So-net無料ブログ作成
検索選択

新島空港 [├国内の空港、飛行場]

  2016年2月 訪問 

東京都新島にある「新島空港」。

 

D20_0020.jpg

 

D20_0018.jpg

 

D20_0002.jpg

ターミナル内から階段で展望デッキに上がれます。

 

D20_0014.jpg

9時23分。

本来であればこの時間帯、9:10 着の調布からの第一便が飛来しているはずだったのですが、

この日は機材トラブルで引き返してしまったため、待ちぼうけの状態です。

 

D20_0004.jpg

展望デッキ。

ベランダみたいに狭いです。

 

D20_0005.jpg

展望デッキは上から見ると ⏌の形で、 折れ曲がった先はこんな感じ。

 

D20_0006.jpg

 

D20_0011.jpg

R/W11側

 

D20_0007.jpg

エプロン正面

 

D20_0008.jpg

R/W29側

D20_0028.jpg・A地点

R/W29端に来ました。

以下時計回りでずらずらと。

 

D20_0026.jpg

 

D20_0024.jpg

 

D20_0040.jpg

 

D20_0042.jpg

 

D20_0043.jpg

 

D20_0047.jpg・B地点

 

D20_0057.jpg

 

D20_0062.jpg・C地点

R/W11端

 

D20_0063.jpg

ということで、空港裏側は滑走路沿いに道路があり、自由に移動する事が出来ます。

 



「環境影響評価書 新島空港整備事業 昭和59年11月 東京都」の14pには、

「23 代替案の検討  空港適地については、地形上及び気象上の制限から、現在の飛行場外離着陸場がある地区に限定される。また、滑走路の方向は、航空法の制限表面に抵触しない位置及び気象的に最も有利な位置を勘案すると、図2-7に示す当初計画となる。しかし、当初計画では滑走路の西側に学校、診療所、市街地があるため、滑走路を制限表面及び地形上最大移設できる距離110m東側に移し、騒音の影響を軽減化した」

と記されていました。

上のマップで赤丸マーカーの所に学校、診療所があります。

滑走路110m移設がどの程度のものだったのか、黄色で示してみました。 


      東京都・新島空港     

   ビュー:☆☆★★★  
展望デッキ無料。高いフェンスで囲われ、カメラ穴は無し

   施設:☆☆☆☆★  
こぢんまりとしたターミナル。コーナーで軽食、明日葉等地元のお土産あり

   マニア度:☆☆★★★  
展示物等特にないが、撮影に恵まれた空港

   総合:☆☆☆★★  
村営飛行場当時の面影が残っているのがいい感じ

新島空港 データ
設置管理者:東京都知事
4レター:RJAN
空港種別:地方管理空港
運用時間:8:30-16:30
所在地:東京都大島支庁管内新島村
標 点:N34°22′10″E139°16′06″
標 高:28.6m
面 積:18ha
滑走路:800m×25m
方 位:11/29
エプロン(バース数):小型機用3
駐車場:42台
無線施設:RAG、VORTAC
航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 伊豆リモート 124.30(RAG)
 
沿革
1984年 09月 飛行場設置申請
       12月 飛行場設置許可。第3種空港に政令指定
1985年 06月 空港灯火設置許可申請
       09月 空港灯火設置許可
1987年 07月 第3種空港として供用開始(H級、滑走路800m)、航空燈火供用開始(進入角指示灯、滑走路末端識別灯)
       新中央航空不定期便(新島~調布)を1日3便運航
1993年 06月 航空灯火変更許可申請
       07月 航空灯火変更許可(進入角指示灯VASIS→PAPI)
1994年 06月 航空灯火(PAPI)供用開始
1999年 12月 飛行場施設変更(単車輪荷重2.5t→2.6t)
2000年 03月 新中央航空が新島~調布、調布~神津島にDo228型機就航
2004年 03月 飛行場施設変更(パース数3→2、タイダウンリング数29→30)

関連サイト:
国土交通省東京大阪航空局/新島空港    
Wiki/新島空港   
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド


コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

新島村営場外離着陸場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年2月 訪問 

無題9.png 1968年4月当時の写真(KT688Y C1niijima 3) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

終戦から23年。

すっかり開墾された陸軍飛行場跡地。

1956年に「新島空港開設既成同盟会」が結成され、日ペリと話し合いが持たれました。

この中で「1,200mの飛行場ができれば飛ぶ」という協定が成立し、同社技術主任が来島。

上の写真だけ見ると直線的な地割以外にここが飛行場だった面影はなく、

もうここからヒコーキが飛ぶことなど二度とないような気さえしてしまうのですが、

空港建設に向けて具体的な動きが既に始まっています。 

滑走路跡地東端にヘリポート(赤矢印)が見えます。

このヘリポートは村営場外離着陸場開設に伴い廃止されました。

ヘリポートができるまでは、夜間には自動車数台を並べ、ヘッドライトで照らすなどしたこともあったのだそうです。

 

