So-net無料ブログ作成
検索選択

海軍航空隊種子島基地(増田飛行場)跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年5月 訪問 

無題9.png
1947年9月当時の写真(USA M448 69) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県種子島にあった「海軍航空隊種子島基地(増田飛行場)」跡地。

滑走路位置は推定です(後述)。

DSC_0044.jpg

県道75号線沿いにある「増田宇宙通信所」の入口。

ここで後ろを振り返ると-

 

DSC_0045.jpg

こんな感じ。

広々とした畑が広がっています。

ここから見渡す限りの場所が大勢の人手によって造成された飛行場の跡地。

後述しますが、説明版には「昼夜兼行で山を削り谷を埋め」とあります。

ここに山や谷があったとは…想像を絶します。

そしてここから更に県道で西の方向に進むと-

 

DSC_0048.jpg

200m足らずでこんな標識が。

 

DSC_0058.jpg

こんな感じで県道沿いに碑があります。

「九州海軍航空隊種子島基地之碑 源田實書」

DSC_0051.jpg 裏面に碑文がありました。

碑文(全文)昭和十六年十二月八日我が連合艦隊は真珠湾を攻撃し大東亜戦争に突入した 翌年十月日本海軍は増田牛之原に飛行場を建設することになった熊毛郡民は徴用を受け空襲と食糧難に堪えあらゆる困難を克服してこの建設に奉仕し小型機の発着を見るに至ったが間もなく終戦を迎へ建設工事は中止となった 中種子町在住海軍出身者は建設に従事し人々の偉業を永遠にたたえ滑走路南端にこの碑を建てる 昭和五十年五月二十七日 中種子町櫻会 土地提供者 石碑寄贈者 元隊長海軍少佐 西園善助 南種子町出身

(オイラ的に)最も気になる滑走路位置についてですが、この碑は滑走路南端に位置しているのですね。

「日本海軍航空史」(終戦時)の中では、「種子島 1,000x300(転圧)」と記されています。

当飛行場付近の航空写真は現在1947年のものしか閲覧できず、次は一気に1967年に飛んでしまい、

1967年のものだと周辺はすっかり畑地になっています。

1947年の写真で見ても、オイラにはハッキリとした滑走路の地割を見つけることができないのですが、

ここが南端として航空写真と見比べつつ「こんな感じかなあ」と1,000mx300mの線を引いたのが、

上のグーグルマップの「推定滑走路位置」です(「南端」から少しはみ出してるけど)。

滑走路の北端部分が当時の航空写真でも濃い植生になっていますが、

グーグルアースで標高を確認すると、この部分は谷や山になっていて、とても滑走路という感じではありません。

(それで碑の位置から少し南側にはみ出した)

もしかすると、特に滑走路の南側は作図のような完全な方形ではなく、場所により少し細く変形していたかもしれません。

特に北端部分がうんと細かったとすると、碑のところが南端でもギリギリ1,000mでいけるかも。

いずれにせよ1,000mあれば小型機なら十分な長さです。

個人的には、850mx75m程度なら無理なく設置できると思うんですけどね~。

ところでこの碑文の中にオイラにはどうしても読めない文字があります。

無題0.png

これです。

「小型機の□着を見るに至ったが」

という文の一部なんですが、何と読むのでしょうか?

ご存じの方おられましたら是非教えて下さいm(_ _)m 

2016/7/6追記:発の旧字「發」と教えて頂きました。kanさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

 

DSC_0050.jpg

そしてこの碑のある場所から更に県道75号線を西に進むと(すぐ左クランクになるけど)-

 

DSC_0074.jpg

約400mでこんな場所に出ます。

増田飛行場唯一の遺構のある場所です。

駐車場完備。

 

DSC_0059.jpg

 

DSC_0061.jpg

県道から案内標識に従って脇道に入っていくと、すぐ煙突前に出ます。

戸畑の煙突(全文)太平洋戦争中の一九四二年一月、増田に海軍飛行場の建設が決定され飛行場とともに地下施設・格納庫・兵舎・防空壕などが計画され、同年八月基地建設が着工された。基地内の滑走路建設は、島内の老若男女、学童や他地域の住民までが動員された。昼夜兼行で山を削り谷を埋め、終戦間近に二本の滑走路のうち一本が全て人力により完成した。しかし、終戦前の空襲で地上施設はほとんど破壊され、また数十年の時間の中で多くは解体された。ここに残るレンガ造りの煙突は、当時の面影を残す唯一の施設である。その用途は多くの兵士の食事を作って来た烹水所とも、兵舎の風呂場とも言われている。中種子町指定文化財 平成十八年一月二十六日指定 中種子町教育委員会 中種子町文化財保護審議会

DSC_0063.jpg

 

DSC_0073.jpg

 

DSC_0065.jpg

煙突の所から更に奥の方に土台が残っています。

 

DSC_0070.jpg

広場の一番奥まで進んで振り返るとこんな感じ。

 

DSC_0069.jpg

これが風呂場なのかしらん。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:種ヶ島 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1,000x300 1,000x200 主要機隊数:小型4,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:魚雷調整4本 同格納庫36本


      鹿児島県・海軍航空隊種子島基地(増田飛行場)跡地     

海軍航空隊種子島基地(増田飛行場) データ

設置管理者:旧海軍
空港種別:軍用飛行場
所在地:鹿児島県熊毛郡中種子町増田
座 標:N30°33′32″E131°00′40″
標 高:113m
滑走路:1,000mx300m?(転圧)
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年 1月 飛行場建設決定
      8月 着工
2006年 1月26日  中種子町文化財指定

関連サイト:
ふるさと種子島/戸畑の煙突    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)


コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

安納飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年5月 訪問 

無題7.png
1967年10月当時の写真(KU6711Y(1) C5 9) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県種子島の北部太平洋側にあった西之表町の「安納飛行場」。

昭和30年代から40年代初めにかけて存在した西之表町営の飛行場です。

「西之表百年史」の「航空」という項目の中で、

西之表町安納に飛行場を建設するに至ったいきさつから実際に開港して以降の様子について記されていました。

話はライバルとなる隣町中種子での空港建設計画から始まります。

離島振興法の施行を見た昭和二十九年、中種子町は第三種空港の設置を考え、 県企画調査室と計画書を作り、経済企画庁に申請した。企画庁は現地調査の結果、地理的その他の条件から合格の線が出、中種子町は隣接の西之表町とも話し合いを進め、愈々第三種空港誘致案を具体化して整備事業に入った。

町営空港として高峰に建設の計画工事を変更して、新たに野間に、町有地百四十町歩を切り開き、長さ千メートル巾四十メートルの滑走路を作り、三十三年度は民間飛行機ビーチクラフトを不定時ながら就航させた。

一方それまで第三種空港誘致に消極的であった西之表町は、中種子町に実現可能と見るや、急に飛行場要望の声がわき上がった。議会は満場一致で、町独自の予算で飛行場を建設する事を可決した。

敷地も三ヶ所をあげて検討したが、結局地価問題が決め手となって東海岸の安納に決定した。

計画では、五百七十五万円で、巾四十メートル、長さ九百メートルの滑走路を九月末までに竣工させるべく、六月五日起工式を行った。この滑走路は三百七十メートルが公有水面に触れるため、護岸工事を行う必要があり、滑走路の方向が南北という、年間平均風位が西風百五十日といわれる種子島としては、かなり不利な条件であった。

しかも、町営空港建設に踏み切った理由は、西之表町は種子島の経済文化の中心地であり、近い将来市制を施行する計画を持って居り、種子島における重要な都市的存在にある、として空港の必要性を唱えた。

此の年、八月五日付の新聞には次のような記事がある。

「(中略)いまのところ中種子と西之表の飛行機利用者は半々だが、将来西之表に飛行場を作れば、西之表町からの利用者が圧倒的に多くなり、飛行場の重要性はむしろ西之表町側にあると主張している。このような観点から、西之表町では、安納飛行場を第三種空港の補助飛行場として建設する態度をとっている。

この為、西之表町としては、中種子の第三種空港の建設について了解の線を出さず、安納飛行場の建設について、県は何らかの補助をすべきであるとして、承認の調印から逃げているのが真相である。

しかし県の考え方としては、今のところ西之表町の飛行場建設に対して補助を行う意思を持って居らず、西之表町の承認拒否は、種子島に於ける第三種空港建設にブレーキをかけている。

既に運輸省は中種子の第三種空港指定を前提として千七百万円の予算措置を行っているが、西之表町との問題で予算の執行は行き悩みの状態で、今後どのような解決策が打ち出されるか注目されている。(新聞記事引用はここまで)」

此の安納空港建設は予定期限には竣工せず、更に予算をつけてブルドーザーを購入、三台をフルに動かして、同年十二月二十五日、漸く試験飛行にこぎつけた。

試験飛行には東亜航空のセスナ機を使用したが、専門家の意見では、離着陸時に横風を受けること、上空の気流が非常に悪いなど、かなり憂慮されるものであった。

先に九月、政務次官、知事、代議士、航空局長によって調整された覚書によって、西之表町は安納飛行場の滑走路を、一月中旬までに百米延長し、付属設備を完備して場外飛行場の指定を受ける段取りであったがこの覚書には「一定の条件のもとに」という但し書きがあり、更に多くの出費を余儀なくされた。

昭和三十四年から、三十九年四月まで富士航空が不定期の運航を続けたが、此の間、西之表市がつぎ込んだ経費は三十三年度に千四百四十参万八千円。三十四年に二百四十三万六千円、その後、三十七年と三十八年に、失業対策辞儀用で、延べ三千二百人の人手で補修を行った。

昭和四十二年、西之表市は市議会に空港対策特別委員会を設けたまま今日に至っている。

 

「安納に飛行場を作ろう!」という機運が高まったのは、島中央に位置する中種子町の第三種空港計画が大きいようですね。

次にご紹介する書籍にも出てくるのですが、「一つの島に一つの空港」という県の方針があり、

中種子町に第三種空港が設置されると、ここが未来永劫「種子島の空の表玄関」と化す可能性が大です。

西之表町としては、「我々こそ種子島の経済文化の中心地である」という自負があり、

中種子町が空の拠点となるのをよしとしませんでした。

このため西之表町としては中種子町の第三種空港計画を承認せず、

先ずは安納に飛行場を作り、将来的には西之表町に第三種空港を建設し、

その際は安納を西之表の第三種空港の補助飛行場とするつもりだったようです。

(安納を中種子の第三種空港の補助飛行場とするつもりなら、中種子の建設計画を承認拒否なんてしないはず)

結局は中種子町の第三種空港計画がそのまま進み、「旧種子島空港」となります。

引用されている新聞記事は、中種子の空港計画を阻止せんがための、

西之表の一部ゴリ押しとも受け取れるような内容なのですが、

この新聞記事が「西之表百年史」に引用され、記事について特に否定したりせずに補足の記事が続き、

特に何の注釈もなく次の「道路」の項目に移っていますから、単なる"でっち上げ記事"という訳ではないようです。

旧種子島空港に続き、現行の種子島空港も中種子町に建設されました(西之表にかなり隣接しているけど)。

-種子島の空の玄関口として確固とした地位を確立した中種子町と、7年余で町営飛行場を閉じた西之表-

表面的に見れば、安納は短い期間しか存続できなかった本当に小さな飛行場と映るのですが、

実は、「安納を足掛かりに第三種空港を中種子からこちらに持って来る!」

という西之表町のすごい野望を含んだ飛行場だったのですね。

 

「種子島今むかし」という書籍の「安納飛行場-エビ養殖場と野球場」という項目の中でも、

安納飛行場の建設から廃港後の跡地利用について(こちらは内容の要約ですが)、次のように記されていました。

それによれば、中種子町には飛行場があって定期運航が行われているので、

是非西之表にも飛行場を! という強い声が主に商工会方面から上がったのでした。

当時の県の方針は「一つの島に一つの空港」ということだったので、既に飛行場があるのに、更に2つ目ということで、

町議会でも賛否あり、もみにもんだあげく、「飛行場対策特別委員会」を設けて検討することになりました。

ところがこの委員会ができるや否や、反対派議員が賛成派に鞍替えしたため、建設一本槍で進むことになり、

県と国に陳情を行ったのですが、その時既に「中種子空港」が決定していたのでした。

結局西之表はどこからの補助もなしに独力で飛行場を建設することになりました。

900mx40mの滑走路で東亜国内航空の4人乗りのセスナ機か、10人前後乗りのヘロン等が飛んだのですが、

採算割れによる会社の引き上げに伴い、昭和41年6月、僅か7年余で廃港してしまいました。

跡地利用について様々検討されたのですが、結局砂利採取地としてその権利が某氏に売却されることになりました。

ところがこの権利が次々に転売され、砂利はどんどん採取されて、ついには最初の契約範囲を越えるまでになったのですが、

責任者不明で、「採取終了後は埋め戻す事」という契約も履行されず、あとには大きな凹地と水溜りが残りました。

しかもなお盗掘は絶えず水溜りはますます大きくなってゆきます。

これを埋め戻すには約八千万から一億円もかかるとのことで、コンサルタントからは、

「この凹地をそのまま利用するような事業-養魚、畜魚の他あるまい」とのことでした。

昭和56年10月、車エビの養殖をしたいという申し入れがあり、北半分を貸すことに。

南半分の残地は、市青少年センターを建設し、ゲートボール場、運動場などとして利用していたのですが、

勤労者体育施設として野球場建設可能とのことで、本格的な球場が誕生したのでした。

この球場に夜間照明施設を付けたかったのですが、養殖場側から、

「あたりが暗いのに突然電灯が点いて明るくなると、海老がびっくりして跳び上がり、

腰を折ることが多いから避けてもらいたい」とのことで、照明施設の設置ができないという事情があるのだそうです。

 

DSC_0039.jpg

飛行場跡地が凹地となってしまったため造られた養殖場。

「種子島今むかし」ではエビの養殖場と記されていますが、検索するとあちこちのサイトで「養鰻場」として出ています。

画面奥に2本のビロウの木があります。

飛行場があった当時の写真にこの2本の木が映っており、「これがココに飛行場があった唯一の名残」と

偶然通りかかった地元の方に教えて頂きました。

 

DSC_0042.jpg

養鰻場と海に挟まれた道路。

道路の方向といい位置といい、滑走路跡か、滑走路に沿ったものなのではないかと思います。

少なくとも画面左側から奥は滑走路だったはず。

 

DSC_0030.jpg

滑走路南側に建設された野球場。

後ろはすぐ海。

こんなところで野球やったら気持ちいいでしょうね~。

 

DSC_0031.jpg

滑走路南端部分。

当初は画面右奥の段々になっている曲線部分が滑走路南端ではないかと思っていたのですが、

飛行場があった当時の航空写真と現在の地図を比較すると、段々部分ではなくてこちら側が滑走路エンドのようです。


      鹿児島県・安納飛行場跡地     
石原裕次郎主演の映画で使用された飛行場でもあります

安納飛行場 データ
設置管理者:西之表町
空港種別:町営飛行場
所在地:鹿児島県西之表市
座 標:N30°43′30″E131°04′22″
標 高:5m
滑走路:900mx40m
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1956年 中種子町の飛行場計画を受け、この頃「西之表にも飛行場を」との声が高まる
1958?年 6月5日 安納飛行場起工式
      9月 「1月中旬までに滑走路100m延長、付属設備を完備して場外飛行場に指定」の覚書
      12月25日 試験飛行開始
1959年 富士航空が不定期運航開始
      東亜国内航空の4人乗りセスナ機、10人前後乗りのヘロンによる運航
1964年 4月 富士航空、不定期運航終了
1966年 6月 廃港。その後跡地は砂利採取場となり、大きな凹地となる。
1981年 10月 跡地北半分でエビ養殖事業の申し入れ。南半分は市青少年センター建設
1985年 4月 南半分の跡地に野球場完成

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「西之表百年史」
「種子島今むかし」


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鹿児島県・枕崎ヘリポート [├場所]

  2016年5月 訪問 

2013年3月末に廃港した鹿児島県の枕崎空港。

その年の10月にお邪魔していたのですが、その時点では今後ソーラーパネルが設置されるという計画のみで、

滑走路には×がペイントしてある状態でした。

ソーラーパネルが設置された様子を見にまたお邪魔してきたのでした。

 

DSC_0013.jpg

ヘリポート入口。

かつての枕崎空港は今やすっかりヘリポートになっていました。

DSC_0009.jpg

ヘリポートターミナル。

以下サイトによれば、現在ここはメガソーラー見学施設を兼ねており、

1階では大型モニターで現在の発電量や発電の仕組みを学ぶことができます。

また3階の展望デッキからは、視界360度パノラマでソーラーパネルを見学できるのだそうです。

●開館時間 午前9時30分~午後5時
●休館日 年末年始(12月28日~1月3日)
●利用料金 無料

空港当時と比べると、正面玄関横に管理事務所が増築されましたね。

ヘリポートとしては、主に災害時及び救急患者搬送等で使用されており、

鹿児島県防災航空隊のヘリコプター1機が常駐しているのだそうです。

 

DSC_0006.jpg

ターミナル横にはこんなものが。。。

 

DSC_0011.jpg

 

DSC_0010.jpg

天文台。

●開館日時 月~木・日曜日 午前9時30分~午後5時、金・土曜日 午前9時30分~午後10時
●休館日 年末年始(12月28日~1月3日)
●利用料金 幼児 無料/小・中学生 1人200円(個人) 1人100円(団体)/高校生以上 1人300円(個人) 1人150円(団体)
サイトより:

DSC_0014.jpg

滑走路側に回りました。

想像以上にパネルで埋め尽くされてました。

 

DSC_0016.jpg

幅70m、長さ1kmにソーラーパネル約33,000枚が敷き詰められおり、最大8.2MWの電気を生み出すのだそうです。

 

DSC_0019.jpg

写真では見辛いのですが、ターミナルの滑走路側は「枕崎空港」の表示のままでした。

 

DSC_0026.jpg

隣接する空港公園。


      鹿児島県・枕崎ヘリポート     

枕崎ヘリポート データ
設置者:枕崎市
指定管理者:南薩エアポート株式会社
種別:公共用ヘリポート
運用時間:8:30~17:00
所在地:鹿児島県枕崎市あけぼの町264
標 点:N31°16′6″E130°21′28″
標 高:54.5m
面 積:1.5444ha
着陸帯:25m×20mアスファルトコンクリート舗装
方 位:18/36

沿革
2013年 3月31日 枕崎空港閉港
      8月6日 メガソーラー起工式
2014年 9月1日 メガソーラー見学施設、枕崎天文台オープン
      18日 枕崎ヘリポート供用開始

関連サイト:
枕崎市公式サイト    
ブログ内関連記事       


コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

九州・2 [■旅行記]

Ⓐ道の駅川辺やすらぎの郷→Ⓑ枕崎空港跡地→Ⓐ鹿児島港→Ⓙ西之表港→Ⓔ図書館→Ⓕ安納飛行場跡地→Ⓖ増田飛行場跡地→Ⓗ高峰飛行場跡地→Ⓘ中種子町立歴史民俗資料館→Ⓙ西之表港→Ⓑ鴨池空港跡地→Ⓒ伊敷練兵場跡地→Ⓓ道の駅おおすみ弥五郎伝説の里(車中泊)

 

二日目

4:00 起床

出発直前の関東は五月晴れで暑い日が多く、車内ではエアコンつけっぱの日が続いてました。

関東ですらこの陽気で、しかも九州を周るため薄い毛布のみしか持って来ておらず、

車中泊で布団が必要だなんて思いもしなかったのですが、朝方はかなり冷え込み、

念のため持ってきたウインドブレーカーでも足りず、周囲に駐車車両がないのを確かめて、少しヒーター入れたのでした。

本日のメインは種子島の増田飛行場跡地。

他に鹿児島市内に二か所と旧枕崎空港も見学ポイントになっていて、

どういう順番で回ろうか、いろいろ考えたのでした。

種子島には鹿児島港と指宿港からジェットフォイルが出ています。

当初は指宿港から種子島に渡った方が近くて安いし、旧枕崎空港に寄るのも便利だし、と思っていたのですが、

出発直前になって種子島に未知の飛行場が新たに2つ見つかりましたΣ(゚Д゚;) 

指宿港から種子島に渡る便は、1往復/1日しかなく、種ケ島滞在時間は4時間10分。

種子島の見学ポイントはほどよくバラけているので、この時間で3ヵ所は相当厳しいです。

鹿児島港からなら、種子島便は6往復/1日あり、始発で渡って最終で戻れば、種子島滞在時間は8時間と倍になります。

ということで、鹿児島港から種子島に渡ることにしたのでした。

 

鹿児島港からの始発は7:30 なので、 その前に鹿児島市内か、旧枕崎空港のどちらかに行けるのですが、

旧枕崎空港を先に見学することにしました。

4:20 道の駅川辺やすらぎの郷出発

DSC_0001.jpg

DSC_0027.jpg

日の出少し前に到着したため辺りを徘徊し、それから撮影開始。

5:40  一通り眺めて周り、旧枕崎空港を後にしました。

7:00 鹿児島港着。

思ったより時間がかかり、高速船のターミナルに入るのが結構ギリギリになってしまいました。

無事始発と最終のチケットをゲット。

待合所の売店で朝食のサンドイッチを購入し、7:10 乗船開始。

7:35 5分遅れで出港。1人乗り遅れがあったらしい。

9:15 種子島港着。

桟橋のところで予約してあったレンタカー屋さんがボードを掲げて待っていてくれました。

レンタカー屋さんの事務所内ではなく、 港前の駐車場内で立ったまま手続きはすぐに済み出発。

まずは港近くの図書館へ。

普段はスマートキーを身に着けてさえいれば、ノブに手を掛ければ開錠するし、ボタンを押せばエンジンが掛かる。

という毎日なので、シートに着いてから「ああそうか」ともぞもぞキーを取り出すのを繰り返してしまいました。

図書館到着。

直前に見つかった飛行場の位置情報がイマイチ絞り込めなかったので、ここでいろいろコピー。

郷土史コーナーには、沖縄関係の書籍が結構置いてありました。

今回種子島で見学するのは、旧海軍の増田飛行場跡地、それから出発直前になって見つかった民間の2飛行場(安納、高嶺)の

3つなのですが、既に見学済みの種子島空港、旧種子島空港跡地と、合計5つの飛行場がありました。

種子島は南北約58kmの島なのですが、5つの飛行場はこの細長い島の別々の場所に独立して建設されました。

素朴な疑問として、なんでこんなにたくさんバラバラに? というのがあったのですが、

その辺りの事情が本にまとめられていました。

予定していた跡地の見学を全て済ませ、時間があったので歴史民俗資料館に寄ってみました。

生憎飛行場についての詳しい資料はなかったのですが、何か見つかれば送って頂けることに。

種子島のすぐお隣に馬毛島があり、馬毛島に米軍受け入れ賛成/反対のポスターを島内あちこちで見かけました。

なんだか馬毛島は種子島のものという感覚だなあ。などと思いながら見ていたのですが、

種子島の北部は西之表市で、馬毛島は住所的にこの市の所属でした。

給油してレンタカー返却。

この返却の仕方も、レンタカー屋さん自ら「アバウトですけど(笑)」と言っていたのですが、

指定された駐車場が満車だったら隣の駐車場のどこでもいいから停めて、給油時にもらえる「満タン証明」をバイザーにはさみ、

カギはそのままつけっぱでオッケー。そのまま船に乗って鹿児島に戻って構わないという手軽さです。

後は鹿児島港に戻るだけなのですが、予約してある最終17:05のジェットフォイルだと、18:40鹿児島着です。

鹿児島市内の見学ポイントが2ヵ所残っているのですが、すぐ日没になってしまうため、

今日は鹿児島市内で車中泊して、この2ヵ所は明日の朝見学するつもりだったのですが、

港に着いたのが14:30 で、窓口で15:00の便に変更してもらえました。

この便だと16:55 に鹿児島に着けるので、日没前に鹿児島市内の見学ができます。

DSC_0082.jpg

ということで鹿児島港に戻って来ました。

DSC_0081.jpg

そして市内の2ヵ所(鴨池空港跡地と伊敷練兵場跡地)の見学を無事に済ませ、

次なる見学ポイントである鹿屋に向かったのでした。

20:15 見学ポイント手前の「道の駅おおすみ弥五郎伝説の里」着。

21:00 明日のポイントの打ち込みをして後寝る。

おやすみなさい。

 

(続きます)

本日の走行距離:253.8km(種子島内でのレンタカー83km含む)


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

九州・1 [■旅行記]

Ⓐ圏央鶴ヶ島IC→Ⓑ清水PA→Ⓒ守山PA→Ⓓ西宮名塩SA→Ⓔ吉備SA→Ⓕ福山SA→Ⓐ玖珂PA→Ⓑ鞍手PA→Ⓒ北熊本SA→Ⓓ桜島SA→Ⓔ道の駅川辺やすらぎの郷(車中泊)

今年の5月中旬、九州に行ってきたのでした。

3:50 自宅発

3:55  圏央鶴ヶ島IC

出発時は傘の要らない程度の小雨だったのですが、神奈川県の山間部に入ったところで一気に天候が悪化しました。

白く煙る豪雨、50m先の車のライトが完全に消えてしまう濃霧、左カーブなのにハンドルは右に切り続ける強風。

こっ、こわい~><

これまでのオイラの高速道路の悪天候では一番酷かったと思います。

おかげでまったく退屈しませんでした。

その後徐々に雨だけに。

5:50  清水PA

7:55  守山PA

10:20 西宮名塩SA

京都の手前で雨はやみ、曇り空になりました。

12:15 吉備SA

13:15 福山SA 給油。

長距離移動の際は極力2時間おきに休憩をとるようにしているので、そのタイミングで給油したいのですが、

オイラのフィットだと、自宅で満タンにすると、この辺りが精一杯。

計算上は次のSAまで15km分の燃料が残るはずなのですが、ギャンブルなので止めときました。

15:00 玖珂PA

18:45 北熊本SA 給油。

いよいよ熊本。

震災からちょうど1ヶ月経過した時期でした。

屋根にブルーシートの家がちらほら見えます。

「この先3km停滞」という表示。

九州道は震災後熊本で上下線通行止めになっていて、GW前に一応復旧した訳ですが、

路面の補修箇所があちこちにありました。

そして渋滞の最後尾に。

この停滞箇所を抜けるのに20分程かかりました。

「渋滞」ではなく「停滞」。

(どういうこっちゃ?)と思っていたのですが、上り線のみの対面通行にして道幅を狭め、

1台1台停止させ(皆キチンと止まらないけど)、人為的に超低速状態を作っていました。

路面に補修はしてあるのですが、段差が激しくて、100km/hだと多分ラリーカーみたいになって危険です。

 

余談ですが中越地震の際、関越道は一般車両の通行止め解除まで13日を要し、

その後も速度規制が続いて完全復旧に1年2ヶ月かかりました。

どの程度の復旧具合のタイミングだったか忘れましたが、中越地震後の関越道を走った際、

数十キロに渡って路面の凸凹が続いており、100km/hで走っていると、まるでヒコーキで乱気流に入ったかのようになり、

一瞬身体が浮き上がりそうになったのでした。

20:55 桜島SA

22:05 道の駅川辺やすらぎの郷着

22:35 寝る

おやすみなさい

(続きます)

 

本日の走行距離:1,442.2km


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

群馬県・桐生愛国飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年4月 訪問 

 

この飛行場跡地には2009年5月にお邪魔していたのですが、おおよその場所しか分かりませんでした。

最近になって「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」という資料をゲットし、

その中に当飛行場についての詳しい地図があったため、現在の地図に落としてみることに。

ところがこの地図とグーグルマップを比較してみると、両毛線と飛行場の東側で南北に走る県道69号線はまあいいとして、

それ以外のありとあらゆる道路が当時と現在では違うのです。

とっかかりとなる基準点が作れないため、結局ほとんど目測で作図し、

後からいろいろ数字を見ながら合うようにツジツマ合わせをする微調整する。

というやり方で作図しました。

上図、これで一応面積、縦横比、飛行場敷地北東の角部分の線路と県道との離れ具合は、数字的にはピッタリです。

数字的には。

まあ大きくズレていることはないのではないかと。

で、敷地の北東角地に事務所、格納庫があることが分かったので、ここの写真を撮ろうと出掛けたのでした。

 

DSC_0103.jpg

(オイラの計算が正しければ)飛行場敷地北東の角地はココ。

ここから画面右奥に向かって飛行場だったはずです。

(この記事の情報は、2009年5月訪問時の「桐生愛国飛行場跡地」 に含めてあります)

 
ブログ内関連記事       


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

群馬県・中島知久平邸 [├場所]

  2016年4月 訪問 

中島邸には2009年6月に一度お邪魔して無人の邸宅を外から眺めた のですが、

2014年6月に「太田市中島知久平邸地域交流センター」として建物の一部が公開されたため、

今回お邪魔したのでした。

内部、外部共に撮影OKでした。

 

DSC_0102.jpg

 

DSC_0100.jpg

瓦の破片がたくさん引っ掛かっていたのですが、キレイになってました。

 

DSC_0098.jpg

DSC_0099.jpg

 

DSC_0068.jpg

現在入ることができるのは、玄関入ってすぐの広間と、それに続く応接間1、応接間2です。

 

DSC_0074.jpg

邸内から尾島飛行場方向。

飛行場は利根川河川敷内にあり、土手の向こう側なので滑走路を目視することはできないのですが、

格納庫、事務所等飛行場建物は土手のこちら側にあり(ここから620m先)、

飛び交うヒコーキは無論のこと、土手を越えて滑走路~格納庫間を行き交うヒコーキはここから見えたはずです。

 

DSC_0090.jpg

客間、次の間、両親居間、仏間は屋外から見学できるようになっています。

 

DSC_0092.jpg

 

DSC_0097.jpg


      群馬県・中島知久平邸     

中島知久平邸 データ

所在地:群馬県太田市押切町1417
利用時間:9時~17時(入場は16:30まで)
休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)
      年末年始(12月29日~1月3日)
入場料:無料

沿革
1926年 設計図案、平面図作成
1929年 10月12日 地鎮祭
1930年 4月17日 主屋上棟
1931年 4月29日 正門上棟式
1946年 2月25日 GHQが将校クラブとして接収。知久平の妹ら6月頃まで居住
1947年 9月15日 カスリン台風による床上浸水
1952年 サンフランシスコ条約調印後、日本政府が借り上げ米軍に提供
1953年 6月 米軍から返還。その後1年程空き家に
1954年 進駐軍家族に賃貸(当初は5家族、最後は1家族)
1958年 春ごろ空き家に
1968年 知久平の妹ら入居
1999年 6月 空き家に
2009年 3月 土地買収、建物寄付により、太田市の所有物となる
       5月20日 太田市重要文化財指定
2014年 6月14日 太田市中島知久平邸地域交流センターオープン

関連サイト:
太田市公式サイト    
太田市/中島知久平邸   
ブログ内関連記事       


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

尾島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年4月 訪問 

無題1a.png
1946年6月当時の写真(USA M159-A-5 99) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

滑走路位置の特定がなかなかできないまま記事をアップしていた「尾島飛行場」なのですが、

「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」の中に、尾島飛行場の詳細な地図がありました。

これまでどんなに探しても出てこなかった着陸帯がハッキリと図示されていました(;´Д⊂)

その通りに線を引いたのが上図です。

「尾島飛行場は群馬県と埼玉県に跨っている」という点は幾つもの資料に出ているのですが、

実際に資料の通りに線を引っ張ってみると、着陸帯はほぼ埼玉県にあります。

ブログ的に県別の分類をしている都合上、これは「埼玉県・尾島飛行場」にした方がいいのだろうか。

とも思ったのですが、格納庫、事務所等建物があるのは群馬県側であることと、「群馬県の中島氏」の飛行場であることから、

一応群馬県の飛行場のままにさせて頂きました。

以前アップした記事「群馬県・尾島飛行場」に今回の見学内容等含めて改定致しました。

興味のある方はコチラ をご覧くださいませ。


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

館林(大西)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年4月 訪問 

無題2.png 1947年11月当時の写真(USA R465-No1 178) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

群馬県館林市と邑楽町にまたがる「陸軍館林飛行場」跡地。

戦後進駐があり、館林飛行場は短い期間ではありますが「小蓋基地」になります。

1946年9月にはその基地も閉鎖され、引揚者の入植地として開放されました。

上の写真は1947年のもので、いかにも陸軍らしい方形の飛行場敷地内で既に入植が進んでいる様子が見てとれます。

また、敷地北東の角地には、基地への物資輸送に使用された引き込み線の曲線が微かに見えています。

 

無題3.png
1964年5月当時の写真(MKT649X C2 12) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

終戦から17年後の1962年、館林飛行場跡地の一部を大西氏が買い取り、「大西飛行場」を建設します。

上の写真は建設から2年後の写真。

本当にギリギリですが、滑走路は館林飛行場敷地内にあります。

 

無題4.png
1973年5月当時の写真(MKT731X C11 15) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

1969年の写真まで、滑走路はずっと1本なのですが、次に閲覧可能な1973年の写真では、

滑走路すぐ北側に新たな平行滑走路ができています。

大西飛行場名物のあの「滑走路を横断する道路」も映ってますね。

 

無題5.png
1975年1月当時の写真(CKT7418 C62 18) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

R/W26エンド拡大。

旧滑走路にXのペイントが。

その後大西飛行場は、2003年12月に閉鎖してしまうのですが、滑走路は閉鎖後もしばらく残ります。

 

無題6.png
2009年4月当時の写真(CKT20091 C2 33) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

これが2016年現在閲覧可能な最新の写真です。

滑走路西側には巨大な建物がありますが、滑走路東側がまだ残ってますね。

旧滑走路もかろうじて残っているような。。。

で、ここまでの流れを踏まえた上で、現地にお邪魔してきました。

(陸軍時代の敷地を意識して写真撮ってないから撮っとこう。大西飛行場時代の一部残っている滑走路を今のうちに撮っておこう。)

そう思っていました。

 

このマップは、国土地理院の航空写真と共に、水路部発行の「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 」の中に

「館林陸軍飛行場」の詳しい地図と資料があり、それを参考に作りました。

「それを参考に」とは言っても実際には、現在でも地割に飛行場当時の敷地境界線がハッキリと残っており、

資料や航空写真なんか見なくても、(多分こんなだろう)という感じでササッと線が引けてしまい、

作図としては超簡単な部類に入るのですが、

資料、写真と比較しつつ実際に地図上に線を引いていくと、なんだか辻褄が合いません。

確認してみると、水路部の地図と航空写真とでは、線路に対する敷地の角度が時計回りに7.4°もズレています。

水路部は旧日本海軍内部で図誌を扱っていた部署なので、オイラにとっては、「海軍版国土地理院」のようなもの。

その水路部様発行の御地図は絶対的に正しいのだと信じて疑いませんでした。

(おかしいのはむしろ線路の方! 現在の地割の方!)

そう考えました。

軍の飛行場建設のために線路を移設した例としては、埼玉県の松山飛行場があり、

群馬県内でも、こちらの例は工場ですが、館林飛行場のすぐ近くに中島飛行機の工場建設のため、

完成からまだ1年しか経っていない線路を移設させたという例があります。

…って、コレ、館林飛行場付近の線路も含めてすべて東武鉄道なんですよね^^;

しかし、じっくり時間をかけて戦中~戦後の航空写真を何枚見比べても、

水路部の地図がおかしいか、もしくは線路を移設したり、飛行場境界線の道路を全体的に動かしたか、

そのどちらかでなければどうしても説明がつきません。

わざわざ線路を移設させた先の二例は、線路の一部が飛行場/工場にかかってしまうため、

その部分を移設して飛行場/工場を建設しました。

ところがここ館林に関しては、線路と飛行場敷地はまったくかかっておらず、

航空写真を何枚見ても線路を移設した形跡はなく、そうする必然性があったとも思えません。

更に、実際の地割がおかしいとするなら、先ず1,400mx1,400mの飛行場の地割を消し、

次いで微妙に角度を変えた1,400mx1,400m地割を新たに付け直さねばなりません。

あまりに非効率で、あり得ないことです。

そしてこの資料に描かれている基地をバイパスするために付けられたと見られる敷地北側の主要道の形が、

航空写真と比較してあからさまにヘンであることに気が付くに至りようやく、(水路部の地図がおかしい)と思い至ったのでした。

どうしてこうなるのかしらん。

戦時改描?? 海軍が陸軍の基地を作図したから??

水路部作成の地図は身内のための資料となるはずで、どうしてこんなことをするのか意味不明です。

それはともかく、以下実際にお邪魔した際の写真を並べてみます。

 

DSC_0038.jpg

飛行場北東の角部分。飛び出した形になっていますが、ここに分校の格納庫等施設がかたまっていました。

現在この周辺は、関東短期大学、関東学園大学付属高等学校になっています。

 

DSC_0040.jpg

飛行場北西の角部分。

現在でもしっかりと地割が残っています。

陸軍の境界杭が残ってないかしらん。とウロウロしたのですが、犬に吠えられるのみで何も見つけられませんでした。

 

無題7.png
2009年4月当時の写真(CKT20091 C2 33) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)  

大西飛行場当時名物だった、「滑走路を横断する踏切」。

ここに行ってみることに。

 

DSC_0034.jpg

・A地点

この道を進むとその先に踏切があったはずなのですが、なんと飛行場敷地に沿って運送会社の施設ができています。

滑走路を横断どころか、その道が完全に建物で分断されてしまいました。

こちら側に旧滑走路、そしてその奥に新滑走路があったはずなのですが、もう跡形もありません。

フェンスにぶつかったところで(本当はぶつかってないけど)右折し、格納庫があった場所に向かいました。

 

DSC_0031.jpg

格納庫があった辺り。

もうすっかり運送会社ですね。

次に、先程の踏切渡った向こう側に回り込んでみました。

 

DSC_0033.jpg

・B地点

……来るのが遅かった。遅すぎたんや。つД`)・゚・。・゚゚・*:.。

もしかしたら滑走路の一部は残っているのかもしれませんが、完全に会社敷地内になっており、フェンスで取り囲まれ、

もはや滑走路があった場所に近付くことも、視認することも(オイラが探した範囲では)できませんでした。 


      群馬県・館林(大西)飛行場     

館林(大西)飛行場 データ

設置管理者:陸軍→大西氏→㈱大洋航空
空港種別:軍用飛行場→非公共用飛行場
運用時間:大西飛行場当時:9:00~17:00(または日没まで)
所在地:群馬県館林市近藤町760
標 点:N36°13′57″E139°29′35″
標 高:65m
着陸帯:館林飛行場当時、芝張地区は950m×800mと記載あり
滑走路:600m×25m(大西飛行場当時。旧滑走路は630m位ありそうに見えるのですが。。。)
着陸帯:720mx60m
磁方位:08/26
航空管制周波数 129.9

沿革
1936年 群馬県館林市と邑楽町にまたがる農地を陸軍の飛行場として用地買収
1937年 陸軍館林飛行場完成。熊谷陸軍飛行学校館林分教場開設
1944年 陸軍航空士官学校 館林分教場として使用開始
1945年 2、3月 頻繁に爆撃を受け、士官学校本隊は満州へ移転。戦争末期に本土決戦用の特攻隊訓練基地となる
      終戦と共に12人が進駐。小蓋(こぶた)基地となる
1946年 9月 基地閉鎖。その後引揚者の入植地として開放される
1962年 跡地の一部を大西氏が買い取り飛行場を建設
1963年 館林航空KKの飛行場として発足
1964年 タテバヤシエアロと改称
1972年 借金が膨らみ、土地、経営権の一切を売却。「大西飛行場」の名前はそのまま残され、運用が続けられる
2003年 12月供用停止

*水路部作成の館林飛行場の資料の中にデータがありました。
面積 東西1,300米 南北1,300米
張芝地区ハ東西950米 南北800米
地面ノ状況
硬度ハ普通ナルモ降雨後ノ排水不良ニシテ特ニ南西隅ノ一部ハ地盤軟弱ト爲ル
格納設備 
格納庫 鐵造(80x50米)1棟、(40x50米)1棟
木造(40x30米)3棟
通信設備
館林郵便局(電信及電話取扱)東方約3粁
観測設備 陸軍象観測所アリ、航空気象ヲ観測ス
給油設備 アリ
修理設備 アリ
宿泊設備 兵舎アリ、館林町ニ旅館アリ
地方風 全年ヲ通ジテハ北北西風多シ
地方特殊ノ気象 夏季雷雨多シ
交通関係 館林駅(東武鉄道)東方約3粁
(昭和18年4月調)

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
群馬の戦争遺跡
21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ
「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 」


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大里飛行場 [├国内の空港、飛行場]

  2016年4月 訪問 


埼玉県熊谷市津田新田にある「大里飛行場」。

「熊谷フライングクラブ」の飛行場です。

前記事の吹上飛行場はここから南東約5.4kmにあります。

同じく荒川の河川敷なのですが、こちらは右岸側にあります。

 

DSC_0021.jpg

 

DSC_0015.jpg

 

DSC_0017.jpg

 

DSC_0026.jpg 


      埼玉県・大里飛行場     

大里飛行場 データ

所在地:埼玉県熊谷市津田新田
座 標:N36°06′44″E139°24′47″
標 高:25m
滑走路:305m
方 位:13/31
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
公式サイト    
ブログ内関連記事       


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー