際、昭和4年7月にこの機は本当に不時着してしまい、機体は破損、使用されなくなり、新たに同型機の払い下げを受けています。

根岸氏の魚群探査事業は、危険を理由に長く許可が出なかったところを無理を押して事業化したという経緯があり、

ただでさえ試験場が止めさせようと虎視眈々狙ってますから、事故は事業中止の立派な大義名分となり得ます。

使用していたのは海軍機でしたから、無事に着水できればすぐ沈むことはなかったはずですが、

いろんな意味で、不時着は避けたいところです。

 

不時着に至りかねない要因としては、機体の故障の他に、天候の悪化により目的の飛行場に着陸できないというのがあります。

機体の信頼性が比較にならないほど向上した現代では、こちらの方が運航に与える影響はずっと大きいですが、

様々な手記を見ると、当時の天候との闘いは本当に大変なものでした。

天候の影響をモロに受ける高度で飛ばざるを得ず、機速が遅いほど、風の影響を大きく受ける事になります。

追い風なら目的地に早く着けるのですが、向かい風があれば押し戻され、

横風があれば進路は狂い、目的地までのみかけの距離がどんどん長くなります。

現代と比べれば、当時は満足な航法装置も、地上の支援装置もなく、

自機がドコにいるのか、ドコに向かえばよいのか全く分からなくなり、

そのまま不時着できればいい方で、燃料切れで墜落、行方不明という事故は多く起こりました。

洋上飛行での不時着等の事故は命を危険に曝しますし、事業停止に至りかねませんから、

ルート上に代替飛行場のない長時間の洋上飛行ということも考え合わせると、

予備燃料の確保は非常に重要だったはずです。

 

戦史叢書の「航続力3.5時間」という数値でいろいろ考えている訳ですが、

この3.5時間というのは、理想的な高度、速度で真っ直ぐ飛び続けた場合の数字です。

b.魚群探査の実態 の項目で記しましたが、

魚群探査、漁船探査、通信筒投下のためには、理想的な巡航飛行とは程遠い、

上昇/下降、加速/減速、旋回の連続を強いられたはずです。

「碧水」98号7pによれば、魚群探査に適当な高度は300m程度とされています。

漁船に通信筒を投下する際には、更に高度を落としたかもしれません。

高度が下がるほど空気密度が濃くなります。

空気が濃いこと自体は、エンジン効率アップ、燃費向上につながるのですが、

高速で飛ぶヒコーキの場合、空気密度が濃いことは、エンジン効率を良くする以上に空気抵抗の増加につながり、燃費を悪くします。

これは当時のレシプロ機でも、現代のジェット機でも同様で、より経済的な運航をするために高度を上げるのはこのためです。

魚探飛行は、巡航速度を保ち、理想的な高度で一直線に飛び続けて出す「航続力:3.5時間」という数字を、

大幅に下回ったはずです。

 

「航続時間3.5時間、目的地との往復に3時間。残り0.5時間」

というのは、八丈島を離陸し、非常に理想的な飛行で駿河湾上空に到達したら即引き返し、

帰りも理想的な飛行が出来たとして、あと30分分の燃料が残っている。ということです。

こんなことあり得ませんし、帰りも理想的な飛行が出来るという保証はどこにもありません。

こうして現実的に諸々考えると、「30分しかないけど、それじゃあ早速魚探やりますかー!」

とか言っている場合ではないことになります。

当時の飛行場の位置関係、使用機の性能を考えると、

八丈島を離陸して、先ずは三保飛行場で給油してから魚群探査を行い、

帰りにまた三保で給油と整備を済ませてから八丈島に戻るというのが現実的だろうと思います。

 

三保飛行場から八丈島飛行場までは240kmあり、計算上1時間36分で飛べるのですが、1時間45分かかるとすると、

往復で丁度航続時間の3.5時間を使い果たすことになります。

往路八丈島を離陸して三保に向かったとして、三保が天候不良で降りられないとしても、燃料に十分余裕があれば、

本土には当時既にいくつか飛行場がありましたからどこかにダイバートできるはずなのですが、

復路三保を離陸して八丈島に向かった場合、目的地上空に近づいてみたらベッタリと黒雲に覆われているのが見えたとすると、

八丈島周辺に代替飛行場はありませんから、天候回復を信じて上空で旋回待機するか、

即刻三保に引き返すか、決断を迫られます。

特に戻りは燃料満載だったんじゃないでしょうか。

 

加えてコストの問題もあります。

根岸氏の手記の中で、使用していたヒコーキのエンジンは、60時間ごとに分解しなければならなかったと記されています。

三保飛行場と八丈島の三根飛行場を往復するだけで4時間近く使ってしまいます。

魚群探査飛行は、魚群を探査してナンボですから、燃料代もバカにならず、非常に不経済なことになってしまいます。

こうして考えてみると、八丈島を基地にしている間は、やたらと三保に戻ったりせず、また駿河湾の探索などせず、

八丈島周辺を飛び回るのが自然のように思います。

「明日は気分を変えて、久しぶりに駿河湾でもいくかー!」なんてノリで、ホイホイ気軽に行き来したとは思えません。

三保飛行場にいる時は駿河湾を、八丈島にいる時は伊豆諸島近海を、という具合に、

目の前の海で魚探を行うのが自然だと思います。

実際、「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pでは、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、機上(白熊号)より本島を認められる範囲内(約40マイル)の漁場を調査する実用試験に人った」

と記されています。

 

ということで、水産試験場の資料に記されている通り、本当に昭和2年は試験飛行、

そして昭和3年と4年の半ばまで八丈島を基地にしていたとすると、

その間は三保(根岸)飛行場の出番はほとんどなく、また捜索海域も駿河湾ではなく、

主に伊豆諸島近海に限定されるのではないかと考えられます。

この場合、三保の飛行場が稼働し、魚群探査の実績を挙げた期間は、

昭和4年の後半のたった半年しかないことになります。

「碧水」98号7pの魚探飛行データによれば、昭和4年の魚探飛行は10月27日で終了しており、期間は更に限られます。

前述の通り、根岸氏の使用機は八丈島で不時着事故を起こしたのですが、

これはよりによって根岸氏の魚探飛行最終年である昭和4年7月のことです。

残念ながら事故日が7月の何日かは不明なのですが、不時着を起こした場所は八丈島ですから、

7月に入っても根岸氏はまだ八丈島で飛んでいたことになります。

「碧水」の資料では、同型機の払い下げを受けて使用したとあるのですが、

7月に八丈島で事故を起こし、それから内地に戻り、機体を受領し、

三保(根岸)飛行場で魚探飛行を再開するまでにどの位の期間が必要だったのでしょうか。

そして、この年の調査飛行が終了する10月27日までに、どの位の期間飛べたのでしょうか。

いずれにせよ、三保(根岸)飛行場が日の目を見たのは、せいぜい数か月だけに留まったという事で、

根岸氏の作った三保飛行場はほとんど役に立っていないことになってしまいます。

そして昭和5年以降、根岸氏はクビになり、魚群探査に水上機が使用されているため、

「三保(根岸)飛行場」は魚探にはもう永遠に不要なのです。

 

水産試験場の資料からすると、「三保(根岸)飛行場」が魚群探査の基地として稼働した期間は、

昭和4年の後半の数か月のみ。そしてその後はもう出番はありません。

一方、根岸氏は自身の手記の中で、魚群探査を行った期間についてこう記しています。

「2年、3年、4年と駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場で」

「碧水」の資料とは、随分イメージが異なるのではないでしょうか。

 

三保(根岸)飛行場はなぜ造られたのか

根岸氏の手記の中では、魚群探査のために使用した具体的な飛行場については、「八丈島」しか出てきません。

時期により基地の変更があったとか、駿河湾の魚群探査にどの飛行場を使用したか明示する箇所はありません。

それは、駿河湾の魚群探査にドコの飛行場を使用したかということなど、言わずもがなだったからではないでしょうか。

そもそも三保(根岸)飛行場は、静岡電気鉄道専務、「東海の飛将軍」と称された大実業家、現鈴与創設者、

地元在住の大臣といった錚々たるメンバーから、「地元発展のために」等の思いから後援者になってもらい、

「魚群探査のために」と県に設置願いを出して苦労して認めさせたという経緯があります。

三保飛行場はまさに、「魚探のために造られた飛行場」でした。

ところが水産試験場の資料によれば、試験期間を経ていよいよ実用化の段階に来た時、

なぜか根岸氏は八丈島に移動し、そこで1年半も活動していたことになります。

念願叶って魚群探査を開始するとき、真っ先に活動の基地にしたのが、苦労の末に自ら完成させた飛行場ではないのです。

これはオイラには非常に不自然に映ります。

根岸氏が自らの意思でこんなことをするとはとても考えられず、

これが事実だとすれば、水産試験場から「先ずは八丈島でやれ」と強要される等、何か余程の事情があったはず。

後援者の手前もあり、こんなことが実際にあったのだとしたら、

手記の中で県への苦言を記している根岸氏のこと、そんな不条理な要求は当然手記に記録したのではないかと思うのですが。

 

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱った「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)の中では、

昭和2年の試験飛行が良好な結果であったこと等、なぜかその年の事業報告に記載されておらず、

なぜか7年後の昭和11年5月の静岡県水産試験場月報の中でやっと登場したことが記されています。

 

八丈島側の記録

因みに八丈島側にも、魚群探査飛行について少しだけ記録に残っています。

「伊豆諸島東京移管百年史」の中で、

「1928年(昭和3年)7月7日 (八丈島に)静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」と記されています。

年表では「白竜号飛来」とあるだけで、これが初飛来であるかどうか等記されていないのですが、

白竜号は何度も八丈島に飛来しているはずなのに、わざわざこの一回だけ記録が残っているというのは、

これが初飛来だったからなのではないかと思います。

 

「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」には、各年度ごとの魚群探査実施期間、飛行回数等のデータが記録されており、

1928年(昭和3年)は、探見飛行は6月~8月にかけて実施、調査飛行回数25回となっています。

何度も繰り返し書いていますが、水産試験場の資料では、根岸氏は昭和3年と翌4年の半ばまでは、

八丈島を基地にしていたことになっています。

昭和3年は1年間丸々八丈島を基地とし、魚探飛行は6月から開始ということは、

遅くとも6月には八丈島に飛来して、早速伊豆の近海を飛び回っているはずです。

では、八丈島側の「静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」という記録の日付が7月7日というのはどうしたことでしょう。

ちゃんと魚探事業したとして記録が残っている6月は一体ドコで飛んでいたのでしょうか?

また、この年表では魚探飛行について記しているのは7月7日の記述のみで、

八丈島を基地として1年半魚群探査をしていたにしては、受け入れ側の年表は余りにも素っ気なく感じます。

前述の通り、三保から八丈島は、そう気軽に行き来するような距離でないことも考えると、

「7月7日飛来」というのは不自然に思います。

 

双方の隔たり

長々と書いてしまいましたが、こうして水産試験場の魚探についての扱い方と、根岸氏の手記を比較するとき、

幾つか疑問点が浮かび上がります。

・水産試験場広報誌は事実を曲げて根岸氏を表に出さないようにしている(ように見える)
・魚探事業が本格稼働期に移行すると、八丈島に基地を移し、伊豆諸島近海でばかり飛行している
・魚探のために開設した三保は、本格稼働から1年半後にようやく使用し始め、結局ほんの数か月程度しか稼働していない

 

前出の「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pには、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、(中略)実用試験に人ったが、機関故障や機体破損のため、なかなか思い通りにはいかず、本格化したのは5年度からであった。」

とあり、この号では根岸氏のことも根岸飛行場についての説明も一切なく、

根岸氏が関わっていた昭和4年までは、「なかなか思い通りにいかない実用試験期」ということになっています。

根岸氏が試験場と関わっていた時期の両者の関係性、

そしてその後の「碧水」の露骨なまでの根岸氏の排除ぶり、浮かび上がる疑問点を考えると、

オイラ個人としましては、「碧水」の魚探についての記述をそのまま受け入れるより、

「昭和2年から4年にかけて、駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場でも魚探を行った」

という 根岸氏の手記の方がすんなり受け入れやすく思えます。

この根岸氏の書き方、「魚探活動のメインは飽くまで駿河湾」というニュアンスが感じられるのですが、

水産試験場の言う通り、もし本当に駿河湾での稼働期間がほんの数か月に留まっていたとしたら、

果たしてこんな書き方が出来るものでしょうか?

そもそも根岸氏が魚探事業をクビになった発端は前記事の通り、

伊豆諸島のカツオが南方に移って少なくなったため、サイパンを根拠として大型飛行艇による魚群探査を行おうと考えたことでした。

カツオは高度回遊魚で、一定のルートを巡って回遊します。

一年半の間、ひたすら八丈島周辺海域のみで魚探を行ったのではなく、

様々な魚群の回遊、移動に合わせて根拠地を変えようとした-

こちらの方がオイラには自然な気がします。

 

最後になりますが、この記事を書くに当たり大いに参考にさせて頂きました、

「魚群探見飛行のこと」という記事(「碧水」1986年12月第38号 5,6p)について。

この号を作成された方に限っては、根岸氏を疎むどころか、その多大の苦労を非常に好意的に扱っており、

公平な目で当時の資料を扱っているように受け取れるという点を申し添えておきます。

根岸氏の手記と比較すると、矛盾と感じる部分はあるのですが、この執筆者が使用した資料が身内のものですから、

その資料だけ見て書けば、当然こうなるだろうなあ。というのがオイラの印象です。

この方が作成した記事(1986年12月 第38号)と、「「百周年特別号」(2004年1月 第105号)が、

世に出る順番が逆であったなら、せめてもの救いだったのですが。

 

静岡県立水産試験場は広報誌を創刊するに当たり、「碧水」という言葉を誌名に選びました。

この広報誌の発行は現在も続いています。

オイラが検索した限り、「碧水」ではこれまでに3度魚群探査の特集記事を出しました。

今後、その誌名通りの記事が記されるようになることを心より望みます。

 


関連サイト:
「碧水」(1986年12月 第38号)「魚群探見飛行のこと」pdf(5、6p)   
「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」pdf(6-8p)   
「碧水」(2004年1月 第105号)「「百周年特別号」pdf(5p)   
(「碧水」は再生おじさんから情報頂きましたm(_ _)m )

この記事の資料:
日本民間航空史話
戦史叢書95巻:海軍航空概史 付表第一
伊豆諸島東京移管百年史


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祝! MRJ 初飛行 [├雑談]

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Photo:(有)オールドマンの旅行代理店・oldman様(以下3点とも)

 

MRJ初飛行

毎度毎度時事ネタを記事にするのが遅くて本当に今更なのですが、ついに飛びましたね~。

初飛行当日、オイラは地元埼玉でセッセと仕事に勤しんでいたのですが、

呑み仲間から「今名古屋?(笑)」とメールでからかわれました。

記念すべき初飛行時の貴重なお写真は、 (有)オールドマンの旅行代理店 のoldman様から頂きました。

国交省に登記された形式は、MRJ-200 JA21MJ だそうです。

 

2015年10月19日RJNA2 201.JPG

 

2015年11月5日RJNG&RJNA 227-1.JPG

この2点は初飛行より前に撮影されたものです。

初飛行の日時については公式アナウンスがあったので、空港周辺は大変な人だかりとなったのだそうですが、

MRJは普段は見えない場所で開発していて、外に出てくる日時についての公式発表もないため、

連日名古屋飛行場に通い詰め、昼食も現地で済ませ、ひたすら待って待ってやっと撮れるという、大変貴重な代物です。

事前に日時が知らされる初飛行写真とは比較にならないほどの時間と根気が必要なお写真。

オイラにはとてもマネできません。 しかもお天気の時のお写真を頂きました。

非常に非常に貴重なお写真です。

 

今後のスケジュール

MRJの今後の予定ですが、型式証明取得、初号機納入に向けて試験飛行を続けることになります。

具体的なスケジュールについて公式サイトによりますと、

今後、国内での飛行試験を継続し、2016年第2四半期からは、

米国モーゼスレイク市(ワシントン州)のグラント・カウンティ国際空港を拠点とした飛行試験を行い、

2017年第2四半期の量産初号機納入を目指すのだそうです。

これから5機体制でガンガン試験飛行を行いますが、

来年に入ると、5機とも揃って渡米し、しばらく国内ではMRJの姿が見られなくなる。ということなのでしょうか。

 

MRJは当初の計画では、初飛行を2011年、初号機の納入を2013年と発表していました。

2015年も末に来てやっと初飛行をすることが出来ましたが、公式発表されている2017年第2四半期のデリバリー開始まで、

残された時間は相当短いです。

787の場合、初飛行から初納入まで1年9か月を要しました。

また、デリバリー開始は結局当初の予定より3年遅れだったのですが、

遅延に次ぐ遅延は訴訟問題にまで発展し、「787はもう飛ばないんじゃないか」なんてまことしやかに囁かれたりもしました。

戦後、ジェット旅客機を続々世に送り出し続けてもう60年近いという天下のボーイングですら、

(たったの)3年遅れでここまでガタガタしてしまいます。

一方のMRJは既に4年遅れ。

世界の航空会社から見れば実績など皆無に等しい新参旅客機メーカーに、これ以上の遅れは許されません。

 

三菱航空機株式会社の今後

「初飛行に無事成功」というのは大きな里程標であり、確かにめでたいことなのですが、

三菱では旅客機製造事業をMRJだけで終わらせるつもりはないと明言しており、

YS-11では一代限りで途絶えてしまった国産旅客機の製造をこの先もずっと継続していく計画です。

航空会社の次期旅客機選定の際、安全性の実績は何より重視されるため、

その実績皆無のメーカーとしては、MRJの更なる販路拡大、そしてその次の旅客機開発まで繋げるためにも、

顧客となり得る世界中の航空会社に対し、MRJのデリバリー、量産、

そしてその後のアフターケアまで順調に繋げて見せることが必須です。

更に、MRJが真の意味で優れたヒコーキなのかどうかということは、実際の運用コスト、使い勝手等運用側からの評価、

機体の問題で重大インシデント、事故が発生するかどうか等々、長い時間をかけて実証してゆかねばなりません。

今後のデリバリー、量産まで、開発、製造には大変なスピードが求められるのですが、

無事にデリバリーまで漕ぎ着けたとしても、その後に設計ミス、製造ミス等が発覚でもしたら、一大事です。

様々な部署でスピードと確実性という、二律背反な環境の中、今後も非常に高いハードルが続々待ち受けることとなり、

関係者のプレッシャーは相当のものと思います。

どうか今後のスケジュールが順調に進み、先ずは予定通りデリバリーの日を迎えることができますように。


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御宿と銚子のVOR廃止 [├雑談]

無題61.png

an-kazuさんのコメントをヒントに flightradar24 の画面を切り取ってみました。

上図は10月13日(火)。時刻は19時頃の画面です。

着陸寸前のスターフライヤーの航跡を表示しているのですが、

まるでその航跡をなぞるかのようにたくさんの機影が連なっています。

西からの羽田着陸便はおおよそこんな感じのルートを辿ってました。

御宿VOR運用の頃なら、おおよそオレンジの軌跡になるはずなのですが、

この遠回りが無くなった分だけ飛行時間、燃料の節約になっています。

 

無題88.png

一方こちらは成田空港への着陸の様子です。

日付は10月14日(水)。時刻は6:02 ヤンゴンから飛来した成田到着便の航跡。

当日の成田到着1番機です。

成田は6時以前に着陸できないため、途中でぐるりと1周して時間の調整をしてます^^; 

確か2番機だったと思うのですが、こちらも小さな円を描いてました。

場合によってはこれが2周、3周になることもあります。

3番機だったか4番機だったか、東側から来てこの列の流れに乗ったヒコーキも、円こそ描かないものの、

とっても不自然な飛び方をしてました。

24時間空港ならこんなことせずにスムーズに着陸できるんですけどね~。

御宿と同じくこちらも銚子VORが廃止となったため、これを無視したルートになっています。

 

0606.png

上の画面から4分後。6:06 の画面。

6時の開港に合わせてキレイに列になって着陸していく様子がよく分かりますね。

なんか先頭の1機だけ右側にズレてますが、これはBラン着陸のためです。


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