無題0.png 1975年2月当時の写真(KT752X C2 2) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

開港から5年後の新島村営場外離着陸場。

ほぼ陸軍飛行場跡地を利用する形で開設しました。

「1,200mの飛行場ができれば飛ぶ」という日ペリとの協定がありましたから、

当初は1,200m級を目指したと思うのですが、滑走路の長さは半分の600m。

運航は日ペリではなく、中央航空のピラタス(7人乗り)。

ここに至るまで、きっと語り尽くせぬ紆余曲折があったのでしょうね~。

後に現在の新島空港ができるのですが、空港の滑走路とこの場外離着陸場の滑走路は重なっており、

エプロン、ターミナルが現在とは反対側にあります。

 

無題.png
1978年11月当時の写真(CKT782 C4 11) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

1978年のエプロン部分トリミング。

長閑な雰囲気が伝わってきますね~。

村営場外離着陸場は1971年に運航を開始したのですが、

当時はまだ運輸省による二地点間旅客輸送の運航許可が下りていなかったため、

新島観光協会のチャーター形式による不定期航路として大島に運航したのだそうです。

飛行場は新島村営、そして運航も新島観光協会と、新島が主体となって発足したため、

この規模の飛行場としては非常に立派な格納庫があるのではないかと思います。

 

 

D20_0036.jpg

陸軍飛行場跡地東端。

多分この辺りにヘリポートがあったのではないかと。

 

D20_0049.jpg

新島村営場外離着陸場時代の滑走路とエプロンを結ぶ誘導路がそのまま残っています。

ここで180°回頭すると-

 

D20_0052.jpg

こんな感じ。

ここにエプロンが広がっていたのですね。

新島村営場外離着陸場当時のエプロンは、自動車教習所を経て現在は交通公園になっているのだそうです。

 

D20_0054.jpg

交通公園南西側の角から滑走路方向。

当時はこの先に格納庫、ターミナルがあり、エプロンが広がってました。

「伊豆諸島東京移管百年史」によれば、

「開港10年近いが未だ簡易飛行場で7人乗り小型機使用。1日平均6便の発着だが、満席の日が多い」

と記されていました。


      東京都・新島村営場外離着陸場跡地     

新島村営場外離着陸場 データ

設置管理者:新島村
空港種別:場外離着陸場
所在地:東京都新島村川原
座 標:N34°22′11″E139°15′59″
標 高:31m
滑走路:600m
方 位:11/29
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1956年 「新島空港開設既成同盟会」結成
1970年 12月25日 村営場外離着陸場開設
1971年 1月 中央航空大島不定期便就航。ピラタスPC-6型機
1972年 10月 ブリテン・ノーマンBN-2型機(9席)就航
1974年 02月 新中央航空が中央航空から事業譲受

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
全国空港ウォッチングガイド
「伊豆諸島東京移管百年史」


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

陸軍新島飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年2月 訪問 

無題4.png
1947年8月当時の写真(USA M399 158) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)



東京都新島にあった「陸軍新島飛行場」。

現在の新島空港は、ほぼ陸軍飛行場の敷地を使用していることが分かります。

郷土史によりますと、

昭和18年着工、全村民挙げて建設。

飛行場建設のため36町歩の畑を接収。

昭和19年竣工。

常駐する航空機はなく、本土と硫黄島などの小笠原諸島を結ぶ小型飛行場、不時着場の位置付け。

と記されていました。

また神津島村史の中でも、昭和19年、新島の軍飛行場工事が開始され、

神津島からも応援隊数十人が約1ヶ月滑走路整地に参加したこと、

しかし整地が完了したのみで未完成のまま終戦を迎えたこと等記されていました。

 

D20_0038.jpg

・A地点。

海が見えますが、ここから先に進んでいくと-

 

D20_0030.jpg

急な下りになっていました。

陸軍飛行場滑走路東端は、断崖絶壁ギリギリまで造成されていたのですね。

 

D20_0065.jpg

・B地点

当時はこの辺りも滑走路だったはずですが、現在はすっかり宅地になっています。


      東京都・陸軍新島飛行場跡地     

陸軍新島飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:東京都新島村本村
座 標:N34°22′12″E139°16′02″
標 高:30m
滑走路:1,490m×150m
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長さ、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年 着工
1944年 完成
1945年 終戦

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
郷土史
神津島村史


コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

東京・2 [■旅行記]


A新島港→B貸自転車屋さん→C新島空港→D図書館→B貸自転車屋さん→A新島港

 

2日目

8:35 新島港着

さるびあ丸下船。

さるびあ丸はこの後、式根島→神津島に寄港して折り返し、式根島に再び寄って、11:45にまた新島港に戻ってきます。

で、この船に乗って東京に戻ります。

11:30には港に戻りたいので、それまでの3時間で空港の見学を済ませねばなりません。

ここの空港は見どころが多いので、時間にまったく余裕がありません。

早速空港に向かって歩き始めました。

一晩カーペットに横になってたのでもー腰イタイ(XДX)

お天気は良く、冷たい風が心地良い感じ。

「港からレンタサイクルまで徒歩10分」とどこかにあったような気がしたのですが、

「この辺にあるはず」と思った周辺にレンタサイクル店は発見できず、

役場の手前に来たところで既に20分経過していましたΣ(゚Д゚;)

ここは港と空港のほぼ中間地点。

空港敷地を一周して、時間があったら図書館にも寄りたかったのですが、これではとても間に合いそうにないです。

バイク屋さんを兼ねたレンタサイクル店発見。

本当は徒歩のみで済ませるつもりだったのですが、自転車を借りることに。

店内で声を掛けてみたのですが、反応がありません。

表示されていた携帯に掛けてみたところ、年配の男性が出て、

「今お客さんがあって空港に来てるから、どれでも好きな自転車持ってって~」

とのことでした(o ̄∇ ̄o)

ということで、無人の店内から1台の自転車を素早く外に運び出すと、そのまま空港方面に逃走したのでした。

オイラが島に滞在している時間帯、調布からのヒコーキが9:10~9:40までいるはずだったのですが、

ターミナル内に入ってみると、お客さんがたくさんいて、グラホさんから何か聞いています。

その中にはホンダのツナギを着たおじいさんがいました。

(さっき電話に出たのはこの人かも)と思いながら会話に耳を傾けてみると、

調布を離陸した新島第1便がトラブルで引き返してしまい、新島到着の予定が立っていない状況だそうです。

飛来する第1便に乗って調布に行くつもりだった、ターミナル内にいるお客さんたちにとっては、まさかの足止めです。

今日この後の便は既に満席のため、現在臨時便を出すことを考えているのだとか。。。

ということで、結局新島空港でヒコーキを見ることはできませんでした。

 

D20_0056.jpg

新島空港に隣接する「交通公園」。

元自動車教習所だそうです。

教習生にとって恐怖の代名詞「坂道発進」。

教習所に通ってた頃は、この坂道がまるでスキーのジャンプ台のように急峻な壁に見えたのですが、

こんなゆるゆるなんでしたっけ?

 

空港敷地を周り、まだ少し時間があったので、図書館に寄ってみることに。

詳しいことはこの後の記事で書きますが、この空港は陸軍飛行場→村営場外離着場→空港と変遷しており、

その様子が知りたかったのです。

図書館内に新島空港についての本があり、オイラが知りたいと思っていた疑問の答えが出ていました。

ということで、ミッションコンプリート。

レンタサイクル屋さんに戻りました。

店の奥から空港でお見かけしたホンダのツナギを着たあのおじいさんが姿を見せました。

「助かりました~」とお礼を述べたところ、「いやいや、ルスして稼がせて貰って悪いね!」とのことで、

「この後港に戻るの? じゃあ送ってやる!」とのことだったのですが、時間は余裕だし、島を眺めながらゆっくり行きますと

お気持ちだけ頂戴することに。

出港の30分以上前に余裕で港に戻ったのでした。

 

D20_0072.jpg

新島→式根島→神津島→式根島と回って、再び新島港に戻ってきた「さるびあ丸」。

 

D20_0078.jpg

なんか小島よしおがいるのかと思ったのですが、オイラの勘違いでした。

 

D20_0083.jpg

風が強く、白波が立つ状態だったのですが、無事接岸完了。 

よかった~。これで無事今晩東京に戻れます。

 

D20_0084.jpg

11:55 新島出港。

さらば新島。

ということで二等客室に下りたのですが、チケットに記載された指定スペースに行ってみたら、

オイラの指定区画になんかオッサンが寝てますΣ(゚Д゚;) 

ソコ、オイラの席なのに。。。オイラの席なのに。。。(つД⊂;)

このスペースは壁と荷物置きに面していて広々としていて、結構いいポジションなんです。

出港してもだれも来ないので、空席だと思ったんでしょうね。

まあココで寝たくなるオッサンの気持ちも分かるけど。。。

小心者のオイラは仕方なくオッサンの近くの空いているスペースで寝ることに。

この後船は利島、大島に寄港します。

どうなることかとハラハラしていたのですが、オッサンがむくりと起き上がり、別の場所に移ってまたぐーぐー寝てました。

な、なんてふりーだむ!(XДX)

すかさず本来の場所を確保!ε=\__〇_

東京湾に入ったところで船内放送があり、「全長50m以上の船は減速しなければならない決まりになっている」とのことで

(さるびあ丸は120m)、エンジン音が静かになりました。

東京湾に入っても携帯は圏外かアンテナ無しの状態がずっと続き、時々通話可能になります。

途中、レファレンス依頼してあった某市立図書館から、

「調査に手間取っているので、1週間後また連絡します」と留守電に入ってました。 ありがたや。

そのまま無事19時に東京竹芝桟橋に入港。

浜松町から電車を乗り継いで自宅へ向かったのでした。

 

これで無泊二日の東京弾丸旅行記はおしまいです。

お付き合いいただきまして、ありがとうございました。


コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

東京・1 [■旅行記]

2月下旬、オイラはついに一線を越え、恵比寿にある防衛研究所に行ってしまったのでした。

図書館、ネットではどうしても探せない戦前戦中の飛行場資料がここでなら見られるのです。

8:20 自宅発

最寄りの鶴ヶ島駅から東上線でまずは池袋に向かいました。

ギュウギュウ詰めとまではいきませんが、車内は結構混雑しています。

池袋に向かっている途中駅で停車した時、オイラの乗っている車両の隣のドアの辺りで、

「停止ボタン押してください!」という大声がして、ホームにあった停止ボタンが押されました。

オイラの居た場所からは混雑していて見えなかったのですが、誰か倒れてしまったようです。

すぐに数名の駅員さんが駆けつけ、車椅子が運ばれてきて、土色で生気を失った女性が運ばれていきました。

大した事ないと良いのですが。。。。

 

10時前、恵比寿駅西口着。

資料館のサイトに駅からの地図が出ており、プリントアウトしてきた(スマホ持ってない)のですが、

西口の前にあるはずのロータリーも、ドトールも銀行もありません。

…アレ??(゚Д゚;≡;゚Д゚)

でも西口で合ってるし。地図が古いのかも。

そう考えて、とにかく地図に示された方向に歩き始めたのですが、なんか違います。

地図と現実の辻褄が合いません。

たまたま店先におられた喫茶店のマスターにお聞きしたところ、まったく逆の方向だと言われました。

(そんなバカな)

と思ったのですが、騙されたつもりで一旦恵比寿駅まで戻ってみると、

さっきオイラが出たのとは反対側も「西口」でした。やだもー

よく見ると、あっちもこっちも「西口」です。うぅ、東京コワイ東京コワイ。

無事ドトールと銀行発見。

10:20 やっとのことで防衛資料館に辿り着きました。

入口にある受付で年配の職員さんに首から下げる「資料閲覧室」行きのカードを貰い、その後あっちの方角を指さして、

「なんとかかんとか~」と言われたのですが、恐らく東北方面であろうネイティブの発音がほとんど聞き取れず。

ともかくあっちの方角へ。

建物に入り、受付の方から、「荷物の持ち込みは出来ないので」。とぴしゃりと言われ、

先ずは入口にあるコインロッカー(100円。後で戻る)に荷物を押し込みました。

閲覧室内には戦史叢書等一部資料が並んでいて自由に閲覧できるのですが、

基本的には閉架で、「閲覧申込書」に記入し、出してきてもらう必要があります。

閲覧可能な資料の目録はサイトに公開してあるので、目録を事前にプリントアウトして見たい資料をマークして持参してあります。

それを見ながら、「閲覧申込書」にひたすらカキカキ。

それ程待たずに資料を出してくれるのですが、オイラは「閲覧申込書」に欲張って一気に10の資料を書いたのです。

「一度に閲覧できるのは5冊まで」とのことで、まずは5冊渡されました。

この5冊を返却すると、職員の方が「閲覧申込書」に一点一点確認しながらハンコをついてゆき、

既に準備してある次の5冊を受け取ることができます。

早速資料を開くと、これまでネットで見てきた資料に加え、

ネットや方々の図書館でどんなに探しても探しても見る事の出来なかった、見たくてたまらなかった資料が次々と。

墨やペンで直書きした原書もありました。すげえ。

コピーを取りたい資料は、「複写申請書」と「複写内訳書」に記入し、資料に専用の付箋を挟んで提出します。

資料の中に、どうしても一冊丸々欲しいものがあり、

図書館でのコピーで散々「一冊から複写可能なのは~」的なしばりを経験しているオイラは、

「あの~、コレ一冊丸々ってダメですか?」と恐るおそる尋ねてみたのですが、

「『ここからここまで』と指定してくだされば丸ごと一冊でも構いませんよ」とのことで、なんとあっさりOKが出ました。

うーむ、こういう事に関して最も厳重な場所である気もするんですが、一体どういうサジ加減なのか。。。

複写は後日専門業者が行い、2~3週間で自宅に郵送される、とのことだったのですが、オイラの場合は1週間程で届きました。

料金はかなり高額なのですが、複写の精度は非常に高く、原書を直接見てもかなりかすれていてやっと判別できる程度のものが

複写したものでも劣化はほとんど感じずに判別可能でした。

 

ちょっと話がそれますがオイラがここに来た目的は2つあります。

1つはネット、図書館では閲覧できない資料の複写をゲットすること。

そして2つ目なのですが、アジ歴で検索すると、米軍が作成した日本の飛行場についての資料が閲覧できます。

日本国内の本当にマイナーな飛行場の沿革、概要についての英文が並び、

最後に飛行場区画がクッキリと描かれた地図が付いています(例えばこんな)。

オイラがココに来た目的の2つ目は、この米軍作成の資料に出てくる飛行場の位置情報、

これは元々日本で作成されたものなのか、それとも米軍が後から書き加えたものなのか確認したい。

というものでした。

この米軍資料は細かいアルファベットと数字でほぼギッシリと埋め尽くされており、

真面目に見ていると、数分で目まい、倦怠感、動悸、息切れを覚えるのですが、

表題には大きく"TRANSLATION"と記してあり、

添付資料の飛行場写真のキャプションは日本語だし、地図には日本語が並んでいます。

オイラは以前からこの米軍作成の資料が、日本の作成した地図、資料を翻訳したものに思えてなりませんでした。

飛行場の位置情報が最初から日本で作成されたものならこれは、「ドコに飛行場があったのか」探しているオイラにとって、

第一級の貴重な資料になります。

逆に米軍が後から書き加えたものである場合、「ここ本当に飛行場なの? 米軍の勘違いじゃないの?」

というレベルから疑ってかかる必要があります。

ということで、オイラは自宅でそういう地図の一つをプリントアウトして持って来ていたのでした。

忙しそうにしている職員さんのタイミングを見計らって、この地図を見せて聞いてみよう。と考えていたのですが、

たまたまオイラが閲覧した書籍の1つの中に、(英語が含まれないことを除けば)まったく同じ地図が出ていました。

そこには飛行場の沿革、概要、それに地図にはオイラがプリントアウトした米軍資料とまったく同じく飛行場が描かれていました。

昭和14年発行、「水路部(旧日本海軍の一組織)」が作成した書籍でした。

そこには、オイラが自宅のネットで散々見てきた米軍作成資料の飛行場情報が次々と!

「米軍は水路部作成の書籍を入手し、そのまま翻訳していた」。ということがこれでハッキリしました。

現在アジ歴では、(オイラがカウントした限りでは)国内の105の個々の飛行場、不時着場について、

詳細な資料の英訳を閲覧することができます。

その多くがオイラにとっては未知だったり場所がハッキリしない箇所で、こうした閲覧可能な資料が

「本家日本作成」ということが確認できたたため、一気に解明が進んだのでした。

ただし、当時国内にあった全ての飛行場を包含するものではなく、

当館所蔵資料ではあるものの、ネット上で閲覧不可のものはまだまだあります。

ということで、閉館時間の16:30一杯まで、途中玄関前の小さなテーブルでカロリーメイト的なものを食べただけで、

ひたすら用紙に書き込み、資料に目を走らせ…と作業を続けたのでした。

 

資料の中には広げると1mを超える大きな地図等もあり、資料閲覧室にはそれらを見るのに都合の良い大きな机が並んでおり、

オイラがお邪魔した日は常に5人位が資料をいろいろ見ていました。

受付にはひっきりなしに問い合わせの電話が掛かり、直接質問に訪れる方も多く、

「〇〇隊の□□中佐」とか「△△基地」とかそういう言葉が飛び交ってました。

身内の軍人が戦時中どこでどんなことをしていたのか。といった問い合わせが多かったような気がします。

「自宅を整理したら、某大将関係の掛け軸が出て来たので寄贈したい」という方もおられ、

「それなら靖国神社の方が~」的なやりとりもありました。

敷地内に(一般人が利用できる)食堂等はなく、ちゃんと食事がしたい人は途中抜けてました。

「この資料が見たい」と事前にオイラがマークしておいた資料は約50だったのですが、

20しか閲覧と複写申込みを済ませることができませんでした。

本当は今日一回で終わらせるつもりだったんだけど半分も見れなかった…(XДX)

要領が分からずに随分と手間取ってしまったから、次で全部見れるかしらん。

ということで、閉館時間となり守衛さんにビシッと敬礼されて研究所を後にしたのでした。

 

で、これで埼玉の自宅に戻ったのではなく、せっかく東京さ出て来たので、

この後は伊豆諸島で唯一未見学になっていた新島空港に行くため、竹芝桟橋から船に乗りますのだ。

ただし出港は22時。

まだ5時間半あるため、モノレールで羽田空港1へ。

去年の4月にTさんと来て以来10ヶ月ぶりの羽田。

昼はカロリーメイト的なものしか食べてないから腹ペコだ~~~~(⊃゜Д゜)⊃

1タミの展望デッキ出たところにテラス席の庶民的な店があるから、そこでラーメンでも食べて温まりながらヒコーキ眺めるか。

と思っていたのですが、行ってみたらなんかオシャレな店に変っていて、しかも閉まってましたΣ(゚Д゚;)ガーン

ということで、空弁やさんでおにぎり買って、再びデッキに上がって食べたのでした。うめー!

しばらくココでヒコーキ分を補給しようと思ったのですが、風が冷たくて長く居られませんでした。

羽田に来たら恒例になっているブックスフジで本買って、浜松町に戻り、竹芝桟橋へ。

港に近付くと、ターミナルから駅に向かう一団とすれ違いました。

丁度新島からの船が入港した時間です。

24時間後はオイラもこの集団にいるのか。

ターミナルに着くと、出港までまだ3時間近くあります。

乗船手続をすると、帰りのチケットも貰いました。

往復共に同じ船。指定座席(雑魚寝だけど)も同じでした。

 

DSCN0010.jpg

 

DSCN0011.jpg

御蔵島は相変わらずの条件付き。

乗船時間まで読書と仮眠で過ごしたのでした。

21:40 さるびあ丸に乗船

22:00 出港

指定区画で横になり、早々に寝たのでした。

 

(続きます)


コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神奈川県・県立商工実習学校 [├場所]

  2016年1月 訪問 

無題.png
1967年測量(9-MD-14-2) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題1.png
1947年9月当時の写真(USA M449 8) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、

神奈川縣立商工實習學校(当時)に報國團グライダー部があり、校庭を滑空場として使用していたとありました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

「神奈川県立商工実習学校」は1920年に創立し、1948年に「神奈川県立商工高等学校」に改称しています。

1番目の地図は改称後の1967年のものなので、見難いですが、「県立商工高等学校」と記されています。

その後1974年に移転し、現在は公共施設、住宅地になっています。

グーグルマップの作図では、1947年の航空写真の校庭部分を黄色で示しています。

建物にぐるりと囲まれていて大分狭く感じるのですが、滑空訓練をしていた当時はもう少し広かったのかもしれません。

 

D20_0057.jpg

・A地点


      神奈川県・県立商工実習学校     

県立商工実習学校 データ

空港種別:滑空訓練場
所在地:神奈川県横浜市南区大岡1丁目
座 標:N35°25′26″E139°36′19″
標 高:7m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1940年10月現在 校庭にて滑空訓練実施

関連サイト:
ブログ内関連記事       


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神奈川県・船越の防空監視哨跡 [├場所]

  2016年1月 訪問 

神奈川県横須賀市船越町1丁目にある「船越の防空監視哨跡」。

小高い山の上にあります。

場所情報は、ブログ:kanレポート「船越にある防空監視哨」 から頂きました。kanさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

景徳寺に尋ねてみたところ、この「監視哨とされているもの」はこの寺の敷地にあり、

見学希望者には「ここですよ」と案内して差し上げたいところなのですが、

手入れをしておらず、真下が崖になっていて非常に危険なため、

テレビの取材申し込み等もあるのですが、役所以外の立ち入りは少し前から全てお断りしているのだそうです。

ということで、残念ながら防空監視哨は現在見る事ができません。

代りに「三世代並ぶトンネル」と、「防空壕入口」があると教えて頂きました。

 

D20_0040a.jpg

トンネルが二つ並んでますね。

新船越トンネル(外回り):昭和23年竣工

船越トンネル(内回り):大正12年竣工

そして死角になってますが、船越トンネルの右隣に旧船越トンネル:明治26年竣工 もあります。

(反対車線から撮ればヨカッタ。。。)

文字通り「明治・大正・昭和」。

こうして三代のトンネルが仲よく並んで現存しているのは非常に珍しいことなんだそうです。

 

D20_0043.jpg

船越トンネルの入り口上部にあるプレート。

旧字体、右横書きなところが大正ですね~。

ところでこのトンネルが並んで見える場所でカメラを右に振ると-

 

D20_0041.jpg

こんな感じ。

山肌に空いた穴にすのこ状のものでフタをしています。

これが「防空壕入口」かしらん。

ちょっと調べてみたら、この周辺は防空壕だらけらしいです。

ではトンネルに近寄ってみましょう。

 

D20_0042.jpg

旧船越トンネル入り口。

明治26年(1893年)に掘られた素掘りの小さな旧船越トンネル。当時は「田浦トンネル」といったのだそうです。

これができたことで、山越えや船で迂回する必要がなくなり、大変楽になったのだそうです。

第一次大戦後、海軍関係の人や車の往来が激しくなり、軍事上の観点からも必要に迫られ、

大正12年(1923年)にお隣の船越トンネルが開通したのだそうです。

 

D20_0035.jpg

入口脇に碑がありました。

大正十二年大(?)震災 殃死者群霊宝塔の碑。 

「大正十三年九月一日建立之  発起 帝国在郷軍人会田浦町分会田浦班」

と彫られていました。

大正12年の関東大震災の際、トンネル内で落盤事故が発生し、死者が出たため建立されたものだそうです。

 

D20_0034.jpg

中はこんな。

ということで、当記事は残念ながら防空監視哨ではなく、トンネルレポになってしまいました。

どうしても防空監視哨が見たいという方は、kanさんのブログ でなら見れるみたいです(ステマ)。


      神奈川県・船越の防空監視哨跡     

船越の防空監視哨跡 データ

所在地:神奈川県横須賀市船越町1丁目
座 標:N35°17′51″E139°37′49″
*座標はグーグルアースにて算出

関連サイト:
kanレポート:「船越にある防空監視哨」    
ブログ内関連記事       


コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神奈川県・陸軍相模(中津)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

*当飛行場には2010年5月にお邪魔したのですが、今回新たに見学してきた遺構のご紹介です。

遺構の場所情報は、ブログ:kanレポート「相模陸軍飛行場」 から頂きました。kanさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

2010年5月にお邪魔した際の記事は全面差し替え致しました    

飛行場全体図。

1947年の写真(下記リンク参照)でこんな風に見えるのでその通りに線を引いてみました。

ご覧の通りで行場敷地南西側が膨らんでいますが、ここに格納庫はじめ、種々の基地機能が集中していました。

そしてこの部分に当時の遺構が多数現存しています。

 

D20_0028.jpg

・A地点にある門柱。これは移設したものだそうです。

D20_0032.jpg

*以下私有地にあるものは全て撮影許可を求め、快諾頂きました。どうもありがとうございましたm(_ _)m   

D20_0027.jpg

・B地点にある門柱

D20_0026.jpg

D20_0011.jpg

・C地点。通信室なのだそうです。

D20_0008.jpg

D20_0009.jpg


D20_0006.jpg

・D地点。中津工業団地第2公園内にあるこんもりとした物体。

これも格納庫跡だと言われています。

D20_0002.jpg

同じく・D地点にある碑。

D20_0003.jpg

「開墾記念碑」(全文) 中津村は古くから専ら養蚕を営み此の耕地の大半は桑林帯であったが支那事変が擴大し昭和十五年二月突如陸軍省は飛行場設置の為約三百町歩を買収した 農民は晴天の霹靂に呆然自失し職を失い業を轉ずるに到るも国家の危急に際し犠牲を忍び涙を呑んで耕地を提供したのである 昭和二十年八月終戦と同時に施設は解体せられ全用地の管理を中津村農業會に委託せられたが前年来未曾有の凶作が連続し極度の食糧飢餓となり農民すら食を草根に求むる惨状を呈した為農業會は国内混乱のさ中に在て上司の許可を待たず技術官を聘して測量を進め区画を整理し無耕地農民を優先とし労力を参酌し未復員者を考慮して配分し開墾せしめたのである 農家は直ちに実施を挙って鍬を揮い田匙を踏み堅土を起こし食を割いて種子とし乏しき肥料を施して作付したのであるが其悲壮なる努力は筆舌に絶し辛くも若干の収穫を得て命の糧としたのである かくして此の耕地は農民の手に復帰し本村の命脈とし幾多の生存の危惧を脱し茲に十年の星霜を閲し今や整然たる区画と豊穣の作況を現実に展望し往時を回想し専た感慨無量なり よって概況を誌し後世への記念とする 昭和三十一 年八月 中津村農業委員會 中津村農業共同組合 (ものすごく読み取りにくかったので誤字脱字あると思います。ご了承くださいませ)

 

D20_0015.jpg

・E地点にある排水路橋

D20_0017.jpg

飛行場から中津川へ廃水を流すためのものだそうです。

D20_0020.jpg

D20_0021.jpg

・F地点。ここから排水路を見下ろすことが出来ます。コッチ側

D20_0022.jpg

アッチ側

D20_0013.jpg

・G地点。格納庫基礎

 

ここから少し離れた所に「神奈川県立あいかわ公園」があり、公園内に「愛川町郷土資料館」があります。

資料館で当飛行場についてかなり詳しく扱われていました。

一面桑畑だったところが突然買収され、飛行場となりました。

農地を失った人々の不満をなだめる為に飛行場勤務の軍属募集が行われたのだそうです。

戦後再び開墾。更に現在では工業団地となりました。

時代と共にガラリと様子を変え、今に至るのですね。

 

ブログ内関連記事  


コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神奈川県(1月) [■旅行記]

Ⓑ自宅→Ⓑ陸軍相模(中津)飛行場跡地→Ⓒ愛川町郷土資料館→Ⓓ船越防空監視哨跡地→Ⓔ磯子町の市電埋立地→Ⓕ県立商工実習学校跡地→Ⓖ玉井飛行場跡地→Ⓐ片岡飛行場跡地→Ⓑ自宅

 

1月下旬、日帰り神奈川県を周って来たのでした。

5:25 自宅発

5:35 給油

10:00 相模飛行場

ここは遺構の位置がわかったので5年半ぶりに再訪問しました。

遺構の幾つかは会社、個人宅の私有地内にあり、許可を得て撮影させて頂きました。

飛行場についての展示があるという地元の郷土資料館にもお邪魔しました。

途中、鶴見区役所に電話。

午後に鶴見の3飛行場に行く予定だったのですが、そのうちの二か所について位置がよくつかめていませんでした。

区史の中に「飛行場は某会社に隣接していた」とあったのですが、この会社の場所が絞り込めなかったのです。

区役所の方にお尋ねしてみても、この会社の場所は不明で、

「調べてこちらから連絡しますよ」と言って頂いたので、連絡を待つことに。

12:00 ローソンで昼食のオニギリ

13:10 横須賀の船越防空監視哨跡地

合法的に監視哨に接近することが出来ず、最も近いお寺を訪ねると、監視哨は当寺の敷地内だが、

崖の上で手入れをしておらず非常に危険なため、テレビの取材等も一切お断りさせてもらっているとのことでした。残念。

せっかく横須賀まで来たのだからと、周辺のお寺巡りマップと運勢暦を頂きました^^; 

13:30 Fさんから電話あり

こうやってほっつき歩いてる時に限って相変わらずFさんからすごい高確率で電話があります。

どっかで見てるのかしらん。

D20_0046.jpg15:00 磯子町の市電埋立地

高い建物が多くて、見通せるポイントを探し回りましたが、こんな画ばかり。流石大都市横浜。

15:30 県立商工実習学校跡地

D20_0063.jpg 16:20  玉井飛行場跡地

鶴見の三飛行場のうちの一つに来ました。

ここは場所がハッキリしているのですが、工事中で交通量があり、すぐ近くに車を停め難く、日没も迫っていたため、

車が途切れる瞬間を狙ってすかさず駐車して写真を撮ったのですが、自宅に戻ってよく見たら、微妙に位置を外してました。

やっぱりこんな撮り方じゃダメですた。。。_| ̄|○ il||li

16:55  片岡飛行場跡地と思われる公園の角地から撮影。

もう日没で時間切れ。

自宅に戻ることに。

結局この日区役所から連絡はありませんでした。

このままもう連絡はないのかも。(;´Д⊂)

 

と思っていたのですが、後日連絡がありました。

区役所に連絡をした際、区史に出てくる某会社のところに飛行場があると記されており、

その飛行場の場所が知りたいのだとお伝えしてありました。

結局役所でもその会社の場所は分からず仕舞いだったのですが、地元の歴史の会に問い合わせまでして下さっており、

会の機関誌で飛行場についての特集記事があるのでそれを送って頂けるという話に。

ありがたいことです。

20:55 給油

21:00 自宅着

 

走行距離:257.2km

燃費:17.18km/ℓ


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中国・6 [■旅行記]

Ⓐ養老SA→Ⓑ上郷SA→Ⓒ静岡SA→Ⓓ自宅

 

4:00 起床

4:30 養老SA出発

SA出たところで、いきなり4台の追突事故現場に遭遇。

メチャメチャになってました。

5:25 上郷SA

 

DSCN0162.jpg

7:00 静岡SAにてモーニングセット。トロロごはんとうどん500円。うま~

ということで、自宅に戻ったのでした。

 

長々とお付き合い、ありがとうございましたm(_ _)m 

(もう続かない)


コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー