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年末のごあいさつ [■ブログ]

今年も拙ブログにお越し頂きまして、本当にありがとうございましたm(_ _)m

毎年恒例の「空港探索」の進捗状況を(12/31現在・今後アップ予定の場所含みます)。

今年新たにお邪魔した飛行場/跡地:56
これまでにお邪魔した飛行場/跡地計:762
これからお邪魔する飛行場/跡地:44(前年同月比-23)
これまでに場所特定した飛行場/跡地計:806(前年同月比+33)

今年は、
日帰り:4回
無泊二日:1回
5泊6日(車中泊):3回

であちこちほっつき歩いたのでした。

各地の皆さまお邪魔致しました。そして大変お世話になりました。 m(_ _)m

 

今年の目玉としまして、場所特定した飛行場/跡地がついに800を超えました(@Д@)

ほんの1年前は、800を超えることなんて、あるんだろうかと思っていたんですが。。。

それから今回も2月いっぱいまでコメント欄閉じさせて頂きます。

どうもありがとうございました m(_ _)m


とり。 


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東京羽田飛行場(1931~1939) [├国内の空港、飛行場]

  2016年3月 訪問 

少し前の記事:「三本葭飛行場跡地」に書いた通り、

相羽有氏と玉井清太郎氏により開設した日本飛行学校の「三本葭飛行場」は、大正6年10月の台風で壊滅してしまいます。

相羽氏は資金集めの為一時航空界から身を引き、

もう一方の、兄清太郎の遺志を継いだ弟の玉井照高も大正10年11月末に横浜市鶴見区生麦の「玉井飛行場」に移転。

こうして羽田はしばしの空白期を迎えることになりました。

「日本民間航空史話」で相羽氏ご本人が「三本葭飛行場」から身を引いたその後について記しています。

それによれば、相羽氏は資金集めのため、自動車学校創立、出版事業、米車輸入元となり、巨利を得ました。

そしてそんな頃、陸軍の「立川飛行場」が建設され、西半分は草原で遊ばせていたため、

草刈りをする条件で使用許可を得て格納庫を作り、東京府からの公認も得てここに日本飛行学校が再開したとあります。

 

一方の羽田ですが、再び飛行場として注目されることとなります。

「日本民間航空史話」に相羽氏が記した続く部分によれば、

昭和4年(1929年)、羽田穴守が「東京国際空港」の適地として目を付けられ、

鴨猟場の北側の埋立地、16万坪を1坪10円で買収し、ここに南北の方向に600m滑走路1本が昭和6年に完成。

そして相羽氏には、「日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だから」ということで特別の承認を得て、

民間飛行学校と土地が割り当てられました。

(「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」によれば、「逓信省航空局が民間用飛行場を開設」とあります)

 

大正6年(1917年)10月の台風で壊滅してしまい、資金集めの為一時身を引いてから、昭和6年(1931年)の飛行場完成まで、

14年、相羽氏は再び羽田に戻ってくることになったのです。

この時の心情をご本人が「日本民間航空史話」の中でこう綴っています。

「大正五年、三本よしの干潟に発祥してから、拮据経営、実に十五年の歳月であった。あらゆる困難を踏み越え、有為転変の世の中に浮きつ沈みつ、よくもここまで来つるものかと、感慨は無量であった。」

 

無題3.png
1936年6月当時の写真(B8 C4 82) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

これが建設された羽田空港。

相羽氏と玉井氏が飛行学校を構えていた場所の北約530mに当たります。

相羽氏は割り当てられた土地に鉄骨格納庫、教室その他を整備。

ここに東京航空株式会社を創立し、フォッカー式や愛知式AB一型の水上旅客機を使い、羽田を拠点として、

伊東-下田-沼津-清水港への定期旅客郵便航空を開始し、政府から補助金を与えられました。

この辺のところは以前の記事 で書きましたが、清水の三保飛行場の根岸氏の話と繋がりますね。

「水路部 航空路資料 関東地方飛行場及不時着場 昭和18.8」の中に「東京飛行場」の詳しい地図がありました。

上の航空写真で飛行場西側にピョコンと飛び出した部分が見えますが、この部分は地図に「水上機滑走台」と記されており、

そこから一列に並ぶ格納庫は、一番西の端から順に、

「航空局第二格納庫」、「東京毎日新聞社格納庫」、「東京航空株式会社格納庫」…と記されています。

ここに水上機を格納してあり、飛行の際は滑走台に移動していたんじゃないでしょうか。

しかし羽田空港に水上機の定期便が飛ぶ時代があったのですね~。

 

 

グーグルマップに落とすとこんな感じ。

横風用B滑走路04エンドのすぐ西側の場所で、

海上保安庁、コンパスエリア、Nスポットのずらりと並ぶNエリアを含む、旧整備場地区に当たります。

ここから現在の羽田が始まったのですね~。

 

この羽田飛行場の面積と滑走路の長さについてですが、

「日本民間航空史話」の相羽氏:「十六万坪、南北の方向に六百メートルの滑走路」
サイト「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」:「面積53haに延長300mの滑走路1本」
「全国空港ウォッチングガイド」:「15万8千坪、滑走路300x15m」

とあります。

まず面積ですが、16万坪≒52.89ha なので、三者ともほぼ同じ広さを記していることになります。

で、滑走路の長さなのですが、これは600mと300mで倍も違っています。

グーグルアースで測ってみると、当時の東京羽田飛行場の敷地の南北方向の長さが610mでした。

そして先頭の1936年の航空写真、南北に白く浮いている部分全体で460m。

ターニングパッドは滑走路に含めないとすると、380mでした。

上の写真の南北に走る滑走路、かなり細いので、当初実はコレ、誘導路じゃないのかしらんとも思っていたのですが、

「全国空港ウォッチングガイド」に「滑走路300x15m」とあり、作図したグーグルマップで幅を図ってみたら、ピッタリ15mでした。

ということで、やっぱりこの白い部分が滑走路ということみたいです。

しかし細いですね(←まだ言ってる)。

沿革にまとめましたが、羽田は続々日本各地を結ぶ定期便が開設されることになり、 国際空港ともなりました。

こうして昭和6年、細っっそい滑走路1本で始まった「東京羽田飛行場」は、その後昭和15年に拡張して名称も変更となります。

続きは次の記事で。

DSC_0035a.jpg

DSC_0037.jpg

(2枚とも)旧整備場地区。

関係者以外がウロウロしてよい雰囲気ではありませんが、特に立ち入り禁止等の表示はありませんでした。 


      東京都・東京羽田飛行場     

東京羽田飛行場 データ

設置管理者:逓信省(「全国空港ウォッチングガイド」には「政府が建設」とあり)
所在地:東京都大田区羽田空港1丁目
座 標:N35°33′28″E139°45′32″
標 高:10m
面 積:53ha
滑走路:380m×15m?
方 位:18/36
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1930年 2月 土地買収、逓信省航空局が民間用飛行場着工
1931年 4月1日 東京航空輸送、東京~清水線定期航空便開設
      8月 東京飛行場開場。日本航空輸送の定期便が立川陸軍飛行場から移転
      最初の外国機ユンカース・ユニオールがベルリンから到着
1933年 11月 日本航空輸送、東京~大阪間の夜間飛行開始
1935年 5月 東西定期航空会、東京~新潟~富山~大阪線開設
1936年 10月 日本航空輸送、東京~新潟線、東京~富山~大阪線など開設
1937年 4月 日本航空輸送、札幌線の定期便開設
      6月 日本航空輸送、中島式AT型機で東京~福岡~京城~新京(現・長春)線開設
1938年 10月 日本航空輸送、北京線開設

関連サイト:
「序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ」(pdf)    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「郷土つるみ第58号」
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「東京100km圏の戦時飛行場 関東飛行場の地歴図集」


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宗里飛行場(第一航空学校)跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年12月 訪問 

無題8.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

前記事の続きです。

片岡飛行場については、「郷土つるみ」第58号19pの、「石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。」

が決め手となり、実際に石油タンクになったBかEかの二択だったのですが、

宗里飛行場に関しては、閉鎖後は「工業地帯として開発が進んだ」という資料があるのみで、

具体的に何が建てられたという記述を見つけることができませんでした。

ということで、残る五つの中から絞り込みをしなければなりません。

以下前記事と重複してしまいますが、

A,Dは、1925年の地図(両飛行場が現役当時の地図)で既に開発が進んでおり、飛行場に見えないため、先ず除外します。

これで残りはB,C,Fの三つになりました。

で、今更なのですが片岡、宗里の二飛行場の場所について、「神奈川県横浜市にあった」と様々な資料に出てきます。

実は、C,Fはそもそも川崎市なんですよね(上の地図でもC,Fが破線で区切られてる)。 

ということで、川崎側のC,Fは候補から外します。

「潮田の二飛行場考」で書きましたが、資料の中で飛行場の場所として、

「入船橋から日本鋼管正門」とか「日本ヒューム管」とか、言及されている場所はA,Bに集中しています。

ということで、こちらも決定的な証拠はないのですが、

消去法で最後に残るBが宗里飛行場(第一航空学校)なのではないかと。 

無題9.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)   

ということで、ここまで随分長々と書きましたが、オイラ個人と致しましては、

宗里飛行場、片岡飛行場の場所はこんな感じだったのではないかと思います。

Scan0002a.png横浜市立中央図書館収蔵:「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925

両飛行場が現役だった1925年の地図。Aのアップ。

1つ上の1927,1928年の地図のAの文字のちょい上辺りに両飛行場が併記してあるのですが、

B:第一航空学校、E:片岡飛行場 だった場合、この場所にこの順番で飛行場名があるのは、まあ妥当なのではないかと。

また、BとEの埋め立て工事の進捗を地図から詳しくたどることはできないのですが、

こういう埋め立て工事は、陸側(B)→海側(E)の順でが進むのではないかと思います。

とすると、1923年5月、陸側のBにまず宗里飛行場が開設し、

次いで9か月後に沖側のEに片岡飛行場が開設するのは順当な気がします。

 

鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号の中に、宗里飛行場についての非常に詳しい記述がありました。

許可を頂きましたので以下抜粋させて頂きます。

鶴見歴史の会様、どうもありがとうございましたm(_ _)m

②第一飛行学校(宗里悦太郎)

宗里悦太郎が潮田に進出して宗里飛行場に第一航空学校を開校したのは、大正十二年五月五日であった。

埋め立て工事が竣工してから七か月経っていた。このころは第一航空学校と宗里飛行場は同義語といってよかった。

たとえば千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所(伊藤音次郎)は同時に伊藤飛行場であった。

宗里悦太郎は明治十九年(一八八六)六月二十三日に山口県で生まれた。潮田にあらわれたときは三十七才であった。

明治四十二年ごろから飛行機設計に関心をいだき、

明治四十四年九月二十日に特許出願した「宗里式水陸両用飛行機」が、特許第二三三一四号になった。

大正六年から十年まで、岸一太・医学博士が創設した赤羽飛行機製作所の機体工場長を勤めたが、

岸博士の鉱山事業の失敗から飛行機製作所は閉鎖せざるを得なくなった。

さいわいに、潮田の埋立地が、三年以内という条件付きだが、無償で借りられることになった。

五月五日が開場・開校式だが、四月二十八日に初飛行をした。「横浜貿易新報」が三十日付で報道した。

「潮田町潮田へ六万坪の敷地を卜し民間飛行士養成所の設置許可を得たる宗里飛行場にては

二十八日午前十時四十五分アプロ式八十馬力飛行機に大蔵二等飛行士操縦二百米突(メートル)の高度に於いて

最初の鮮やかなる飛行をなし約九分間にて着陸引き続き大蔵二等飛行士及び亀井三等飛行士等交々操縦し

或は同乗して数回鮮やかなる飛行をなし午前十一時五十六分無事終了した」

大蔵の名は清三、昨年十一月の帝国飛行協会主催東京・大阪間定期式郵便飛行競技に

最年少の十九歳で全コースを完了し、朝日新聞社から求められて朝日の東西定期航空会入りし、

白戸榮之助、伊藤音次郎が協力する東京~大阪間幹線の定期航空に参加したが、

三月末で一旦打ち切りになり、七月まで暇になったので、年上の後輩・亀井五郎の応援に駆けつけてくれたのだ。

(中略)第一航空学校の活躍は三者のなかで最も目ざましかったが、大正十五年二月、千葉県船橋の干潟飛行場に移転した。

これは潮田で活動を開始する前の約束だから、すでに手を打ってあった。

船橋での発展はさらに目ざましいものがあったが、

ここでは経営者・宗里悦三郎のその後について簡単に書き留めておきたい。

船橋へ移ってから九年後の昭和九年五月二日、四十八歳の若さで病没した。

それまでに第一航空学校は潮田からはじまって四十一人の練習生を卒業させ、

現在在籍者九人を合わせて五十人の技術者を養成した。

その後、昭和十四年に戦争の拡大と共に民間航空は解散を余儀なくされるのだが、

それまでは未亡人宗里そのを中心に団結して航空事業を支えたのである。


 

DSC_0029.jpg

末広橋から見たかつての「日本ヒューム管」跡地。

DSC_0007.jpg

(オイラの説が正しければ)宗里飛行場と片岡飛行場を結ぶ橋

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      神奈川県・宗里飛行場(第一航空学校)     

宗里飛行場(第一航空学校) データ

設置管理者:宗里悦太郎
空港種別:陸上飛行場
所在地:神奈川県横浜市鶴見区安善町1丁目?
座 標:N35°29′52″E139°42′06″?
標 高:3m?
面 積:34.6ha?
着陸帯:636.3m×545.4m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1923年 5月5日 開設
1926年 2月 閉鎖

関連サイト:
鶴見区/鶴見にあった飛行場    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「鶴見町史」1925年
「鶴見興隆誌」1930年
「鶴見区市」1982年
「航空情報」1986年12月号
「鶴見の百年」1987年
「郷土つるみ」鶴見歴史の会機関誌第58号 2003年
「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925
「鶴見区全図」高塚工務所/著 高塚工務所 1930


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片岡飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年12月 訪問 

無題3.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

前記事の続きです。

片岡飛行場の方が宗里飛行場よりも場所の予想が(個人的には)立てやすいので、こちらを先に決めてしまおうと思います。

資料③:「郷土つるみ」第58号の中で、

石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。」とあります。

石油タンクが建設された場所が片岡飛行場の候補になる訳です。

A,Dは、1925年の地図(両飛行場が現役当時の地図)で既に開発が進んでおり、飛行場に見えないため、先ず除外します。

残るB,C,E,Fの4つですが、CとFは年代を追って現在まで確認したのですが、結局石油タンクになりませんでした。

そしてB,Eの2つは飛行場閉鎖後に石油タンクになっています。

ということで、B,Eのどちらかが片岡飛行場と思います。

 

次に、候補となった2つの埋め立て地について、石油タンクが建設された時期を調べてみました。

先ずBの埋め立て地についてですが、

1931年の地図では敷地の西側に丸いタンクっぽいのもが描かれている(説明書きは無し)のですが、

ここは東京瓦斯の敷地のため、石油タンクとは考えにくいです。

次にBの埋め立て地が閲覧できる1938年の地図では、それまでほぼ更地だった東側に石油タンクが建設されています。

Bの埋め立て地は飛行場閉鎖(1926年)から5年後の地図で未だ石油タンクはなく、

12年後の地図で石油タンクが確認できる。ということです。

 

次にEの埋め立て地についてですが、

ここは片岡飛行場閉鎖から2年後の1928年の地図を見ると、もう石油タンク施設が確認できます。

Eは飛行場閉鎖から2年後の地図で既に石油タンクになっているのに対し、

Bの方は、少なくとも飛行場閉鎖から5年間は石油タンクになりませんでした。

石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。」

という記述からすると、

飛行場閉鎖後すぐに石油タンクが建設されたEが片岡飛行場である可能性が高いのではないかと思います。

ただし、「(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した。」

という資料とは食い違ってしまうのですが。。。

無題7.png
1922年測量(旧1万地形図 o453生麥、o448安善町)(「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

開設2年前の地図と-

無題4.png

1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)   

閉鎖から2年後の地図。

丸く見えているのが石油タンク。

 


片岡飛行場の大きさについては具体的な情報がないのですが、「宗里飛行場とほぼ同じ大きさ」とのことですので、

一応宗里飛行場と同じサイズ(636.3mx545m)で線を引くとこんな感じ。

飛行場開設時には更地であり、広さも十分で、閉鎖後石油タンクになっており、条件を満たしていると思います。

オイラと致しましては、片岡飛行場はココだったと思います。

 

鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」の中で片岡飛行場について非常に詳しい資料がありました。

前記事では場所特定に関係する部分のみの引用でしたので、以下抜粋させて頂きました。

(鶴見歴史の会様よりブログ掲載の許可頂いております)

鶴見歴史の会様、ありがとうございました。

 

③片岡飛行学校(片岡文三郎)

片岡文三郎が、潮田の第一航空学校に隣接して、ほとんど同じ広さの土地を借りて飛行場をつくり片岡飛行場と名付け、

片岡飛行学校を建設したのは、大正十三年(一九二四)二月一日であった。

文三郎は愛知県で明治二十八年(一八九五)七月三十日に生まれているので、このとき二十九歳であった。

文三郎は大正三年、十八歳のとき飛行家を志して上京した。

片岡飛行学校の相談役、大竹文輔は新愛知新聞(中日新聞の前身)の飛行記者だったが、

「ガラッ八の多かったあのころの民間飛行機乗りの中では、

極おとなしい性格で友人や教え子たちに心遣いをする親切な男であった」と述べている。(中略)

(三本葭の)飛行場は多摩川を挟んで河口の干潟、通称「三本葭」を利用した。

開港は大正六年一月四日で、十人の練習生が集まった中に、二十歳の片岡文三郎が混じっていた。

そのころのことを、文三郎自身は、

「羽田時代は食糧に窮して馬齢(鈴)を米の代わりにしたり副食物に毎日胡麻塩をなめて飢えを凌いだことがありました」

と述べているが、食生活にも事欠きながら、どのようにして高額の飛行練習費を捻出したのか不明だが、

大竹記者は次のように書いている。

「羽田の(中略)飛行場で文字通り辛酸をなめ漸く巣立ち三等飛行士(三等飛行機操縦士)免状をとったのが大正十一年五月、

それからとんとん拍子に大正十二年八月早くも一等飛行士(一等飛行機操縦士)になっている」といい、

存在を認められるようになったのは、大正十二年六月、

帝国飛行協会主催第四回飛行競技会が下志津で催されたとき優勝してからである。

賞金二千五百円のほかに、副賞として十時間分燃料つき中島式五型複葉機を収得したのだ。

それまでの文三郎は、日本飛行学校が開港して四か月後の五月、玉井清太郎が事故死し、

相羽主事が弟の玉井藤一郎と共同経営のかたちで再建を図ったが、

藤一郎はまだ練習生に毛が生えた程度の技量だったので、外部から予備役陸軍飛行将校を招いて再建を図ったが、

三か月後、台風による高潮で壊滅した。

大正七年二月、玉井藤一郎は相羽有と手を切り、片岡文三郎ら数名の練習生を伴って羽田飛行研究所を創立、

飛行家養成の旗印で再々起を図った。

藤一郎が照高と改名したのはこのころで二十四歳であった。

片岡文三郎はひとつ年下の二十三歳であった。

文三郎は大正十年(一九二一)二六歳のとき、津田沼の伊藤飛行機研究所に練習生として入所した。

照高が伊藤音次郎と親交があったので、いわば文三郎を内地留学させたのであった。

そのお蔭で、大正一二年(一九二三)一月にはじまった朝日新聞社の東西定期航空会による東京-大阪間の定期便に

伊藤音次郎門下の一人として参加することが出来た。

東西定期航空会は伊藤音次郎と白戸榮之助が朝日に進言した結果結成された定期航空会社であった。

しかし三か月後、運航成績がはかばかしくないので、以後は朝日新聞が主導力を握り、

伊藤音次郎は整備部門だけを担当、白戸榮之助は航空会から引退した。

二ヶ月後、文三郎は懸賞飛行競技大会で優勝し、名が知られるようになった。

大正十四年四月、片岡飛行学校に航空局から三菱十年式艦上偵察機を払い下げられた。

これは同乗席を改造して垂直写真機を取り付け、空中写真測量をはじめるための準備作業だったが、

資金不足のため成功は覚束なくなった。

大正十四年七月下旬、山階宮武彦王がおいでになった。

単なる空の宮様ではなく、操縦も海軍で本格的に訓練を受けた皇族であった。大竹の文によろう。

「空の宮様として航空事業の振興に多大の力を注いでおられた海軍少佐、

山階宮武彦王殿下が潮田の片岡飛行学校にお成りになった。

御用係の仕事をしていた三等飛行士の伊藤酉夫(とりお)君と日本飛行学校の相羽有君が随行。

飛行家から宮家の自動車運転手に抱えられた大野資君の運転で午前十時にお着きになった。

片岡君は殿下の御所望により愛機の飛行ぶりをお目にかけることになり、さっと空中に舞い上ってしまった。

(中略)やがて片岡君が着陸すると殿下を中心に飛行機の前で記念撮影をした。

殿下はお帰りの節、金何十疋(びき)かを片岡飛行学校に御下賜になり、

隣の第一飛行学校(航空学校)に車を向かわせられた。

余談になるが、山階宮も二か月前の五月二十三日、民間航空発展のため、立川陸軍飛行場西地区に、

自前で御国(みくに)航空練習所を建設して上棟式を終え、九月二十一日の入所式を待っているところであった。

大正十五年二月、約束通り埋立地が工場地帯になり、石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。

その後、片岡文三郎は、横浜市外杉田(現・磯子区杉田町)の日本飛行機(株)でフランスから輸入した小型機

「空のプー(虱=しらみ)」の試験飛行などをしていたが、招かれて豊田自動織機芝浦研究所に入社した。

詳細は略すが、豊田自動織機はトヨタ自動車の前身で、

早くから定款に「航空機の製造販売」を事業目的の一つとして挙げており、「空飛ぶ大衆車」の製造を目標にしていた。

昭和十八年三月、豊田自動織機は別会社を設立した。すなわち東海航空工業(後の東海飛行機)である。

文三郎はしかし、一三式練習機「トヨタ」の飛行もあるし、小型旅客機の試作もあるので技術部長として本社に残り、

敗戦後一年ほど勤めて退職した。五十一歳であった。

昭和五十七年(一九八二)五月十七日、片岡文三郎は戦後の航空会の発展ぶりに感慨を深くしながら、

岡崎市伊賀町の自宅で八十六年の生涯を閉じた。

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     神奈川県・片岡飛行場跡地     

片岡飛行場 データ

設置管理者:片岡文三郎
空港種別:陸上飛行場
所在地:神奈川県横浜市鶴見区安善町2丁目?
座 標:N35°29′30″E139°42′20″?
標 高:2m?
面 積:34.6ha?
着陸帯:636.3mx545m?
(座標、標高、面積、着陸帯長さはグーグルアースから)

沿革
1924年2月 1日 開設
1926年2月 閉鎖。跡地は石油タンクに

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「鶴見町史」1925年
「鶴見興隆誌」1930年
「鶴見区市」1982年
「航空情報」1986年12月号
「鶴見の百年」1987年
「郷土つるみ」鶴見歴史の会機関誌第58号 2003年
「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925
「鶴見区全図」高塚工務所/著 高塚工務所 1930


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神奈川県・潮田の二飛行場考 [├国内の空港、飛行場]

  2016年3月 訪問 

二つの飛行場 

前記事:「神奈川県・玉井飛行場」では、羽田から生麦に移転した「玉井飛行場」のことを書きました。

この「玉井飛行場」の東3km程の辺り、神奈川県横浜市潮田末広町(当時)の埋め立てが行われ、

土地が安定するまでの間、ここにも二つの飛行場が開設されました。

「宗里飛行場(第一航空学校)」と、「片岡飛行場」です。

この2飛行場はまとめて「鶴見の飛行場」、「潮田の飛行場」等と呼ばれました。

この2飛行場について、例によって場所を探そうとしたのですが、なかなか資料が見つからず、

困り果てていたところ、鶴見歴史の会様、横浜市中央図書館レファレンスサービス様から貴重な資料を頂きました。

鶴見歴史の会様、歴史の会をご紹介頂き双方の窓口となって下さった鶴見区役所地域振興課様、

横浜市中央図書館レファレンスサービス様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございましたm(_ _)m

で、せっかく貴重な資料の数々を頂いたのですが、

残念ながらどちらの飛行場も正確な場所を特定することができておりません(;´Д⊂)

この記事は、ここまで知り得た情報からアレコレと憶測するものですのでご了承くださいませ。

玉井飛行場は1921年12月開設、1923年9月閉鎖

だったのに対し、

宗里飛行場は1923年5月開設、1926年2月閉鎖
片岡飛行場は1924年2月開設、1926年2月閉鎖

となっています。

玉井飛行場を追いかけるようにして二つの飛行場が開設されていますね。

この二つの飛行場、開設は9か月のズレがあるのですが、閉鎖は同時期です。

片岡飛行場の片岡氏は、千葉の伊藤飛行機研究所の卒業生。

宗里飛行場の最初の教官となった亀井氏も同じく伊藤飛行機研究所の門下生。

片岡氏は亀井氏の先輩に当たりました。

この2飛行場は隣接しており、人的にも繋がりがあったはずです。

拙ブログは、「1記事1飛行場」が基本なのですが、

この2飛行場は資料の中でしばしば「隣接する飛行場」として扱われているため、

どこにあったのか場所を推測するに当たり、二つの飛行場をセットで考える必要がありました。

それで、この記事では2飛行場について資料からいろいろと妄想考え、

次の2つの記事でそれぞれの飛行場についていつもの体でいきたいと思います。

 

二つの地図

先ず、横浜市中央図書館収蔵のマイクロフィルム:「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925 という地図があり、

「この地図に両飛行場が記されている」と横浜市中央図書館レファレンスサービス様から教えていただきました。

前述の通り、宗里(第一航空学校)と片岡飛行場は、それぞれ1923年~1926年、1924年~1926年に存在していました。

表題の通りなら、両飛行場が現役だった年に測量した地図な訳です。

(飛行場現役時代の地図に明記されているんなら、もうそれで場所確定ジャン!)

ヨコハマだけに、図書館様からメールを頂いたオイラはそう思ったのですが、残念ながらそんなに甘くありませんでした。

Scan0002a.png横浜市中央図書館収蔵:「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925

この地図は横浜市中央図書館様の許可を得て転載させて頂きました。

右端に飛行場名が出てますね。

いかにも飛行場っぽい広々とした地割のところに飛行場名が記してあれば、 もうそこが飛行場で確定なのですが、

残念ながらそうではありませんでした。

見ての通りで会社なのか工場なのか、明らかに敷地境界線と飛行場名が重なっており、

ここに飛行場が(しかも二つも)あったとは思えません。

後述しますが、更に二つの理由からここが飛行場とはやはり考え難いです。

地図はご覧の通りで東側が途切れていて、こうなるとどうしてもこの地図の東側が見てみたくなりますが、

あいにくマイクロフィルムに東側の地図は無し。

ということは、実際には見切れているすぐ東側に二つ飛行場があったのではないかと考えたのでした。

 

オイラの知る限り「両飛行場名が載っている地図」というのがもう一つだけあります。

無題9.png
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号 3p

これがその地図です。

「鶴見歴史の会」様から許可を頂いて掲載させて頂きました。

前記事の玉井飛行場と共に、第一航空学校、片岡飛行学校の場所を示す○がついてますね。

この地図は、鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号に作家・民間航空史研究家の平木國夫氏が載せた

文章に挿入されているものなのですが、

この地図の作者がどなたか「鶴見歴史の会」様に問い合わせたところ、

「ハッキリしたことは不明ながら、『イカロス群像 神奈川民間航空事始』という、同じく平木圀夫氏が著した書籍にも同じ地図があり、地図について出典等の記述はないのですが、地図の脇に(作成・1998.2.26)とあることから、著者と同じ平木氏作成と考えられる」

とのことでした。

 

この○のついている場所、実は「実地踏測 鶴見~」1925年 で示されているのとピッタリ同じ場所です。

「実地踏測 鶴見~」1925年(最初に貼った地図) では、二つの飛行場名が1つの場所にまとめて列記してあり、

平木氏の記事に出てくる地図でも二つの飛行場が1つの○で示されています。

もしかしたら平木氏は、「実地踏測 鶴見~」1925年 を参考にしてこの地図を作製したのかもしれません。

ということで、二つの地図から「二飛行場はおおよそこの辺り」ということは分かりましたので、

他の資料からアレコレと推測して場所を絞り込んでいくことになるのでした。

 

三つの資料

鶴見区役所地域振興課様から紹介して頂いた鶴見歴史の会様、

そして横浜市中央図書館様を通して多数の資料をご紹介頂いたのですが、

飛行場の場所特定に関係する主な資料は、

①「鶴見町誌」1925年10月
②「鶴見区史」1982年
③「郷土つるみ」第58号 2003年10月15日

の三つでした。

それぞれ飛行場の位置情報に関係すると思われる部分を資料が発表された順番に抜き出してみました。

 

①「鶴見町誌」1925年10月
潮田末広町の海岸には第一航空学校(宗里飛行場)、片岡飛行場の大飛行練習場があって、
各数台の飛行機を備えて日々研究を続けて居る。

第一航空学校
 大正十二年五月五日の開港で東西三百五十間、南北三百間の広大なる飛行場を有して居る。
山口県人宗里悦太郎の経営で、宗里氏が苦心経営飛行士の養成に尽酔し、
我国航空界の発達に貢献せるは人の好く知る処である。
現在の練習生十五名七台の飛行機を備えられて居る。

片岡飛行場
 大正十三年二月一日の開港で、飛行場の面積は前者と殆ど同一である。
名古屋の片岡文三郎氏の経営で、理論に実際両方面の研究に努力されて居る。

両飛行場現役当時の資料です。

開設日、場所、大きさが記されていますね。

平木氏曰く、1980年に氏が当飛行場について神奈川新聞に記事(後述)を書くまで、

二飛行場について書かれた地元の資料は、この「鶴見町誌」が唯一のといっていい拠りどころでした。

 

②「鶴見区史」1982年 411p~414p
宗里飛行場
 大正十二年(一九二三)五月五日、潮田末広町、安善町付近(現在の日本ヒューム管辺り)
の埋立地に開設された飛行士の養成所で、第一航空学校といった。
飛行場の大きさは、東西の三百五十間(六三六.三メートル)、南北三百間(五四五.四メートル)であった。
飛行場名の「宗里」は、経営者が岸飛行場の機体制作技師長だった宗里悦太郎(山口県出身)だったからである。
練習生が十五名、飛行機は七機あった。
また一般の人も乗ることができ、横浜への一周飛行は、十五円だったということである。

片岡飛行場
 宗里飛行場が開設された翌年の大正十三年(一九二四)二月一日、
末広町の埋立地(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した。
飛行場の大きさは、宗里飛行場とほぼ同じで、ここも飛行士の養成所であった。
経営は、名古屋の片岡文三郎(一等飛行操縦士)で(中略)
このように両飛行場は活動したが、第一航空学校の宗里飛行場は、
大正十五年(一九二六)二月「、千葉県船橋の干潟飛行場に移転し、
片岡飛行場もまた同じころ閉校してしまった。
いずれも埋立地が、しだいに工場地帯に変貌していったためである。

1925年の「鶴見町誌」と、1982年の「鶴見区史」は基本的に同じ内容ですが、

「鶴見区史」で新たに追加された情報も多々あります。

こちらの資料は飛行場閉鎖から半世紀程に発表されましたから、両飛行場が閉鎖した時期が記されています。

また、それぞれの飛行場があった場所が(1982年現在の)どこに当たるのか、具体的な情報が記されています。

 

③「郷土つるみ」第58号 2003年10月15日
第一航空学校(宗里悦太郎)
第一航空学校を開校したのは、大正十二年五月五日であった。
埋め立て工事が竣工してから七か月経っていた。
(横浜貿易新報からの引用として)「六万坪の敷地を卜し」

片岡飛行学校(片岡文三郎)
 第一航空学校に隣接して、殆ど同じ広さの土地を借りて飛行場をつくり
(中略)大正十五年二月、約束通り埋め立て地が工場地帯になり、
石油タンクが建設されるのを機に片岡飛行学校は閉鎖された。



「郷土つるみ」の飛行場記事はとりわけボリュームがありました。

こちらも特に場所特定に関係する部分だけ抜き出しましたが、

第一航空学校について、飛行場敷地の長さだけでなく、新聞からの引用として面積が「六万坪」と出ています。

また、第一航空学校開設のいきさつ、片岡飛行学校の閉鎖時の様子について記されています。

後述しますが、なにげない記述のようで(オイラ的には)これが場所類推の要となりました。

この資料は平木氏が執筆したものなのですが、

前述の1980年に氏が当飛行場について神奈川新聞に発表した記事の内容を包含するものとなっています。

 

六つの候補地

繰り返しになりますが、宗里、片岡の両飛行場敷地は、埋め立て地に開設されました。これには、

「埋め立て地は土地が安定するまで3年ほど時間をおかねば開発できない」。

という地主側の事情があり、そのため期限付きではありますが飛行場として無償で提供されたものです。

前述の通り「郷土つるみ」では宗里飛行場の開設時期について、「埋立地を竣工してから七か月経っていた」と記しています。

宗里飛行場の開設は大正12年(1923年)5月ですから、

埋め立て地が竣工したのは前年の大正11年(1922年)10月頃と考えられます。

 

少々余談になりますが、この周辺は元々江戸末期から埋め立て事業が続けられていた地域で、

すぐ下の地図の赤矢印を付した辺りもベルト状に埋め立てられた土地です。

この遠浅になっている潮田地先に目を付けたのが、 「日本の臨海工業地帯開発の父」、「京浜工業地帯の生みの親」

と称された浅野総一郎でした。

浅野氏はこれら江戸から続く埋め立て地の更に沖合に、イギリス製の機械を導入して一気に埋め立てを進めたのでした。

横浜の埋め立て事業は平成の現代に至るまで続くことになるのですが、

特に浅野氏による飛行場が開設された周辺の大規模な埋め立て工事が竣工した年について、

様々な資料は「1922年である」と記しており、これは、

「埋立地を竣工してから七か月後の1923年5月、宗里飛行場開設」という先の記述とも合致します。

「潮田の二飛行場」は、浅野氏による大規模埋め立て事業の狭間に生まれたものだったのですね。

無題6.png
1915年測量(5万地形図 76-8-22横濱)(「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

大規模埋め立て計画に許可が下りたのは1913年でした。

ですからこの地図は、埋め立て許可から2年後、そして埋立竣工7年前の地図です。

この地図の海岸線と埋め立て竣工後のものと比較してみると-

無題7.png
1922年測量(旧1万地形図 o453生麥、o448安善町)(「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

こんな感じ。

1915年の地図で海岸線だった部分に赤線を引いてみました。

ちょうど埋立竣工した年の地図ですが、僅か7年前の地図と比較して一気に変わりましたね。

飛行場は1922年竣工の埋め立て地に開設されましたから、

両飛行場があったのは、この赤線以南ということになります。

埋め立て地の西側では既に開発が進んでいるのが分かります。一方で東側はまだ埋め立て途中ですね。

このことから、埋め立ては全域で同時進行だったのではなく、

まず西側のエリアから始まり、次いで東側に工事が移っていった。と考えられます。

飛行場として提供された場所は、

・埋め立て地として竣工したばかりでまだ建物等建設には向かない。
・そのため3年放置する

ということでしたから、ちょうど埋め立て地の竣工した1922年の地図上で飛行場のあった場所は、

既に(少なくともある程度は)地図上に存在しており、尚且つ更地であるはずです。

この周辺はその後も埋め立てが進むのですが、当然のことながら、この1922年の地図で海面の場所は、

2飛行場のあった可能性のある場所の候補から除外します。

無題2.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

両飛行場は1926年に廃止となり、その後当初の計画通り土地開発が始まりました。

上の地図は、飛行場廃止から1年後の地図(左)と、2年後の地図(右)を貼り合わせたものです。

この地図の赤線以南のどこかに二飛行場があったはずです。

(便宜上アルファベットを振りました)

飛行場開設前年の1922年の地図では、C,Fはまだ形がハッキリしないですが、その後キチンと造成されたことが分かります。

ほぼ正方形の埋め立て地が四つ、まるでタイルを並べたように造成されていますね。

この四つの他に、飛行場があった可能性のある場所として、一応地図に飛行場の表記のあったAも含め、

A~Fの6つを「飛行場候補地」として以下話を進めます。

 

三つの場所

前述の飛行場の場所として具体的な説明のあった資料について考えます。

先ず宗里飛行場についてなのですが、「鶴見区史」1982年 411p~414pの中で、

「現在の日本ヒューム管辺り」にあったと説明があります。

横浜市中央図書館レファレンスサービス様から教えて頂いたのですが、「鶴見区全図 昭和5年(1930年)10月」という地図に

この「日本ヒューム管株式会社工場」が記されています。

Scan0004a.png
横浜市中央図書館収蔵:「鶴見区全図 昭和5年(1930年)10月」

確かに「日本ヒューム管株式会社工場」と記されてますね。

でもこの地図だと寄り過ぎてて位置がよく分からないので-

無題3.png
1927,1928年測量(旧1万地形図リスト番号o454,o449 図名 生麥、安善町) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

全体図で見るとこんな感じ。

「日本ヒューム管株式会社工場」は、Bの隅っこの青で囲った場所です。

(じゃあもう宗里飛行場はここで決定ジャン!)

ヨコハマ(以下省略)と思ったのですが、そう甘くはありませんでした。

「現在の日本ヒューム管辺りに開設された」という情報は「鶴見区史」1982年のものなのですが、

国土地理院1963,1966,1984,1990年の地図を見ても、

そして横浜市三千分一地形図(かなり詳しい)の1951年、1957年を見ても、

この場所に「日本ヒューム管」という表記は出てきません。

むしろここは「日本鋼管鶴見製作所」になっています。

そこでオイラは、(近隣に引っ越したかしらん)と考え、上図A~Fとその周辺を探してみました。

特に1980年代前後の地図に「日本ヒューム管」が見つかればビンゴです。

ところが「日本ヒューム管」はドコにもありませんでした。

そこで次に、(もしかして、日本ヒューム管は日本鋼管に吸収されたのかしらん)と考えました。

この「日本ヒューム管」という会社についてググってみたところ、

「日本ヒューム」という会社がヒットし、公式サイト内に沿革がありました。

関係する部分だけ抜き出させて頂きました。

1925年 日本ヒュームコンクリート株式会社創立。鶴見本社工場操業
1928年 本社を東京・銀座に移し、日本ヒューム管株式会社と改める

1925年に鶴見に本社工場ができ、1928年に本社が東京に移転、社名変更。ということのようですね。

社名が「日本ヒュームコンクリート株式会社」→「日本ヒューム管株式会社」となり、

鶴見から本社機能がなくなって工場のみとなりますから、

鶴見にあるのは、「日本ヒューム管株式会社・工場」となるはずです。

で、上の1930年の地図で確かにそう表記されていますから、これで辻褄合っています。

「鶴見区全図・1930年」に表記のある「日本ヒューム管株式会社工場」=現在の「日本ヒューム」

で間違いないでしょう(きっと)。

(吸収されちゃったかしらん)などと書きましたが、これは完全にオイラの失礼な憶測でしたm(_ _)m 

問題はここからで、この会社の沿革はこう続きます。

1940年 鶴見工場移転、川崎工場設置

「日本ヒューム管」は鶴見から移転してしまいましたΣ(゚Д゚;) 

そしてこれ以降、「日本ヒューム」の沿革と現在の事業所一覧には、もう「鶴見」は出てきません。

道理で1930年以降の地図に「日本ヒューム管」が登場しないはずです。

オイラ個人としては、「日本ヒューム管株式会社工場」=「宗里飛行場」と思いたいのですが、

1982年の区史で「現在の日本ヒューム管辺り」にあったと断言している一方、

「日本ヒューム管」が1930年の地図に1回だけ登場して、その後の地図に出てこないため、

「宗里飛行場はココ!」と断言する決定的な証拠とするには、残念ながら弱いように思います。

 

次に、片岡飛行場については同じ1982年の資料の中で、

「(現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて)に開設した」とあります。

(上の2つの地図上で、入船橋がちょいちょいアピってます)

1930年の地図でも、そしてその後の地図でもしばしばハッキリ「入船橋」と記載されているこの場所は、

グーグルマップでも「入船橋交差点」になっています。

現在国土地理院でこの周辺を閲覧可能な最古の地図は1906年のものなのですが、

ここにも入船橋周辺の土地は既にあります。

上でもチラッと書きましたが、ここは江戸時代から続けられた埋め立て地に当たり、「添田新田」と「荒井新田」に挟まれた場所で、

浅野氏による埋め立て前には既にありました。

そして入船橋は、地図を見ての通りでその埋め立て地のかなり内側にあります。

つまり、

・片岡飛行場は埋め立て地の地盤が安定するまでの3年間という約束で無償提供された
・片岡飛行場は現在の日本鋼管正門から入船橋にかけて開設した

「入船橋にかけて」の「かけて」をどう解釈するか微妙な点は残るのですが、

この二つが両立するのはちょっと難しいと思われます。 

 

「日本鋼管正門」についてですが、日本鋼管はその後合併、社名変更を経て現在は「JFEエンジニアリング」になっています。

この会社は1922年当時から規模が非常に大きくて、現在この会社の「本社マップ」を見ても、

「JFE鶴見製作所正門」、「JFE鶴見製作所重工正門」と、正門が複数あって絞り込めないのですが、

いずれも上図Aの辺りにあります。

話が振り出しに戻ってしまうのですが、Aの辺りは、両飛行場名の表記がある場所でもあります。

で、現在の「入船橋交差点」からA周辺について、

1915年の地図(両飛行場が現役だった当時の地図)でどうだったかというと、

大きな池、浅野造船所、浅野製鉄部、日本鋳造株式会社が既に出来ており、

とても飛行場の入る余地があるようには見えません。

 

ということで、

1925年の地図上の飛行場名表記
日本ヒューム管
入船橋
日本鋼管正門

と、飛行場の場所特定につながりそうな具体的な情報が複数あるのですが、

飛行場があったとはちょっと考えにくい場所を指していたり、決定的な証拠とするにはいろいろと難があり、

オイラにはとてもこの情報を以って「飛行場はココ!」と断定することはできない。というのが現状です。

よそ者のオイラが重大な見落としをしているだけなのかもしれませんが。。。

 

飛行場の大きさ


 

「鶴見区史」411pでは宗里飛行場について、

「飛行場の大きさは、東西三百五十間(六三六・三メートル)、南北三百間(五四五・四メートル)であった。」

とあります。

飛行場のあった場所として資料にいろいろと記述があり、現時点で最も可能性の高いBの埋め立て地に、

その通りに線を引いてみました。

Bの埋め立て地の南東の角には短い水路的なもの切れ込んでますが、これは1922年の地図でも存在しています。

南側はこの水路的なものを避けて資料通りに線を引いていくと、北側は1915年の海岸線ギリギリになり、

資料にある飛行場の南北方向のサイズは、まるでこの埋め立て地にあつらえたかのようにピッタリです。

 

ここまで書いてきた通り、飛行場の場所を示すポイントはAとBに集中していますが、Aに飛行場があったとは考えにくいです。

ということで、残るBが最有力候補となるのですが、宗里飛行場と片岡飛行場は「隣接している」、「ほぼ同じ大きさである」

と資料にあるため、実はオイラは当初、Bの埋め立て地に飛行場が二つ並んでいるのではないかと考えていました。

しかし実際に埋め立て地に飛行場の大きさの線を引いてみると、一つの埋め立て地に一つの飛行場しか作れません。

また、飛行場の具体的な長さと共に、資料ではその面積が6万坪とも出てきます。

ところが、明示されている長さ(636.3mx545.4m)から面積を出すと、

636.3mx545.4m≒347,038.02㎡ で、これは坪に換算すると、

約10.5万坪です。

6万坪と10.5万坪で、数字が大きく異なり、どういうことなのかナゾです。

飛行場の形が単純な方形ではなく、部分的に曲がったり凹んだりしていれば両方の数値がどちらも成り立つ訳ですが、

造成したての埋め立て地で飛行場の敷地がそんなに複雑な形にしなければならないとは考えにくく、これまたナゾです。

 

Scan0002aa.png
横浜市中央図書館収蔵: 「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925

「変則的な埋め立て地」ということで、1925年の地図でDの部分のアップ。

既に「芝浦製作所」として建物っぽいものが描かれていて、ちょっと飛行場じゃないっぽいです。

何より、仮にここが飛行場だとしたら、Aの位置にではなく、ここに直接「飛行場」と書くはず。

ということで、なかなか場所をハッキリ特定することができない現状です。

それでも続く二つの記事で、無理やり場所を絞り込んでみます。

(続きます)

 

この記事の資料:

「鶴見町史」1925年
「鶴見興隆誌」1930年
「鶴見区市」1982年
「航空情報」1986年12月号
「鶴見の百年」1987年
「郷土つるみ」鶴見歴史の会機関誌第58号 2003年
「実地踏測 鶴見町全図」小塩満/著 麻生大蔵 1925
「鶴見区全図」高塚工務所/著 高塚工務所 1930

 


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玉井飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年1月 訪問 

無題3.png
1922年測量の地図(生麥 o453) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)



前記事:「神奈川県・三本葭飛行場」では、兄の遺志を継いで羽田に飛行学校を設立した玉井氏が、

後に神奈川県生麦に飛行場を移転したと書きました。

玉井氏が生麦の地に開設したのが「玉井飛行場」で、現在のキリンビール横浜工場のところにありました。

玉井飛行場があったのは1921年12月~1923年9月までで、

先頭の地図は1922年測量のものなので、実際に飛行場が運用されていた当時のものです。

当飛行場の位置については、「現在のキリンビール横浜工場のところ」という説明以外見当たらないのですが、

赤の矢印の辺りが非常に怪しい地割になっています。

それで恐らくこれが飛行場だったのではないかと。

ピッタリビール工場敷地だし。

後述しますが、資料によれば玉井飛行場の面積は32,000坪(≒11.0ha)とあり、

地図の通りにグーグルマップで作図したところ、面積はピッタリ11.0haでした(ちょっと微調整したけど)。

「飛行場」の表記がないのは、もしかしたら最初から「埋立から地盤が締まる3年間限定で飛行場とする」

という条件付きの仮飛行場だったからかもしれません。

鶴見区の埋立地には当飛行場に続き、更にあと2つの飛行場が建設されるのですが、

いずれも資料に乏しくて困り果てていたところ、鶴見区役所鶴見区地域振興課様から「鶴見歴史の会」様をご紹介頂き、

「鶴見歴史の会」の機関誌「郷土つるみ」第58号の該当部分をご提供頂きました。

「郷土つるみ」第58号(2003年10月15日)の中に、「鶴見の民間飛行場」という記事があり、

鶴見の三飛行場について特に詳しく取り上げられていました。

玉井飛行場についてはネットで得られる情報が非常に限られているため、頂いた資料は大変貴重なものです。

この記事では玉井飛行場関連の部分を引用させて頂きました(「鶴見歴史の会」様よりブログ掲載の許可を頂いております)。

鶴見区役所鶴見区地域振興課様、「鶴見歴史の会」様、どうもありがとうございましたm(_ _)m 

 

①玉井飛行場(玉井照高)

 横浜市鶴見区内で、大正末に民間飛行場が三カ所建設された。その最初が、生麦事件で有名になった生麦の玉井飛行場である。これはその後に出来た潮田の飛行場にくらべ、経営者が地味すぎる性格だったことも、なんとなく無視された一因といえるだろう。玉井藤一郎の手書きの履歴書がある。生前の藤一郎から直接寄贈されたものである。

大正九年十二月五日 玉井式二四型ローン一二〇馬力飛行機完成ス。当時制作延引ノ為、競技参加間ニ合ズ、以来練習ス。
大正十年 六月二日 帝国飛行協会ノ第二回懸賞飛行大会二参加、速度飛行第四等賞ヲ受ク。
大正十年 八月四日 三等飛行機操縦士ノ免許ヲ受ク。以来、操縦士養成二従事。
大正十年十二月 飛行場ガ毎年ノ暴風ニテ破壊サルル為、神奈川県鶴見町生麦ノ三万二千坪ノ埋立地ニ移転。以来飛行士養成及宣伝飛行ヲス。

(中略)操縦は好きだが、それよりも制作のほうがもっと好きで、操縦士免許は自分で必要なだけもっていればよかったんです。と生前の藤一郎は私にいったことがある。

玉井藤一郎が、大正十年五月二十五日に神奈川県知事から埋立許可を得た生麦浦に、紹介する人があって羽田から移動し、玉井飛行場とし格納庫を建てたのは、その年の十二月であった。無償で借りられるというのは、収入の少ない飛行家にとってはありがたいことであった。ただし三年間だけという条件である。

「三年間だけでも助かるよ。それにしても、なぜ三年間なんだろうね」とたずねると、

「埋め立てて最低三年間は放置しないと、役にたたないそうですよ」

「すると、こどもの運動場みたいに、踏み荒らしたほうがいいというわけだね」

「そうだ。踏みしめる役をしてもらうということだ」

「それなら、あまり恩にきなくてもいいわけだね」

 格納庫には、羽田飛行機研究所長の一年前に完成した玉井式二四型複葉機を格納し、飛行士養成と宣伝飛行を開始した。同機は、全幅九.五〇メートル、全長七.五二メートル、上下翼が0.六メートル食い違い翼になっており、全備重量八五〇キロで、ル・ローン一二〇馬力発動機を搭載した軽快な複葉機であった。二十六歳の藤一郎が独力で設計製作した飛行機であった。

 前後するけれど、藤一郎が生麦に現れたときは、玉井照高と改名していた。理由が面白い。かれが大正七年(一九一八)二月一日、アメリカ帰りの飛行家・野島銀蔵から、飛行家として認定されたのを機に、改名したのは、「藤」だと上から垂れ下がっているのに、照高だと高空から下界を照らす、という野島の友人の姓名判断を、自分でもたしかに飛行家にふさわしいと思ったので、改名に踏み切ったと私に語った。

 生麦に移転する三か月前の九月十二日(一九二一)、妻ツネとの間に長男・照広が生まれた。素直な少年に成長した。坊やは大きくなったら何になりたい、と訊ねると、「ヒコーカ」ときっぱりと応えるのが常であった。母ツネは、義兄清太郎が羽田で墜落惨死しただけに、二の舞を演じさせたくなかったのと、飛行家の妻という不安な立場から、しきりに志をひるがえさせようとした。すると照広は、ふっと物悲しい目つきをした。しかし反抗的態度を示す事など一度もなく、母の心を受け入れて飛行家への道を避けて通った。

 しかし日中戦争が大東亜戦争(太平洋戦争)へと発展し、照広は陸軍歩兵としてインパール参戦に従軍し、戦死した。それくらいなら、照広のひそかな望み通り飛行家にしてやればよかった、と悔やんだ。

 ともあれ照高は玉井式二四型複葉機で鶴見上空を飛び回るだけでなく、快速艇を制作して海上を走り回り、漁業者の手助けをした。

 大正十二年九月一日の関東大震災後、約束より一年早いけれど立ち退きを迫られたのを機に、航空会から引退した。跡地には、キリンビール生麦工場が建設された。

 玉井藤一郎改め照高は、昭和五十三年(一九七八)二月十一日、東京国際空港にほど近い簡素なアパートで八十三年の生涯を閉じた。ちなみに照高こと藤一郎は、明治二十七年(一八九四)九月六日、三重県四日市市で誕生した。

 

DSC_0009.jpg

現在はキリンビール横浜工場になった玉井飛行場跡地。

「日本民間航空史話」の中に、玉井氏ご本人による4Pに亘る回想録があり、その最後に少しだけ当飛行場について触れています。

「昭和十一年三月、横浜市鶴見区生麦町に一万二千坪の埋立地を借り受け、玉井飛行場を設立して飛行士の養成ならびに宣伝ビラまき飛行をしていた。その使用飛行機は陸軍から払い下げのニューポール甲式二型二人乗り練習機であった。おもしろい話しだが、今まで乗った飛行機は、ほとんど自製の飛行機ばかりであったのに、初めて正規の飛行機、つまり本当の飛行機に乗ったら、ほとんど手ばなしでも飛行ができて、飛行機操縦もこんなに楽なものかと思った。これから考えると、それまではまるで荒馬に乗っていたようなものであった。毎日飛行を続けたが、大正十二年の大震災で飛行場も亀裂が出来たたため、使用できなくなり、残念ながら操縦桿持つ手を離したしだいである。」

実は前述の「郷土つるみ」第58号とこの「日本民間航空史話」の回想録とでは、食い違っている部分があります。

「郷土つるみ」第58号→飛行場の開設日:大正十年十二月  飛行場の面積:三万二千坪
「日本民間航空史話」→飛行場の開設日:昭和十一年三月  飛行場の面積:一万二千坪

「郷土つるみ」第58号の該当部分の筆者は平木國夫氏なのですが、

「玉井藤一郎の手書きの履歴書がある。生前の藤一郎から直接寄贈されたものである。」

とあり、その箇所に開設日と面積が出てきます。

つまり、一方は平木氏を介しているものの、「郷土つるみ」第58号と「日本民間航空史話」、

そのどちらも玉井氏ご本人の記したものということになります。ややこしいですけど。

飛行場の開設時期と面積があまりにも異なっているため、

大正時代に一旦閉鎖したものが、昭和に入り再び復活したのだろうか。

なんてことも思ったのですが、飛行場閉鎖から3年後には生麦工場が操業していますし、

開設期を昭和としている「日本民間航空史話」の同じ記事の中で、

「大正十二年の大震災で飛行場も亀裂が~」とも記してあります。

これでは辻褄が合いません。

当飛行場は、羽田から引っ越した玉井氏がほんの2年弱開設したものであり、

「郷土つるみ」第58号にある通り、「飛行場の開設日:大正十年十二月」だと流れが自然になります。

また前述の点ですが面積についても、「郷土つるみ」第58号にある通り、三万二千坪だとピッタリの地割になるのですが、

「日本民間航空史話」にある通り一万二千坪だとすると、ほとんど1/3ということになり、

かなり狭くなるのと、当時の地図でビール工場内にそういう地割が見当たらないことから、

これも「郷土つるみ」第58号にある三万二千坪が正しいのではないかと思います。

「日本民間航空史話」は昭和41年発行ですから、40年以上前の出来事を記している訳で、

ご自分の事とはいえ、記憶に頼るとどうしてもこうなっちゃうんでしょうね~。

「日本民間航空史話」は、明治の頃より活躍された日本航空会のパイオニア総出演で、

多くの場合ご本人自ら回想文を記しているため、日本の航空黎明期の様子を知る上で大変貴重な第一級資料なのですが、

この一件から、例えご本人の記述により編纂された書籍とはいえ、決して盲信はできないのだと思わされたのでした。

 

ところで話は羽田の飛行場当時に戻りますが、前記事の通り玉井氏は羽田に居た時、相羽氏と手を切って、

片岡氏らと共に新たな飛行学校を立ち上げた訳ですが、

羽田は毎年毎年飛行場が破壊されるため、土地が無償提供される生麦に移転したのでした。

回想録にある通り、玉井氏は当飛行場閉鎖と共に飛行家を止めてしまうのですが、

玉井飛行場に続けて鶴見にはあと二つの飛行場が開設しており、

その一つが片岡氏の「片岡飛行場」です。

続く三つの記事では、この二つの飛行場について(長々と)取り上げます。


      神奈川県・玉井飛行場跡地     

玉井飛行場 データ

設置管理者:玉井照高
空港種別:陸上飛行場
所在地:神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目
座 標:N35°29′27″E139°40′03″
標 高:7m
面 積:11.0ha
着陸帯:580m×145m
方 位:06/24
(座標、標高、面積、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1921年12月 羽田より移転。格納庫設置。玉井飛行場とする
1923年04月 潮田町誕生に際し、「祝町制施行」のビラをまく
     09月 1日、 関東大震災発生。その後立ち退きを迫られたため飛行場閉鎖
1926年     生麦工場操業(アギラさんより)

関連サイト:
横浜市鶴見区/鶴見にあった飛行場    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「鶴見歴史の会・郷土つるみ」第58号
「日本民間航空史話」


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三本葭飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年3月 訪問 

無題4.png
1922年測量の地図 (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

(現地にお邪魔した時期は2016年1月だったり、3月だったりバラバラなのですが、これから少しの間、羽田に飛行場が誕生してからの様子を時系列でアップします)

遷されて現在は場所が変わりましたが、羽田町穴守の稲荷神社の近くに、

「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立したのは、大正5年(1916年)。

今からちょうど100年前のことでした。

「日本飛行学校」のあった場所は、グーグルマップの通り現在のB滑走路RWY04エンド付近。

そして飛行場はここではなく、多摩川の対岸、河口に広がる干潟に飛行場と格納庫が建設されたのですが、

今から100年前、この場所を飛行場適地と見出した先人が居たことが、今日の大空港羽田の礎となりました。

上のグーグルマップの紫の線は、1922年の地図当時の多摩川右岸。

この右岸側の干潟に、「日本飛行学校」と共に建設された「三本葭飛行場」がありました。

練習生たちは飛行学校から徒歩で船着き場まで行き、船で三本葭の飛行場まで渡ったのだそうです。

日本飛行学校、三本葭飛行場の創立時期については資料により1915年~1917年と幅があり、

「創立」、「開設」等表現も様々で、「初飛行の日を創立記念日とした」という記述もあってハッキリしないのですが、

「日本民間航空史話」の中で創立者の一人である相羽氏ご本人が「1916年」としているので、

当記事でも1916年ということにさせて頂きました。 

 

羽田空港の生みの親となったのは、相羽氏と、もう一人の「日本飛行学校」共同経営者である玉井氏の両名。

前述の「日本民間航空史話」の中で、相羽氏が「羽田飛行場の生い立ち」を寄稿しています。

寄稿文には当飛行場の元練習生の方が、50年前の記憶を頼りに描いた学校と飛行場の略図も載っており、

それを参考に上図に格納庫の位置を示しました。

相羽氏の寄稿文から以下関係する部分を引用させて頂きました。

「大正五年(一九一六)、若干二一才で、東京府荏原郡羽田町穴守の稲荷神社の近くに、日本飛行学校と日本飛行機製作所とを創立した。

穴守随一の有力者、石関さんと初会見した私は、「将来の国防は飛行機が第一線に闘う武器となる。この製造と飛行士の要請はもっとも緊急を要する」と臆面もなくまくしたてた。大地主の石関さんは、どこの馬の骨とも知れぬ一青年の、おこがましくも航空に一身をささげる覚悟を披歴したことに感動せられた。

老侠客のような石関さんの快諾は千鈞の重みがあった。立派な玄関のついた建物を本館とし、元料亭の離れ家を教室として開港した。これは無償提供されたものだ。かなめ館の女中が上等の料理を運び込んで、主人からの進物ですといわれて、食い気ざかりの一同が欣喜雀躍したこともある。

六郷川の海にそそぐ両岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になる。平たんであり、軽い飛行機の滑走には好適であった。それでも飛行場にはどこがよいかと踏査したところ、穴守側の干潟は近いけれども、海水のたたえる澪(みお)があり、軟弱だったので、川崎大師側の梨畑に沿う境の上に格納庫を建設した。

「三本よし」と通称されたところ、植物の葦、芦、葭のいずれの当字かわからない。多分、「葦のずいから天をのぞく」のそれかも知れない。それから風雪幾星霜か、夜明けからたそがれまで、ボートを漕いで六郷川を往復した。

あちこちに葦の茂った干潟だから、誰にも断らずに使っていたら、満潮時には海水のただようところでも、所有権が存在すると苦情が持ち込まれた。三田の伊集院さんという華族の館に、家来を訪ねて三拝九拝して謝罪した。いま想えば、(中略)若気の無鉄砲の失錯だった。」

こうして飛行学校と飛行場を開設することができたのですが、

飛行学校創立から間もないある日、山形県鶴岡市の斉藤氏から、フランス製のノーム50馬力エンジンを譲り受けました。

これは当時非常に貴重なもので、玉井氏と相羽氏とで連日協議してデザインを固め、

練習生の1人が木工の経験があるので製作員として飛行機を制作したのでした。

5月20日、制作した「玉井式三号機」で芝浦埋立地から公開飛行を実施。

「五千フィートの上空より、二百万の東京市民に敬意を表す。飛行機は国防上もっとも必要欠くべからざる武器となり…もし本機が敵機なりとせば、世界に誇る帝都も、爆弾一下によって灰燼に帰せん…」

という檄文を投下したのでした。

ところが何回目かの飛行から着陸態勢に入った時、片翼が上方に折れ曲がり、垂直に近い状態で墜落炎上。

この事故で玉井氏、同乗の東京日日新聞の写真部員が死亡してしまいます。

この時玉井清太郎氏26才、相羽有氏22才でした。

玉井清太郎氏の死は、「空界の新犠牲」として全国に報道されました。

開港から僅か4ヶ月余りで共同経営者を失ってしまった相羽氏は、

玉井清太郎氏の弟藤一郎氏と共同経営の形で再建を図ったのですが、

藤一郎氏はまだ練習生に毛が生えた程度の技量だったので、

外部から予備役陸軍飛行将校を招いて再建を図ります。

(相羽氏は極度の近視だったため、飛行家になることを断念した人物でした)

ところがそれからたった3か月後、飛行場の格納庫は飛行機もろとも台風による高潮で押し流され、壊滅してしまいました。

翌年の大正7年2月、玉井藤一郎氏は相羽有氏と手を切り、片岡文三郎氏ら数名の練習生を伴って羽田飛行研究所を創立。

(この「片岡文三郎」という人物は後日別記事で再登場します)

玉井藤一郎氏は野島銀蔵氏から「飛行家」として認定を受け、飛行家養成の旗印で再々起を図ったのでした。

一方の相羽氏は、資金集めの為に一時航空界から身を引き、日本自動車学校を創立、

月刊雑誌「スピード」を発行、北米車の輸入元になるなどしました。

 

兄の遺志を継いだ弟の玉井藤一郎氏も「日本民間航空史話」に寄稿しています。

「昔の民間飛行家の思い出」と題する4pから成るもので、

三本葭飛行場を使用していた時期のエピソードとして、

大正9年、京都市の栗津氏の依頼により、二人乗りの飛行機を制作したことが記されています。

メスセデス・ダイムラー60馬力エンジン搭載の「青鳥号」を制作。

羽田三本ヨシ飛行場での試験飛行を経て、京都訪問飛行を実施。

同じ「青鳥号」で兄清太郎の追善飛行を行うため郷里の三重県四日市市の築港埋立地に行った。と記されています。

また、大正10年6月には帝国飛行協会主催の第二回懸賞飛行大会に出場したこと等記されていますが、

相羽氏や三本葭飛行場についてはほとんど出てきません。

 

玉井氏の方はその後もしばらくの間三本葭飛行場を使用していたのですが、毎年の暴風で飛行場が破壊されるため、

神奈川県の生麦の埋立地を三年間無償で貸すと紹介してくれる人があり、大正10年11月に羽田から生麦飛行場に移転します。

相羽氏は資金集めのため航空界から身を引き、玉井氏は生麦へ移転、と両人が羽田の地を去り、

その間ここ三本葭飛行場を誰かが使用したという記録はなく、

「空白期」等表現される状態になります。

それから10年後、羽田が再びヒコーキの飛び交う時がやってくるのですが、

新生羽田飛行場についてはまた後の記事で。

次の記事では、生麦へ移転した玉井氏の「玉井飛行場」について、

続けて同時期に同じ横浜市に開設した飛行場についての記事をアップします。

 

DSC_0024.jpg

対岸に見えているのは羽田国際線ターミナルと駐車場等。

川崎側から見るとなんだか新鮮な感じ。

飛行学校があったのは多摩川のあちら側。

飛行場があったのはこちら側。

DSC_0030.jpg

100年前、この川の部分が干潮時には干潟となりヒコーキが飛んでいたのですね~。

DSC_0017.jpg


      神奈川県・三本葭飛行場跡地     
日本飛行学校の飛行練習生の中に、福島県須賀川で模型造りに熱中していて17才で上京した、後のウルトラマンの円谷英二氏がいます

三本葭飛行場 データ
設置管理者:日本飛行学校
空港種別:陸上飛行場
所在地:神奈川県川崎市川崎区殿町
座 標:N35°32′29″E139°45′33″
着陸帯:800m?
方 位:11/29?
(座標、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1916年 8月 羽田町穴守に日本飛行学校と日本飛行機製作所創立。飛行場は多摩川対岸の干潟、通称「三本葭」
      10月5日 玉井清太郎操縦の「玉井式2号機」初飛行
1917年 5月20日、芝浦埋立地で公開飛行を実施。玉井清太郎墜落死
      7月9日 相羽は玉井清太郎の弟、藤一郎と共に日本飛行学校再起
      10月1日 台風による高潮で飛行場壊滅
1918年 2月1日 玉井照高(藤一郎改め)は相羽有と手を切り、片岡文三郎ら数名の練習生を伴って「羽田飛行研究所」創立
      相羽は資金集めの為一時身を引く
1921年 11月30日 玉井照高、生麦飛行場に移転

関連サイト:
馬込文学マラソン・羽田の空を初めて飛行機が飛ぶ  
序 調査の目的と範囲-大田区ホームページ  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
鶴見歴史の会機関誌「郷土つるみ」第58号
「日本民間航空史話」
「全国空港ウォッチングガイド」
「地図と愉しむ東京歴史散歩」
発掘街道の文学四日市・楠編


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神奈川、東京、埼玉 [■旅行記]

Ⓖ自宅→Ⓑ片岡飛行場跡地→Ⓒ宗里飛行場跡地→Ⓓ戸田滑空場跡地→Ⓔ浦和飛行場跡地→Ⓕ朝霞飛行場跡地→Ⓖ自宅

 

12月下旬の週末、日帰りで出かけたのでした。

公共交通機関や高速を利用しないので、特に出発時間は決まっておらず、

4時に起きて、準備ができたら出発すればいいや。と思っていたのですが、

もっと早い時間にスッキリ目が覚めたので、3:45 出発。

気温-2℃。さ、寒い~!><

事前の予定では、国道16号でダラダラと南下して、

横浜市鶴見区の飛行場跡地の写真だけ撮って、自宅に戻るつもりでいました。

思えばこの飛行場跡地に初めてお邪魔したのは今年の1月。

その際、鶴見区役所の方に電話で問い合わせをしたのがご縁で、関係先から貴重な資料まで頂いたのでした。

「記事アップの際は連絡を」とのことだったのに、

オイラの手際の悪さのせいで今までズルズルとお待たせしてしまっていたのでした。

本当はたった1か所のためだけに出掛けるようなオイラではないのですが、

今日を外すと確実に来年になってしまうため、出掛けることにしたのでした。

 

自宅近くの住宅地を抜けたところでナビに横浜の飛行場跡地を目的地にセットしたのですが、

ナビはオイラの予想に反して16号経由ではなく、環八経由のルート案内になっています。

アレ??

自宅から直で横浜にお邪魔するのはこれで三度目なのですが、これまでの二度は16号経由の案内でした。

なぜだろう。と思ったのですが、同じ横浜でも目的地が異なるせいでした。

改めてナビで見てみたら、目的地はオイラが思っていたのより東京寄り。

ルート途上には、来年行く予定にしていた東京と埼玉の見学ポイントがあります。

ちょうど東京と埼玉のファイルも持ってきているので、ついでに今日周ることにしました。

4:30 朝霞市内にて、川越街道下り線、キャリアカーに外車が斜めに突き刺さって二車線塞ぐ事故のため、

少し渋滞発生。

中央分離帯が設けられていない箇所だったので、上り線を利用して上下一車線ずつ確保して通行できるようにしてました。

出発時間が早かったせいでほとんど混まずにどんどん目的地が近づいてきます。

この分だと6時には到着しそう。

冬至の迫るこの時期、7時前位でないと撮影できる明るさにならないはず。

う~ん、どうしよう。。。

そうだ!

目的地手前にある途中のポイントを撮影しながら行けばいいジャン!d( ̄∇ ̄*)(←よくわかってない)

ということで、6時ちょい前に目的地にほど近い入船公園駐車場到着。

早朝だと自宅から下道でも2時間ちょいで横浜着いちゃうのか。

まだ真っ暗です。

気温+2℃。

この後の見学地点をナビに打ち込んで後、仮眠をとって待つことに。

ということで、7時前に無事撮影を済ませ、次の見学ポイントに向かったのでした。

戸田滑空場跡地、浦和飛行場跡地、朝霞演習場の撮影が終わったところで時刻は11時。

この後1件仕事があるため、大人しく自宅に戻ることに。

12:55 自宅着。

 

走行距離:177.1km

燃費:19.8km/l


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栃木県・口粟野防空監視哨跡 [├場所]

  2016年7月 訪問 


栃木県鹿沼市口粟野にある「口粟野防空監視哨跡」。

監視哨跡は城山山頂にあり、現在は粟野城址城山公園として整備されています。

公園駐車場から徒歩で山道を登って行きます。

親切な整備が行き届いていて、オイラのような素人でも迷わず行けました。

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監視哨の隣に説明版がありました。

口粟野防空監視哨(全文)  

 口粟野防空監視哨は太平洋戦争開戦の1941年(昭和16年)「防空監視隊令(勅令1136号)の発令を受けて策定された「栃木県防空計画」により整備・建造された。県内には監視隊本部が3か所設置され、43か所の監視哨と4か所の補助監視哨が設けられた。口粟野監視哨は、外周直径約4.3m・内周直径2.6mのコンクリート製喇叭型円筒形で、栃木県内に現存が確認されているのは、口粟野監視哨と烏山監視哨の2基のみである。監視哨は、敵機の迎撃準備などに必要な時間から逆算し、大都会からやや離れた地におかれた。この監視哨はソ連の東にある軍都ウラジオストクから飛来し、中禅寺湖で南下、東京爆撃へ向かうソ連の軍用機を想定した施設であった。現実には東京や宇都宮を爆撃したアメリカの軍用機B29の監視を行っていた。時にはグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたこともある。2012年(平成24年)公益社団法人土木学会は「特異な時代体制下の土木技術の一つの役割を伝える」として、推奨土木遺産に指定された。城山を守る会 作製


説明版にある通り、ウラジオストク→中禅寺湖→東京 の線を引いてみました。


     栃木県・口粟野防空監視哨跡      

口粟野防空監視哨 データ
所在地:栃木県鹿沼市口粟野
座 標:N36°31′04″E139°39′55″
標 高:250m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年 「防空監視隊令」により策定された「栃木県防空計画」により建設
2012年 公益社団法人土木学会、推奨土木遺産に指定

関連サイト:
ブログ内関連記事       


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