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とり日記・呑んだ日 [■ブログ]

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すっかり寒くなってきた週末、地元の呑み仲間と久々にしゃぶしゃぶし放題のお店で呑んだのでした。

以下ずらずらと。

 

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お手頃価格の食べ放題だったので、実はあまり期待してませんでした。

ダメダメだったら早々に撤収の構えだったのですが、お肉もサイドメニューも美味しかったのでした。

 

12月は取り敢えず 毎週 月・火・木・金に更新します。


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三保真崎水上飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

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静岡市清水区三保半島の突端にあった「三保真崎水上飛行場」。

これは三保に飛行場を造り、魚群探査事業を始めた根岸氏が追放されてしまった後の話です。

根岸氏が魚探事業を行ったのは、昭和2年~4年まで。

水産試験場広報誌「碧水」(38号 昭和61年12月)5pによれば、

根岸氏の後を継いで魚探に使用されたヒコーキは、ハンザ式単葉水上機で、

これは日本飛行学校所有、昭和5年6月10日~7月28日まで53回の飛行を実施。と記されています。

続けて、 昭和5年~13年まで海防義会より貸与された義勇8号、義勇9号

(中島式三座水上機 複葉、乗員3名、300馬力、巡航速度:130km/h、航続5時間)を使用したとあります。

戦史叢書95の付表には、「十五式水偵」とあり、発動機はヒスパノスイザ300馬力、2座、

全速93節(172km/h)、1葉半双浮舟、重巡の艦載射出用 とありました。

「碧水」では三座、戦史叢書ではニ座となっているのが気になったのですが、Wikiには、

「このほか、特殊な派生型として民間の魚群探検用機として三座化が行われた中島式漁業用水上機があり、第八義勇号と第九義勇号の2機が製造された。」

と記されていました。

魚探専用のスペシャルモデルだったのですね。

主に使用された義勇号は三人乗りで、操縦士、機関士、魚群を発見する魚見役(水試職員)が乗り込みました。

昭和6年から無線が搭載されたので、機関士が通信士も兼ねました。

無線装備の船がいち早く大漁したという記録もあります。

飛行範囲は、当初は駿河湾内に限られていたのですが、次第に湾内では魚群発見が難しくなり、

昭和9年頃から伊豆七島付近に飛行するようになったのだそうです。

 

根岸氏が魚探に使用していたのは陸上機。

根岸氏の後を継いで使用されたのは水上機ですから、滑走路は不要で、水上機の飛行場が新たに必要となります。

どこを使用したのかについては、静岡県立中央図書館だより 平成19年1.2月号の中で、

「三保真崎を基地にして探見飛行は継続されます」と記されています。

「三保真崎」とは、三保半島の北の突端の辺りのことですから、

魚探のための飛行場は、同じ三保半島の東海岸から北に移動したことになります。

真崎のドコを水上機の飛行場にしていたかについては、米軍作成の地図に格納庫も含めて位置が記されていました。

その地図に示されている場所を描いたのが上図です。

 

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・A地点

水上飛行場があった辺り。

アジ歴の米軍作成の地図によれば、この砂浜の前面の海が「飛行機離着場」として設定されていました。



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・B地点の格納庫があった辺りは個人宅敷地になっているのですが、もう少し陸側は東海大学海洋科学博物館になっていました。

 

魚探飛行用水上機の運用はこの場所で行われたので恐らく間違いないとして、

根岸氏から魚探事業を引き継いだ東京航空輸送の相羽氏は、昭和6年4月1日に東京から清水に定期航空便を就航させました。

この東京便に使用したのは、愛知時計電機のAB-1水上機でした。

で、この東京便は清水のドコを飛行場にしたかについてですが、

ネットでいろいろ検索すると、「清水港」と出てきます。

この清水港、流石「国際拠点港湾」に指定されているだけあって非常に大きくて、

港の一体ドコを定期便の飛行場にしていたのか見当もつかないのですが、

昭和6年4月1日の東京便初就航に先立って、3月29日に逓信大臣の試乗があり、

大臣とその息女、秘書官、エアガールがAB-1で清水に飛来したことが複数のサイトで確認できます。

そして特に「三保真崎水上飛行場に到着した」とするサイトもあります。

既に昭和5年からここで魚探飛行の実績がありますし、格納庫もありますし、

東京航空にとって、ここ三保真崎飛行場は本拠地なので、着水地点として当然と言えば当然かもしれませんが、

厳密に「清水港」はここの対岸部分で、お客さんの交通の便を考えると、

ここは半島の突端ですから、市街地から随分回り込まなければならず、不便です。

 

既に飛行場として施設の整っている運用側にとっての利便性をとるか、

それとも利用客の利便性を優先して新たに港のどこかに新たな飛行場を設けたのか、判断がつかない状態だったのですが、

この記事をアップする前に地元guchiさんから非常にタイムリーな情報を頂きましたm(_ _)m

テレビ番組で、「日本初のCA飛来」のテーマで三保水上飛行場跡地からライブ放送があったのだそうです。

番組中クイズで「当時はエアーガール」と呼ばれていた。とのことですから、これはまさに渦中の東京便の飛行場。

番組の中で「三保水上飛行場跡地」として登場していたのは、三保真崎でした。

ということで、根岸氏の後を継いだ相羽氏は、ここ三保真崎の水上機飛行場を、

魚探にも、そして東京便にも使用していたのではないかと思われます。

 

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清水港と三保真崎飛行場(A)の位置関係。

清水港は南北に非常に大きいですね。

 

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・B地点

guchiさんから船上からのお写真を送って頂きました。

三保真崎に着水した水上機からは、きっとこの景色をみていたはず。

 

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・C地点

一応真崎飛行場の対岸側から撮ってみました。

 

三保真崎水上飛行場跡地 map   


      静岡県・三保真崎水上飛行場跡地     

三保真崎水上飛行場跡地 データ

空港種別:水上機用飛行場
所在地:静岡県静岡市清水区三保
座 標:N35°01′06″E138°31′00″
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1930年6月 東京航空、水上機による魚群探見飛行開始
1931年4月 東京航空、東京都の定期便開始

関連サイト:
アジ歴(三保の地図)(22コマ)再生おじさんから情報頂きましたm(_ _)m
国土地理院 1948年9月当時の写真(USA R1807 2) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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清水海軍航空隊(と水上機基地)跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

この記事は、2011年2月にアップした「清水海軍航空隊跡地」 の追加記事です。

 

静岡県の「清水海軍航空隊」についてWikiの中では、

「教育訓練部隊のため、航空機の配属はない」と記されています。

実際、座学のみの基地もあり、オイラも長いこと当基地には滑走路もヒコーキも無かったのだと考え、

記事にもそのように書いていました。

で、今回5年ぶりに当地に行き、地元の図書館にお邪魔して、当基地関連の資料を調べたのですが、

中村英雄著:「清水三保青春の雄叫び-清水海軍航空隊史」という本の3pには、

清水航空隊が開隊し、当基地への配属が始まった頃の様子が記されています。

その中に、「飛行機のない航空隊にはビックリした。」という一文があります。

Wiki/清水海軍航空隊→「航空機の配属はない」
「清水三保青春の雄叫び-清水海軍航空隊史」→「飛行機のない航空隊」

やっぱりここにヒコーキは無かったのだと、どちらも同じ意味に見えます。

ところでこの「清水三保青春の雄叫び-清水海軍航空隊史」という本は、

実際に当航空基地におられた方でないと書けない非常に具体的で生々しい内容が記されているのですが、

「飛行機のない航空隊」と記された同じページでは続けて、

開隊から1か月後の10月3日に、滑空訓練が始まったことが記されているのですΣ(゚Д゚;)

滑空機はゴム索を引っ張って飛ばしたこと、続く4pには、

「最初から上手く滑空する者、下手な者、様々だが回数を重ねる事で上手くなる」とあり、また

「格納庫に滑空機が2機格納されていた」とも記されていますから、これは正真正銘本物のグライダーのようです。

オイラは2011年2月に当基地の記事をアップして以来、何年もの間、「当基地には飛行場も飛行機もない」と書いていたのですが、

本当は滑空場とグライダーがあったのでしたm(_ _)m 

どこでどう間違ってしまったのか、ネットで検索すると現在でも、旧日本軍に在籍しておられた方のサイトをはじめ、

非常に格調高いサイトでも、「清水海軍航空隊には滑走路も航空機もない」としている記述をいくつも見かけます。

どこかで間違いが載り、孫引きが広がってしまった典型ですね(オイラが言うのもアレなんですけど)。

 

話を戻します。

ともかく「清水三保青春の雄叫び-清水海軍航空隊史」の中では、滑空訓練のことをが記されているのです。

「飛行機のない航空隊」と書きつつ、すぐに滑空訓練のことを記すというのは、なんかおかしくありませんか?

一見すると、なんだか矛盾しているように見えます。

開隊当初は飛行機はなかったけど、それから1か月後の滑空訓練開始までにグライダーが配備されたのかもしれない。

という解釈も出来るのですが、この件に関してはこれ以上資料が見当たらないので、

以下別の解釈が可能な「航空機」と「飛行機」の定義についてのウンチク話を。

 

「航空機」と「飛行機」、厳密には意味が異なっており、「航空機」の方が意味が非常に広くて、

宇宙船とミサイル以外は大抵「航空機」に含まれます(もちろん飛行機もグライダーも)。

宇宙船とミサイル以外の空を飛ぶもの全般が「航空機」で先ず大きくくくられます。

そしてこの「航空機」が、空気より軽い「軽航空機(気球、飛行船)」と、

空気より重い「重航空機(翼で揚力を発生させるもの)」に二分割されます。

二分割された一方である「重航空機」は、さらにエンジンなし(グライダー)か、エンジンありに分割されます。

そしてエンジンありの方は更に「固定翼機(飛行機)」、「回転翼機(ヘリコプター)」、「その他(羽ばたき機等)」の3つに分類されます。

つまり「飛行機」とは、厳密には「エンジンありの固定翼機」のことを指しており、

「グライダー」はエンジンなしですから、分類上飛行機とは全くの別物で、「グライダー≠飛行機」なのです。

ですから、「飛行機のない航空隊で滑空訓練をやった」というのは、

こうして航空機の分類法を頭に入れておくなら、

「(エンジンありの)飛行機はないけど、グライダーで訓練やった」と解釈出来ます。これなら矛盾してません。

ややこしいですけど。

実際にどちらの解釈が正しいのか、それ以外の解釈があるのかはともかく、当基地には間違いなくグライダーがありましたから、

書籍の「飛行機のない航空隊」という表現は正しく、

Wikiの「航空機の配属はない」という表現は正確ではない。ということになります(グライダーは航空機に含まれるので)。

実はここまでのややこしい説明は、航空機の構造上の分類で、航空法ではまたちょっと分類が異なるのですが、

航空法上の分類に照らしてもこの話の趣旨(滑空機≠飛行機)は変わりません。

これは清水空の記事ですから、航空機の分類についてのウンチク話はこの程度にして基地に話を戻したいと思います。

 

資料には当基地での様子を様々記しており、その中にこんなものがありました。

「清水空から補充要員として空母天城に転出者がいたが、艦隊に転勤してビックリ。乗員は、赤城、蒼龍、翔鶴の歴戦のつわものばかり。清水空では班の次席3席が最下級兵になった」

「下士官練習生の募集があったが、天国清水空よりは応募者なし」

「清水空から木更津空に転勤、艦爆流星の整備をしたが、清水空で怠けていたのでサッパリだった」

こんなのんびりした一面もあったのですね~ (o ̄∇ ̄o)

かと思えば別の資料では、「連日の激しい訓練に、美しい砂浜は汗を吸った」とか、

「毎土曜日の棒倒しは、戦闘ラッパを合図に乱闘乱戦が始まる。時に死亡者を出す程激しいもので、軍医立会いの下行われた」。

「夜尿症の練習生の毛布を黙々と処理する上官の姿に深い感銘を受けた」という記述もありました。



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上図は、「清水海軍航空隊(予科練)について」 の中の「33分隊大岡氏の記憶による清水空略図」と、「清水三保青春の雄叫び」57p「清水海軍航空隊略図」を参考に作りました。

A地点:滑空場 B地点:格納庫 C地点:水上機基地格納庫 D地点:震洋艇格納庫

 

C:の「水上機基地/格納庫」についてはまったく知らず、ビックリだったのですが、

参考にさせて頂いた二冊の略図は、いずれもこの部分を清水空の略図の範囲に収めており、「水上機基地」、「水上機格納庫」

として明記しています。

検索してみたのですが、清水空以外の別隊がここに水上機基地を開設したという記録も見当たらないため、

今のところ、「清水海軍航空隊の水上機基地」としておきます。

情報お待ちしておりますm(_ _)m 

D:の「震洋艇格納庫」についてですが、これもどちらの略図にも三つの印が載っています。

現在は埋め立てが進んで海岸線が変わっているのですが、当時のD地点は海岸にとても近いです。

 

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A地点。

滑空場があった辺り。すぐ東隣に「三保飛行場」があります。 

 

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B地点。

格納庫があったと思われる辺り。

実は参考にさせて頂いた二つの略図は、それぞれ詳しい部分とそうでない部分があり、互いに補完し合っている感じです。

格納庫の位置については、両者でちょっと違っていました。

 

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C地点。

ちょうど水上機格納庫のあったあたりに建物があります。

 

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同じくC地点のすぐ近くにある震洋艇掩体。

開口部が海の方向を向いています。 

清水空の予科練生が建設したのだそうです。

 

2017/3/17追記:防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」の中で、

当飛行場についての非常に詳細な記述がありましたので、一部引用させて頂きます。


第3 三保根岸飛行場(昭和17年10月調)
管理者 三保根岸飛行場長根岸錦蔵。
位置 静岡県清水市大字三保
(吹合岬付近海岸、35°0′5N,138°32′0E)
種別 地方公認陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面約2.5米。
広さ及形状
 飛行場として使用を許可せられある地域は海岸に沿う長さ1,000米、
幅120-200米の湾曲せる砂浜なり。着陸地域は概ね図示の清水灯台(航海用)を中心とし、長さ北西-南東400米及北東-南西420米、幅各約100米の楕圓形地区を最適とす(付図参照)。
地表の土質
 細砂。
地面の状況
 着陸地域及付近一帯の海岸は概ね平坦なるも波打際付近は5/100の傾斜を成す。地表は細粒の砂浜にして西側寄りに雑草等疎性す。地表面は柔軟なるも5,6寸以下は極めて堅硬なり。排水良好なり、降雨後は細砂引締り硬度を増し好結果なりと言う。
場内の障害物
 格納庫の北東方海岸に地方人の漁船を引揚ぐることあるも発見次第他に移さしむ。
適当なる離着陸方向
 恒風の関係上午前は南西、午後は北西を可とす。
離着陸上注意すべき点
 付近一帯は名勝地なるを以て四季遊覧者絶えず従つて着陸の際は充分なる地上偵察の要あり。地表柔軟なれば着陸は特に速度を減じ巧妙に定着するの要あり。

其の他
本場は一等飛行士根岸錦蔵の経営に係り現在飛行機2機を有し専ら中央気象台航空気象観測所業務を委託せられ飛行機に依る航空気象観測に従事中なり。

清水海軍航空隊が開隊したのは、昭和14年9月。

上述の水路部資料:三保根岸飛行場は、昭和17年10月調べ。

開隊から3年余が経過していましたが、

海軍としては、「当飛行場は根岸錦蔵氏所有である」とキチンと認識していたんですね。

清水海軍航空隊 map   


      静岡県・清水海軍航空隊跡地     


沿革
1919年 4月17日 清水市日出町に横須賀海軍運輸部清水出張所を開設
       5月1日 清水市三保に横須賀施設部清水事務所を開設し、清水海軍航空隊の建設開始
       8月1日 開隊準備のため、各地の航空基地、練習航空隊より入隊始まる
       9月1日 清水海軍航空隊開隊
        10月3日 滑空訓練開始
1944年 11月5日 B29初飛来。防空壕戦備作業、三保灯台での見張り始まる
       12月7日 東南海大地震。訓練中の滑空機が津波に流され、引き揚げ作業
       静岡にB29による初空襲。清水港から高射砲を撃つが、射程が短く、B29はゆうゆうと飛び去る
       13日 清水高等商船学校に零戦が不時着し、救援隊派遣
       27日 清水港、三保具島に爆弾投下される
1945年 1月27日 清水空襲
       2月15日 清水空襲
       3月4日 清水空襲。下宿で焼け出され、浴衣で帰隊する者あり
       5日 3,4月中予科練教務一時中止
       6日 清水空襲
       11日 兵舎迷彩作業。黒ペンキを塗る
       13日 4月28日まで、本土決戦のため戦備作業実施。特攻基地作業、横穴掘り
       15日 大日本航空旅客機光号、灯台前の海岸に着陸
      3月下旬、大井特攻飛行分隊の夜間攻撃訓練(白菊)始まる
       清水港の在泊船舶に対する攻撃訓練に於いて、久能山に激突や折戸湾に不時着の大井空の記事あるも、
       清水空には報告なし。大井空清水救難隊が常駐していた
      4月1日 相模湾、駿河湾に敵上陸に備え、小田原で共同作戦会議があり、清水空から少尉出席
       3日 甲飛16期、840名入隊式
       4日 静岡、清水空襲(港町、元追分、村松)
       7日 静岡空襲
       12日 静岡の三菱発動機、B29に爆弾投下される
       24日 静岡の住友製作所、空襲される
       27日 第一特攻戦隊、15突撃隊(沼津江ノ浦)隊長来隊。震洋艇配備
      5月16日 清水空襲
       19日 静岡、清水空襲(大曲、三保沖、久能沖)
       24日 静岡空襲
       29日 陸戦隊編成
      6月1日 甲16期、戦備作業のため33,34分隊熱海十国峠へ
       3日 清水海軍航空隊解散。名古屋空、香取空、郡山空、熱海、木更津空に転出
       10日 三保工場地帯爆撃される(日軽、日本鋼管)
       19日 B29 124機による静岡大空襲。市内全域に焼夷弾。焼失家屋30,045戸、死者1,652人、重軽傷者6,654人
      7月3日 清水、日軽空襲
       7日 B29 133機による静岡大空襲。焼失家屋8,013戸、死者151人、重軽傷者276人
       31日 駿河湾内に侵入した敵潜水艦(3~6隻)により、清水艦砲射撃受ける(相生、松原)
       焼失家屋5戸、死者44人、重軽傷者100人
      8月1日 清水空襲(宮代、日出町)
        2日 清水空襲(三保、具島)
        15日 終戦
        清水空跡地(土地16万5,000坪、建物2万坪)を農地、三保園ホテル、東海大学に払い下げ解散する
1946年 5月 東海大学設立。清水空跡地は、東海大学工学部になる
1948年 7月 三保園ホテル再開
1950年 4月 東海大学泰一高等学校設立(清水空跡地)
1958年 4月 東海大学、東京に移転。同大海洋学部残る(旧清水高等商船学校跡)。
1988年 2月 清水海軍航空隊跡地に航空隊記念碑建立を企画る。
       甲14,15,16期定員分隊に建立を呼び掛ける
      5月 記念碑建設実行委員会が三保園ホテルで開かれる
      8月 記念碑建立除幕式

 

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この記事の資料:
清水三保青春の雄叫び-清水海軍航空隊史
清水海軍航空隊(予科練)について
防衛研究所収蔵「水路部 航空路資料第4 昭和19年6月刊行 中部地方飛行場及不時着陸場」


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根岸氏と水産試験場のこと [├雑談]

~~前記事の続きでオイラの妄想を多分に含んだ長文です~~

~~真面目に読むと疲れますのでご了承くださいませm(_ _)m~~  

 

「碧水」2004年1月号

静岡県水産試験場から「碧水」という広報誌が年4回出ており、

これは1980年7月の創刊号からpdf形式で全て閲覧することが出来ます。

この「碧水」の2004年1月号(下記リンク参照)は、「静岡県水産試験場創立百周年特別号」になっていて、

5p~11pまで、静岡県水産試験場の「研究成果」と題して、34の代表例が挙げられており、

5pには代表例の4番目として「魚群探見飛行」という項目があります。

 

水産試験場の「研究成果」 

「飛行機自体が珍しい時代に、小型飛行機で上空からカツオ等の魚群を探索し、通信筒を投下して漁船に伝え、漁獲を飛躍的に向上させた。この事業は駿河湾から伊豆七島海域を対象として昭和3年から18年ころまで続けられた。」

この説明文には海岸に駐機する2機の水上機の写真が添えられ、

「魚群探見飛行機 義勇8号と9号」というキャプションがついています。

これが魚群探査についての説明の全てです。

そこには、ヒコーキによる魚群探査を生涯の仕事にしようと考え、交渉の末に飛行場を設置し、

飛行場設置後、実に5年に亘り県、試験場に魚群探査実施を懸命に働きかけた人物の事は一切出てきません。

やっとのことで始まった根岸氏の魚群探査事業に対し、当の水産試験場は当時どんな反応だったでしょうか。

前記事の「暗転」の項でも触れましたが、「日本民間航空史話」根岸氏ご本人の手記にはこうあります。

「魚群探査事業は県の水産試験場、水産課が取り上げなかったものを強引に実施したため、これの当事者から陰からの妨害も少なからずあった。これを排除しながら行わねばならなかったことは、非常な苦労であった。」

この「妨害」の一例として、前述の不意の県費カット未遂事件が発生しました。

 

「明治37年に静岡県水産試験場が業務を開始してから今日までの百年間に、静岡県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果のうち代表的なものを紹介します。」 

これが様々な"成果"についての前口上です。

航空機を使用した魚群探査方式の効果性については、根岸氏の手記でも、水産試験場側の資料でも、

漁師から非常に喜ばれる成果があったと記録に残っています。

試験場自体がこうして創立百年の代表的な研究成果の1つに魚群探査飛行を挙げ、

「漁獲を飛躍的に向上させた」と"自画自賛"する程です。

「研究成果」では、魚探の開始年を端的に「昭和3年から」としています。

「碧水」の他の号では、昭和2年は試験期間、3年から八丈島を基地にして稼働開始。ということになっています。

当時伊豆諸島唯一の飛行場は八丈島の三根飛行場だったのですが、これは昭和2年10月開場です。

それまでは三保しかないのですが、魚探の開始年を「昭和3年から」とすることで、

三保飛行場の稼働期間は実質たったの数ヶ月になってしまうのです(後で詳述します)。

因みに根岸氏の手記の中では、試験期間とか本格稼働とかの区別なしに昭和2年から始めたことになっています。

ところが「碧水」の「研究成果」では、この事業を開始した人物の名前も出て来ず、使われている写真も根岸氏とは無関係の水上機。

「魚群探査のために」と開設した飛行場も、陸上飛行機も、

およそ根岸氏と関わるあらゆる痕跡を塗り消してしまうかのような取り上げ方です。

 

「誰がやったかという事ではなく、純粋に事業成果を発表する」というのが趣旨かもしれません。

しかし県と水産試験場は、事業開始前は「飛んだら墜ちるから」と、危険を理由に魚群探査を頑として認めようとしませんでした。

そして開始後も、執拗に妨害を繰り返しておきながら、

魚群探査を「県水産試験研究機関で得られた様々な研究成果」に持ってきて自画自賛。というのは、どうなんでしょうか。

根岸氏のことを知らない方がこの説明を見れば、県水産試験場が独自にこの事業を始め、成果を挙げたと捉えるでしょう。

「先進的なことをしてたんだなあ。当時の場長さんは、よほど先見の明があったに違いない。静岡水産試験場さん、やるじゃん!」

そんなに根岸氏に触れたくないのなら、百年間の代表的な成果事例から魚群探査を外すという選択肢もあったはずです。

失礼な言い方で申し訳ないのですが、「碧水」の取り上げ方は根岸氏を闇に葬り、手柄だけ横取りしているように見えます。

根岸氏が試験場の一職員ならまだ分かるのですが。。。

 

水産試験場が魚群探査費用の全額、若しくは殆どを出しているならまだしも、

費用分担は、「航空局から年額4千円、農林省から2千円、県費2,260円」なので、静岡県が出しているのは全体の27%です。

残りの73%を出してくれた航空局、農林省に一言も触れず、手柄だけ独り占めですから、

ましてや一個人のことなど-ということなのでしょうか。

「研究成果」をpdfで実際にご覧頂ければ早いのですが、

34の代表例はそれぞれ、1枚の写真の隣が説明文のスペースになっています。

「魚群探見飛行」の項目にはまだまだ説明スペースに余白があります。

魚群探査を水産試験場百年の成果として取り上げるのであればせめて、

「飛行家の根岸氏の働きかけで始まった当事業は~」という一文だけでも入れて欲しかったです。

 

「碧水」2002年6月号-進んだ発想の下に

2002年6月号(98号) 6-8pでも「魚群探見飛行」について取り上げている(下記リンク参照)のですが、

その扱い方がなかなか興味深いです。

興味のある方は下にリンク貼ってありますので是非実際に見て頂きたいのですが、要約するとこんな書き出しで始まります。

「魚探に飛行機を使用するという、当時としてはかなり進んだ発想の下に、昭和2年一大プロジェクトは始まった」

この6月号(98号)全体でも根岸氏の名前は、脚注の引用文献の中でたった1回登場するだけで、

根岸氏が何者なのかということは、この号を見ても分かりません。

「魚探に飛行機を使用するのは、当時としてはかなり進んだ発想である」

これは事実その通りなのですが、その発想をしたのは根岸氏で、この発想の下にプロジェクトを始めたのも根岸氏です。

試験場はその発想を否定し続け、一大プロジェクト開始後も妨害を繰り返し、

根岸氏に非常な苦労を負わせ、止めさせようとした側です。

ところが文中に根岸の根の字も入れておらず、これでは当記事を目にした方は、

「かなり進んだ発想」を持っていた試験場により、事業が推し進められた。

と受け取ることでしょう。

これでは事実と逆です。

 

続けてこうあります。

「魚群探見飛行の試みとしては、大正12年(1923)に三重県での事例が最も古いが、実用化には結びつかなかった。継続された事業としては静岡県が本邦初である。」

三重県で魚探飛行を実施した大正12年とは、奇しくも根岸氏が「魚探のために」と三保(根岸)飛行場を開設した年です。

即座に魚群探査の許可を出していれば、「三重県と並んで最も古い」と書けたのに、惜しかったですね。

更に遡れば、根岸氏は最初から「魚探のために」と飛行場を開設しようとしたものの、

県からの強い反対で開設が遅れたという経緯があります。

もし本当に「かなり進んだ発想」を持っていれば、飛行場開設、魚探開始も早々に許可を出していたはずで、

堂々の「本邦初」になり得たのですが。。。

 

それでもこんなに早い時期に魚探を開始した事について、

「今の時代にたとえれば、地方の水産試験場が専用の人工衛星を打ち上げるにも匹敵する大事業だったに違いない。」

と述べています。

また、「試験を開始するにあたり大きな障害となったのは、世間一般の飛行機の安全性に対する不当な危惧であり」

とも述べています。

根岸氏は手記の中で、世間一般が大きな障害になったとは一言も述べておらず、

むしろ試験場そのものが大きな障害になったと書いているんですが。。。

この後の根岸氏の使用機についてのところでも触れますが、

三保飛行場が完成した大正12年は、第一次大戦終結から5年後で、ますます航空機の重要性が高まり、

海軍では空母、艦載機の開発、運用が進められ、

国民に広く航空機についての啓蒙活動を行う諸団体が既に組織されていた時期です。

そんな時代に、試験場が「大きな障害」と感じる程、世間一般からの具体的な圧力が本当にあったのでしょうか?

前記事でも触れましたが、根岸氏は三保に飛行場を開設する前に、同じ静岡県の福長飛行機製作所で操縦訓練をしていました。

その頃(大正8年~9年頃)の様子について、やはり日本民間航空史話に福長飛行機の関係者の手記がありました。

その本の45pには、当初なかなか飛ばないヒコーキに地元の人たちが「カニ飛行機」とあだ名を付けていたこと、

やがてヒコーキが飛ぶようになると、土地の人たちは敬意を表し、応援するようになったことが記されています。

同じ静岡県で、土地の人々は民間機の飛ぶ様子に敬意を示しました。

一方で、水産試験場はまがりなりにも官営の施設です。

今でこそこの種の反対運動は珍しくもありませんが、当時は軍国主義、官尊民卑といった言葉に象徴される時代背景のこともあり、

土地の強制接収とか、漁場を荒らされるとかを別にすれば、そんな運動が生じた事は聞いたことがありません。

試験場が(根岸氏が)やろうとしていたのは、漁師に魚群の位置を知らせようという試みでした。

これが成功すれば(成功するんですが)地元に計り知れない恩恵がある事業なのに、

それに対して世間一般が表立って障害となるような行動を起すものでしょうか?

この記事の筆者様は、「世間一般の飛行機に対する無知無理解には大いに困らされた」的な事を書いておられますが、

そうした事が実際にあったときちんと証明できるものを何か持ち合わせておいででしょうか。

根拠無しにこんなことを書いてしまうと、それこそ当時の地元の方に対する不当な批判になってしまいますが、大丈夫でしょうか。

そもそも当時、県と試験場は根岸氏の計画に大反対の立場でした。

世間から大きな反対運動が起こったら、むしろ大喜びしそうな気がするのですが。。。

 

大きな障壁となったのは、世間一般の「飛行機の安全性に対する不当な危惧」であり、当時の関係者の周囲には「懐疑と不安と確信とが渦巻いていた]。これを払拭するため、昭和2年9月、調査船富士丸(2世)の船尾から紅白の吹流しを曳かせて、それが高度何メートルまで見えるかという試験を行った。結局「ナアル程飛行機から見るってえのは、素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。

飛行機の安全性に対する不当な危惧を払しょくするため、試験飛行を実施し、試験は成功した。とありますが、

もし本当に飛行機の安全性が問題視されているのなら、当時はヒコーキが飛び回るだけで人が呼べる時代ですから、

試験に使用するヒコーキで飛行大会を開催し、地元の方を招待するとか、体験搭乗希望者を募るとかが普通だと思うのですが、

実際に行われたのは、船に吹流しを曳かせ、それが高度何メートルまで見えるか、というものでした。

そしてこれがなぜか大成功。

これって傍から見れば、沖に船を出し、その頭上でヒコーキが飛び回っているということですよね?

どうしてこれで試験場が「大きな障壁」と感じる程の飛行機の安全性に対する世間一般の不当な危惧を

めでたく払しょくできるのでしょうか??

注目すべきは最後の方です。

なぜか「素晴らしいもんだ」ということを当局に印象付け、試験は成功した。となっています。

当初は「世間一般の不当な危惧を払しょくするため」に試験を行っていたハズなのですが、

いつの間に試験の目的が世間一般から当局に変更されてしまったんでしょうか??

この試験、オイラには、まんま魚探飛行の有用性に疑念を抱く試験場職員(当局)に対する根岸氏の実証試験に見えるのですが。。。

コレ、語るに落ちてませんか?

この記事の筆者様は、根岸氏の手記をご存じで書いているのか、ご存じなく書いているのか存じませんが、

根岸氏のご親族がこの号を目にしたら、どんな心境なのでしょうか。

 

八丈島を基地として-「碧水」1986年12月第38号

「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)は、

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱っています。

この資料の中では、

「2年に試験飛行、3年から実用飛行に移行し、3年と4年の半ばまでは、八丈島の飛行場を基地としていましたが、 昭和4年以降、三保を基地に調査が行われました」。

と記されています。

この一文がどういうことを意味するかについて理解するため、

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つを調べてみました。

 

a.使用機

当時根岸氏が魚探に使用していたヒコーキについて、妄想推測も含めて記してみます。

根岸氏の陸上機について資料では、「払い下げを受けた三菱の十年式陸上機 複葉、乗員2名、300馬力」とあります。

戦史叢書の付表に当時の陸海軍機の一覧表があるのですが、「三菱の十年式」に当てはまるのは、

「艦上機の開祖、一〇式トリオ」と呼ばれる「一〇式艦上雷撃機/艦上戦闘機/艦上偵察機」の三機種です。

それで根岸氏の使用機は、恐らくこの三機種のどれかの事を指していると思うのですが、

資料に出てくる「複葉、乗員2名、300馬力」という条件と比較してみるとこうなります。

・一〇式艦上攻撃機→三葉、450馬力、単座 なので違う
・一〇式艦上戦闘機→複葉、300馬力だけど単座なので違う
・一〇式艦上偵察機→複葉、乗員2名、300馬力で合ってる

ということで、根岸氏が使用したのは、「一〇式艦上偵察機」なのではないかと思います。

根岸氏の手記でも、そして水産試験場の資料でも、「艦上機」ではなく、「陸上機」としているのが気になるところなのですが、

これは、根岸氏の魚群探査の後を継いだ機体がいずれも水上機なので、それと区別するためなのではないかと思います。

三菱の「一〇式艦上偵察機」は1924年(大正13年)に運用を開始し、159機生産され、民間にも払い下げられていますので、

この点も魚群探査機の条件と合致します。

「一〇式艦上偵察機」のスペックについて、戦史叢書の資料では、「全速110節、航続力3.5(時)」とあり、

Wikiには、「最高速度:204 km/h、航続距離:754 km」とあります。

110節はキロ換算すると、203.72km/hになるので、Wikiと数値が合っているのですが、

問題は航続距離の方です。

Wikiでは754 kmとあるのですが、戦史叢書のスペックからすると、(あり得ないことですが)全速で3.5時間飛んでも、

713kmにしか達せず、計算が合いません。

どちらか数字が間違っているのだと思います。

それで戦史叢書の数字をとることにしました。

最高速度:204 km/hなので、(オイラの独断で)巡航速度:150km/hと仮定すると、

航続力3.5(時)から、航続距離:525kmとなります。

以下、この数字で話を進めます。

この機の信頼性については「碧水」の中で、「30分もすればガタガタいいだす代物で、根岸氏は大変苦労されたようでした」

また別資料でも、「白竜号(根岸氏の使用機)は状態が悪く、天候不順、故障や事故による機体破損などで当初の予定通りには探見飛行が行われませんでした」

とあります。

 

繰り返しになってしまいますが、根岸氏の使用機は一体何だったのかについて要約すると、

「三菱製、陸上機、複葉、乗員2名、300馬力」と資料にあり、

その条件にピッタリ当てはまるのが「一〇式艦上偵察機」なので、この偵察機を流用したのだろうと考えているのですが、

根岸氏の手記の中で、所有機として「十年式戦闘機」という言葉がたった1回だけですが、出てきます。

(根岸氏は魚探から手を引いた後もずっと飛行家だったのですが、この戦闘機云々については魚群探査からすっかり手を引いた後の話の中で登場し、所有していた時期が記されていないため、ややこしい)

実は「一〇式トリオ」と呼ばれる一〇式艦上雷撃機/戦闘機/偵察機の三機種は、

全てイギリスのソッピース社から招聘したハーバート・スミス氏が設計しており、

スミス氏はまず戦闘機を手掛け、次いでこの戦闘機を拡大し複座にした偵察機を設計しました。

この2機は姉妹機ということで、外見は非常によく似ています(雷撃機の方は三葉で全くの別物)。

で、この戦闘機は単座なので、根岸氏の使用機候補からは除外したのですが、

よく調べてみたら、「二型」と呼ばれる複座型練習機もあったのだそうで、

根岸氏の手記に出てくる「十年式戦闘機」というのが、魚群探査に使用した機のことを指すのだとしたら、

もしかしたら使用機はこの、「一〇式艦上戦闘機・二型」なのかもしれません。

戦闘機の方は偵察機より若干早く、最高速度は215km/hなのですが、航続時間が2.5時間と短くなっております。

後述しますが、これだと魚探には更に厳しいスペックとなります。

 

余談ですが、使用機に搭載している発動機について、根岸氏の手記の中では、「イスパノスイザ300馬力」と記されており、

戦史叢書の資料では、艦上戦闘機/偵察機共に「ヒスパノ300馬力」と記されているのですが、

根岸氏の使用機は、「イスパノスイザ300馬力」を三菱でライセンス生産した「三菱ヒ式300馬力」を使用していた。

とするサイトもあります。

 

b.魚群探査の実態

魚群探査飛行が具体的にどのように行われていたのか、水産試験場の資料に説明されていました。

初期の頃は無線を搭載した漁船が少なかったのだそうです。

それで上空から魚群を発見すると、その情報を紙に記して通信筒に入れ、

情報が欲しいと旗やたもを振って合図してくる漁船に投下して知らせるという方法がとられました。

つまり、飛行場を離陸し、漁場まで飛行し、魚群を探し、

それから情報を欲している漁船の上空まで行き、通信筒を投下しけなければなりません。

目標海域上空に到達してからが本番な訳で、「30分もすればガタガタいいだす」信頼性の乏しい陸上型のヒコーキで、

しかも洋上飛行となれば、飛行場から目的地までは1分でも近い方がいいに決まっています。

 

余談ですが、「碧水」(2002年6月 第98号)7pには、年度別の魚群探査の詳しいデータが示されています。

それによれば、昭和3年度は調査飛行回数25回に対して、飛行時間は24時間25分、

同じく昭和4年度は20回で23時間37分となっており、

1回の平均飛行時間は、昭和3年度が59分、昭和4年度は1時間11分です。

この魚群探査の所要時間についてですが、根岸氏の手記の中で

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とあります。

ところが現実には1時間凸凹ですから、本当はもっと飛びたかったはずで、

使用機の信頼性のせいで1回の飛行時間を制限せざるを得なかったのかもしれません。

 

c.位置関係

飛行場、漁場の位置関係はこんな感じ↓です。

無題2.png

八丈島は伊豆七島の中では駿河湾から最も遠く、駿河湾~八丈島間は最短でも約200kmあります。

三保から伊豆半島挟んで反対側の大島とか、もっと近ければ、駿河湾だろうが伊豆諸島近海だろうが、

それほど支障なさそうですが、結構離れていたんですね。

「伊豆諸島東京移管百年史」1088pによれば、八丈島近海は「日本三大漁場の一つ」なのだそうで、

それならここで漁をする船はたくさんあるでしょうから、魚探飛行をする意味は大いにあるのだと思います。

またこの資料では、八丈島近海の漁について、3~5月はトビウオ、ハマトビ漁、8~12月はクサヤモロ漁等、

通年獲れるものもあるが、狙う魚種により漁期というものがあることが記されています。

根岸氏の手記でも「漁期」という言葉が出ており、

これが通年ではなく限られた期間しか探査飛行をしなかったことに繋がっているようです。

 

余談ですが、根岸氏が八丈島で使用していた飛行場はドコかについて。

現在の八丈島空港のあたりに海軍の飛行場が建設されたのは戦争末期の時期ですから、

根岸氏が使用したのは、八丈島に最初に建設された「三根飛行場」という、

現在の空港の北東側にあった飛行場(昭和2年10月開場)でした。

a.使用機、b.魚群探査の実態、c.位置関係 の3つが出ましたので、この3つでいろいろ妄想考えてみます。

 

八丈島から駿河湾に飛ぼうとすると

水産試験場の資料では、事業化した昭和3年から、八丈島を基地にして魚探飛行を行ったとあります。

一方で、根岸氏の手記では、昭和2年から4年にかけて駿河湾でも、八丈島でも魚群探査を行ったとあります。

仮にの話なのですが、八丈島を基地にしていた当時、駿河湾の魚群探査に向かったとするとどうなるのか具体的に考えてみました。

使用機についてですが、機種は前述の通り「一〇式艦上偵察機」。
(最高速度:204 km/h、巡航速度:150km/h、航続時間:3.5時間、航続距離:525km)と仮定して以下話を進めます。

このヒコーキで八丈島から駿河湾に向かうとすると、最短でも200kmですから、片道1時間30分位かかる計算になります。

八丈島飛行場と駿河湾の往復に3時間、

「1回の飛行が1時間では、広い漁場を捜査するのは不可能」とありますが、

現場海域で魚群探査をするために残っている燃料は0.5時間分ということになります。

 

既にまともな魚探は出来ない計算になるのですが、この当時、伊豆七島には八丈島以外にまだ飛行場はありませんでした。

(八丈島以南はこの当時、700km離れた父島にも、930km離れた硫黄島にもまだ陸上飛行場は整備されていません)

ですから、八丈島~三保の飛行中何かトラブルがあれば、ルート途上に緊急着陸可能な飛行場は存在せず、

切迫していればそのまま着水するか、もう少し余裕があれば進路を東にとり、

伊豆諸島のどこかの島の適当な空き地を探す羽目になります。

八丈島か三保の飛行場まで辿り着けそうもないという事態になった時点で、

陸地か、海面か、いずれにせよ不時着決定ということです。

悪くすれば機体は使用不能で廃棄処分、良くても機体の回収、修理が必要となり、捜索隊出動という事態になるかもしれません。

実際、昭和4年7月にこの機は本当に不時着してしまい、機体は破損、使用されなくなり、新たに同型機の払い下げを受けています。

根岸氏の魚群探査事業は、危険を理由に長く許可が出なかったところを無理を押して事業化したという経緯があり、

ただでさえ試験場が止めさせようと虎視眈々狙ってますから、事故は事業中止の立派な大義名分となり得ます。

使用していたのは海軍機でしたから、無事に着水できればすぐ沈むことはなかったはずですが、

いろんな意味で、不時着は避けたいところです。

 

不時着に至りかねない要因としては、機体の故障の他に、天候の悪化により目的の飛行場に着陸できないというのがあります。

機体の信頼性が比較にならないほど向上した現代では、こちらの方が運航に与える影響はずっと大きいですが、

様々な手記を見ると、当時の天候との闘いは本当に大変なものでした。

天候の影響をモロに受ける高度で飛ばざるを得ず、機速が遅いほど、風の影響を大きく受ける事になります。

追い風なら目的地に早く着けるのですが、向かい風があれば押し戻され、

横風があれば進路は狂い、目的地までのみかけの距離がどんどん長くなります。

現代と比べれば、当時は満足な航法装置も、地上の支援装置もなく、

自機がドコにいるのか、ドコに向かえばよいのか全く分からなくなり、

そのまま不時着できればいい方で、燃料切れで墜落、行方不明という事故は多く起こりました。

洋上飛行での不時着等の事故は命を危険に曝しますし、事業停止に至りかねませんから、

ルート上に代替飛行場のない長時間の洋上飛行ということも考え合わせると、

予備燃料の確保は非常に重要だったはずです。

 

戦史叢書の「航続力3.5時間」という数値でいろいろ考えている訳ですが、

この3.5時間というのは、理想的な高度、速度で真っ直ぐ飛び続けた場合の数字です。

b.魚群探査の実態 の項目で記しましたが、

魚群探査、漁船探査、通信筒投下のためには、理想的な巡航飛行とは程遠い、

上昇/下降、加速/減速、旋回の連続を強いられたはずです。

「碧水」98号7pによれば、魚群探査に適当な高度は300m程度とされています。

漁船に通信筒を投下する際には、更に高度を落としたかもしれません。

高度が下がるほど空気密度が濃くなります。

空気が濃いこと自体は、エンジン効率アップ、燃費向上につながるのですが、

高速で飛ぶヒコーキの場合、空気密度が濃いことは、エンジン効率を良くする以上に空気抵抗の増加につながり、燃費を悪くします。

これは当時のレシプロ機でも、現代のジェット機でも同様で、より経済的な運航をするために高度を上げるのはこのためです。

魚探飛行は、巡航速度を保ち、理想的な高度で一直線に飛び続けて出す「航続力:3.5時間」という数字を、

大幅に下回ったはずです。

 

「航続時間3.5時間、目的地との往復に3時間。残り0.5時間」

というのは、八丈島を離陸し、非常に理想的な飛行で駿河湾上空に到達したら即引き返し、

帰りも理想的な飛行が出来たとして、あと30分分の燃料が残っている。ということです。

こんなことあり得ませんし、帰りも理想的な飛行が出来るという保証はどこにもありません。

こうして現実的に諸々考えると、「30分しかないけど、それじゃあ早速魚探やりますかー!」

とか言っている場合ではないことになります。

当時の飛行場の位置関係、使用機の性能を考えると、

八丈島を離陸して、先ずは三保飛行場で給油してから魚群探査を行い、

帰りにまた三保で給油と整備を済ませてから八丈島に戻るというのが現実的だろうと思います。

 

三保飛行場から八丈島飛行場までは240kmあり、計算上1時間36分で飛べるのですが、1時間45分かかるとすると、

往復で丁度航続時間の3.5時間を使い果たすことになります。

往路八丈島を離陸して三保に向かったとして、三保が天候不良で降りられないとしても、燃料に十分余裕があれば、

本土には当時既にいくつか飛行場がありましたからどこかにダイバートできるはずなのですが、

復路三保を離陸して八丈島に向かった場合、目的地上空に近づいてみたらベッタリと黒雲に覆われているのが見えたとすると、

八丈島周辺に代替飛行場はありませんから、天候回復を信じて上空で旋回待機するか、

即刻三保に引き返すか、決断を迫られます。

特に戻りは燃料満載だったんじゃないでしょうか。

 

加えてコストの問題もあります。

根岸氏の手記の中で、使用していたヒコーキのエンジンは、60時間ごとに分解しなければならなかったと記されています。

三保飛行場と八丈島の三根飛行場を往復するだけで4時間近く使ってしまいます。

魚群探査飛行は、魚群を探査してナンボですから、燃料代もバカにならず、非常に不経済なことになってしまいます。

こうして考えてみると、八丈島を基地にしている間は、やたらと三保に戻ったりせず、また駿河湾の探索などせず、

八丈島周辺を飛び回るのが自然のように思います。

「明日は気分を変えて、久しぶりに駿河湾でもいくかー!」なんてノリで、ホイホイ気軽に行き来したとは思えません。

三保飛行場にいる時は駿河湾を、八丈島にいる時は伊豆諸島近海を、という具合に、

目の前の海で魚探を行うのが自然だと思います。

実際、「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pでは、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、機上(白熊号)より本島を認められる範囲内(約40マイル)の漁場を調査する実用試験に人った」

と記されています。

 

ということで、水産試験場の資料に記されている通り、本当に昭和2年は試験飛行、

そして昭和3年と4年の半ばまで八丈島を基地にしていたとすると、

その間は三保(根岸)飛行場の出番はほとんどなく、また捜索海域も駿河湾ではなく、

主に伊豆諸島近海に限定されるのではないかと考えられます。

この場合、三保の飛行場が稼働し、魚群探査の実績を挙げた期間は、

昭和4年の後半のたった半年しかないことになります。

「碧水」98号7pの魚探飛行データによれば、昭和4年の魚探飛行は10月27日で終了しており、期間は更に限られます。

前述の通り、根岸氏の使用機は八丈島で不時着事故を起こしたのですが、

これはよりによって根岸氏の魚探飛行最終年である昭和4年7月のことです。

残念ながら事故日が7月の何日かは不明なのですが、不時着を起こした場所は八丈島ですから、

7月に入っても根岸氏はまだ八丈島で飛んでいたことになります。

「碧水」の資料では、同型機の払い下げを受けて使用したとあるのですが、

7月に八丈島で事故を起こし、それから内地に戻り、機体を受領し、

三保(根岸)飛行場で魚探飛行を再開するまでにどの位の期間が必要だったのでしょうか。

そして、この年の調査飛行が終了する10月27日までに、どの位の期間飛べたのでしょうか。

いずれにせよ、三保(根岸)飛行場が日の目を見たのは、せいぜい数か月だけに留まったという事で、

根岸氏の作った三保飛行場はほとんど役に立っていないことになってしまいます。

そして昭和5年以降、根岸氏はクビになり、魚群探査に水上機が使用されているため、

「三保(根岸)飛行場」は魚探にはもう永遠に不要なのです。

 

水産試験場の資料からすると、「三保(根岸)飛行場」が魚群探査の基地として稼働した期間は、

昭和4年の後半の数か月のみ。そしてその後はもう出番はありません。

一方、根岸氏は自身の手記の中で、魚群探査を行った期間についてこう記しています。

「2年、3年、4年と駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場で」

「碧水」の資料とは、随分イメージが異なるのではないでしょうか。

 

三保(根岸)飛行場はなぜ造られたのか

根岸氏の手記の中では、魚群探査のために使用した具体的な飛行場については、「八丈島」しか出てきません。

時期により基地の変更があったとか、駿河湾の魚群探査にどの飛行場を使用したか明示する箇所はありません。

それは、駿河湾の魚群探査にドコの飛行場を使用したかということなど、言わずもがなだったからではないでしょうか。

そもそも三保(根岸)飛行場は、静岡電気鉄道専務、「東海の飛将軍」と称された大実業家、現鈴与創設者、

地元在住の大臣といった錚々たるメンバーから、「地元発展のために」等の思いから後援者になってもらい、

「魚群探査のために」と県に設置願いを出して苦労して認めさせたという経緯があります。

三保飛行場はまさに、「魚探のために造られた飛行場」でした。

ところが水産試験場の資料によれば、試験期間を経ていよいよ実用化の段階に来た時、

なぜか根岸氏は八丈島に移動し、そこで1年半も活動していたことになります。

念願叶って魚群探査を開始するとき、真っ先に活動の基地にしたのが、苦労の末に自ら完成させた飛行場ではないのです。

これはオイラには非常に不自然に映ります。

根岸氏が自らの意思でこんなことをするとはとても考えられず、

これが事実だとすれば、水産試験場から「先ずは八丈島でやれ」と強要される等、何か余程の事情があったはず。

後援者の手前もあり、こんなことが実際にあったのだとしたら、

手記の中で県への苦言を記している根岸氏のこと、そんな不条理な要求は当然手記に記録したのではないかと思うのですが。

 

試験場職員の方が「本場の資料(試験場に残る資料と思われる)」を詳細に調べ、

根岸氏が始めた魚群探査について非常に詳しく扱った「碧水」1986年12月第38号 5,6p(下記リンク参照)の中では、

昭和2年の試験飛行が良好な結果であったこと等、なぜかその年の事業報告に記載されておらず、

なぜか7年後の昭和11年5月の静岡県水産試験場月報の中でやっと登場したことが記されています。

 

八丈島側の記録

因みに八丈島側にも、魚群探査飛行について少しだけ記録に残っています。

「伊豆諸島東京移管百年史」の中で、

「1928年(昭和3年)7月7日 (八丈島に)静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」と記されています。

年表では「白竜号飛来」とあるだけで、これが初飛来であるかどうか等記されていないのですが、

白竜号は何度も八丈島に飛来しているはずなのに、わざわざこの一回だけ記録が残っているというのは、

これが初飛来だったからなのではないかと思います。

 

「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」には、各年度ごとの魚群探査実施期間、飛行回数等のデータが記録されており、

1928年(昭和3年)は、探見飛行は6月~8月にかけて実施、調査飛行回数25回となっています。

何度も繰り返し書いていますが、水産試験場の資料では、根岸氏は昭和3年と翌4年の半ばまでは、

八丈島を基地にしていたことになっています。

昭和3年は1年間丸々八丈島を基地とし、魚探飛行は6月から開始ということは、

遅くとも6月には八丈島に飛来して、早速伊豆の近海を飛び回っているはずです。

では、八丈島側の「静岡県水産試験場魚群偵察飛行機白竜号飛来」という記録の日付が7月7日というのはどうしたことでしょう。

ちゃんと魚探事業したとして記録が残っている6月は一体ドコで飛んでいたのでしょうか?

また、この年表では魚探飛行について記しているのは7月7日の記述のみで、

八丈島を基地として1年半魚群探査をしていたにしては、受け入れ側の年表は余りにも素っ気なく感じます。

前述の通り、三保から八丈島は、そう気軽に行き来するような距離でないことも考えると、

「7月7日飛来」というのは不自然に思います。

 

双方の隔たり

長々と書いてしまいましたが、こうして水産試験場の魚探についての扱い方と、根岸氏の手記を比較するとき、

幾つか疑問点が浮かび上がります。

・水産試験場広報誌は事実を曲げて根岸氏を表に出さないようにしている(ように見える)
・魚探事業が本格稼働期に移行すると、八丈島に基地を移し、伊豆諸島近海でばかり飛行している
・魚探のために開設した三保は、本格稼働から1年半後にようやく使用し始め、結局ほんの数か月程度しか稼働していない

 

前出の「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」7pには、

「3年度から、ハ丈島三根海軍飛行場を根拠地として、(中略)実用試験に人ったが、機関故障や機体破損のため、なかなか思い通りにはいかず、本格化したのは5年度からであった。」

とあり、この号では根岸氏のことも根岸飛行場についての説明も一切なく、

根岸氏が関わっていた昭和4年までは、「なかなか思い通りにいかない実用試験期」ということになっています。

根岸氏が試験場と関わっていた時期の両者の関係性、

そしてその後の「碧水」の露骨なまでの根岸氏の排除ぶり、浮かび上がる疑問点を考えると、

オイラ個人としましては、「碧水」の魚探についての記述をそのまま受け入れるより、

「昭和2年から4年にかけて、駿河湾はもちろん、八丈島を基地として伊豆七島の漁場でも魚探を行った」

という 根岸氏の手記の方がすんなり受け入れやすく思えます。

この根岸氏の書き方、「魚探活動のメインは飽くまで駿河湾」というニュアンスが感じられるのですが、

水産試験場の言う通り、もし本当に駿河湾での稼働期間がほんの数か月に留まっていたとしたら、

果たしてこんな書き方が出来るものでしょうか?

そもそも根岸氏が魚探事業をクビになった発端は前記事の通り、

伊豆諸島のカツオが南方に移って少なくなったため、サイパンを根拠として大型飛行艇による魚群探査を行おうと考えたことでした。

カツオは高度回遊魚で、一定のルートを巡って回遊します。

一年半の間、ひたすら八丈島周辺海域のみで魚探を行ったのではなく、

様々な魚群の回遊、移動に合わせて根拠地を変えようとした-

こちらの方がオイラには自然な気がします。

 

最後になりますが、この記事を書くに当たり大いに参考にさせて頂きました、

「魚群探見飛行のこと」という記事(「碧水」1986年12月第38号 5,6p)について。

この号を作成された方に限っては、根岸氏を疎むどころか、その多大の苦労を非常に好意的に扱っており、

公平な目で当時の資料を扱っているように受け取れるという点を申し添えておきます。

根岸氏の手記と比較すると、矛盾と感じる部分はあるのですが、この執筆者が使用した資料が身内のものですから、

その資料だけ見て書けば、当然こうなるだろうなあ。というのがオイラの印象です。

この方が作成した記事(1986年12月 第38号)と、「「百周年特別号」(2004年1月 第105号)が、

世に出る順番が逆であったなら、せめてもの救いだったのですが。

 

静岡県立水産試験場は広報誌を創刊するに当たり、「碧水」という言葉を誌名に選びました。

この広報誌の発行は現在も続いています。

オイラが検索した限り、「碧水」ではこれまでに3度魚群探査の特集記事を出しました。

今後、その誌名通りの記事が記されるようになることを心より望みます。

 


関連サイト:
「碧水」(1986年12月 第38号)「魚群探見飛行のこと」pdf(5、6p)   
「碧水」(2002年6月 第98号)「魚群探見飛行」pdf(6-8p)   
「碧水」(2004年1月 第105号)「「百周年特別号」pdf(5p)   
(「碧水」は再生おじさんから情報頂きましたm(_ _)m )

この記事の資料:
日本民間航空史話
戦史叢書95巻:海軍航空概史 付表第一
伊豆諸島東京移管百年史


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三保(根岸)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

無題9.png

 

根岸錦蔵氏

日本新三景の1つ、静岡県静岡市「三保の松原」。

この地に陸上飛行場を作った根岸錦蔵氏(1902-1983)についてご紹介します。

「日本民間航空史話」という本(1966年発行)の中に、根岸氏ご本人が生い立ちからの手記を載せておられましたので、

以下その中から抜粋させて頂きました。

 

根岸氏は小学生の頃から1人で列車に乗り、所沢の飛行場でヒコーキを眺め、

徳川大尉、長沢中尉から「小僧また来ているな」と顔を覚えられる程のヒコーキ大好き少年でした。

余談ですが、この時期所沢飛行場にいた「徳川大尉」といえば、恐らく代々木練兵場で国内公式初飛行を記録し、

翌年には所沢で国内公式飛行場における初飛行を記録した人物ではないかと思われます。

(所沢飛行場は1911年開設なので時期は合ってる)

 

1917年(大正6年)、赤羽飛行機製作所の助手を経て、福長飛行機研究所に練習生として入所。

その後、三保の地に飛行場を建設し、魚群探査を行おうとしました。

ところが、「天下の名勝地だから」と、県は頑として飛行場開設を許可しません。

それでも粘り強い交渉の結果、個人使用、毎年更新が必要な臨時飛行機離着陸場としてようやく許可を得ることが出来ました。

「あんな砂地に降りられるはずがない」と言われ、

「それならば」と警察に許可も取らず強引にヒコーキを着陸させたりもしたのだそうです。

これを根岸氏は手記の中で、「三保の松原に天女に次いで二番目に舞い降り」た。と自ら表現しておられます(o ̄∇ ̄o)

 

飛行場開設、魚群探査開始

三保(根岸)飛行場の開設は1923年(大正12年)。

弱冠21歳の若者が県と交渉を繰り返し、飛行場を造ってしまうのだから凄いです(@Д@)

三保の地に飛行場開設の念願叶い、早速魚群探査を開始したのかというと、残念ながら事はそう上手く運びませんでした。

あらゆる機会に県の有力者、漁業関係者に働きかけたのですが、ノレンに腕押し状態で、

後援者からの援助によりやっと話を取り付け、航空局から年額4千円、農林省から2千円、県費2,260円を受け、

正式に県の仕事として魚群探査を開始することができたのは、1927年(昭和2年)。

飛行場開設から、なんと5年の歳月が流れていました。

早速1927年~1929年(昭和2年~4年)にかけて、払下げの十年式陸上機で、駿河湾はもちろん、

八丈島を基地として伊豆七島の漁場でカツオ、マグロを発見したのでした。

 

暗転

この航空機による魚群探査事業は、県の水産試験場、水産課が危険を理由に取り上げなかったものを、

根岸氏が強引に実施したという経緯があったため、陰から妨害を受ける事も少なからずあったのだそうです。

例えば、魚群探査のための県費2,260円が突如切られたことを県会の前日に知り、夜中官舎に行って知事と話をつけ、

予算書に赤付箋を付けてもらい、辛くも継続になるという出来事があったのだとか。

 

その後伊豆諸島のカツオが南方に移って少なくなったため、サイパンを根拠として大型飛行艇による魚群探査を行おうと考え、

ドルニエ・ワール機を海防議会から静岡県に寄付してもらうこととし、海防議会の伊藤中将と川崎飛行機に行くため

(川崎はドルニエ・ワール機を所有しており、また改修依頼を受ける事があった)、航空局技術課長を呼びに行ったところ、

航空局の斡旋を経ずに直接海防議会に交渉し、それに成功したことが航空局の忌憚に触れたらしく、驚くべき決定が下りました。

航空局から突き付けられた沙汰は以下の通りでした。

・静岡県の魚群探査に根岸を使うならば補助金を打ち切り
・今後魚群探査事業は東京航空輸送会社に任せる
・ドルニエ・ワールは中止し、中島十五式水上偵察機二機とする
・サイパン飛行は中止して伊豆諸島、駿河湾のみとし、一機は東京航空輸送が清水~東京間の定期航空に使用する

航空局からの補助金が打ち切られると、補助金全体のほぼ半分を失うことになります。

県も試験場もなんとか根岸氏を辞めさせたいと思っていましたから、根岸氏としてはこれを呑まざるを得ません。

ということで、なんと根岸氏はクビになってしまいました。

こうして根岸氏が始めた魚群探査事業は、東京航空に移ることになります。

 

ネット上では根岸氏が魚群探査から手を引いた件について、様々に表現されているのですが、

このことについて当のご本人は手記の中でこう記しています。

「当時の航空会では、東京航空の相羽氏が根岸から(魚群探査事業を)横取りしたとうわさされたが、そうではない。航空局が取り上げて東京航空にやらせたのだ。」

そんな訳で、直接取り上げたのは、航空局だと少なくとも根岸氏本人は思っています。

尤も、水産試験場だって直接引導を渡すことはありませんでしたが、県費カットまでしようとしました。

次の記事でも書きますが、根岸氏の後援者には地元の錚々たる顔ぶれが名を連ねており、こうした後援者の手前もあって、

県や試験場の妨害は間接的な「影から」のものに留まっていたのかもしれません。

魚群探査事業そのものは、漁獲が飛躍的に向上し、大きな成果を挙げていました。

県、水産試験場にしてみれば、航空局のこの「根岸氏切り捨て」という決定は、

自ら手を下すこともなく根岸氏を事業から追放し、事業そのものは継続となった訳で、まさに渡りに船だったはずです。

事業が東京航空に移り、クビになってしまった根岸氏は、その後東京航空の実施する魚群探査飛行に、

魚見役として同乗していたのですが、これも県から禁じられてしまい、

本人曰く「生涯の仕事としてとりかかった」魚群探査と完全に縁を切らざるを得なくなり、

その後は、高層気象観測飛行、旧女満別空港を建設させての流氷観測飛行等に従事したのでした。

特に流氷観測飛行では、氏の特出した能力がいかんなく発揮され、流氷観測のみならず貴重なデータを後世に残すことになります。

 

「三保(根岸)飛行場」の位置

ということで、大正12年から、少なくとも根岸氏が魚群探査を行っていた昭和4年まで、ここ三保の松原には、

根岸氏が苦心の末に開設した「三保(根岸)飛行場」が確かにあったはずなのですが、

某サイト様で「根岸飛行場格納庫」と地図上に示すものがあるのみで、

飛行場の具体的な場所をハッキリ示している資料が未だ見つかりません。

一口に「三保」と言っても結構広くて、「ここかなあ」という場所が幾つもあります。

それでも、2つ先にアップ予定の記事「清水海軍航空隊跡地」作成に大いに役立った書籍の中に、

まったく思いがけず「三保(根岸)飛行場」を匂わせる記述がありましたのでご紹介致します。

中村英雄著「清水三保青春の雄叫び:清水海軍航空隊史」という本の4pに、たった一文なのですが、

「清水三保海軍航空隊」の滑空機による練習風景について触れた記述に続き、こんな一文があります。



「根岸飛行場格納庫には、魚探機1機と滑空機が2機格納されていた」



この一文の後は、すぐに別の話に移ってしまいます。

飛行場名には大抵、地名か、設立者(企業)名が付される訳ですが、三保に根岸という地名は検索しても出てきません。

それで、この「根岸飛行場」の「根岸」とは、設立者の「根岸氏」のことと思われます。

この書籍:「清水三保青春の雄叫び:清水海軍航空隊史」は、その題名の通り、

三保の地に開隊した清水海軍航空隊について扱ったもので、この航空隊では滑空機の訓練を行っていました。

この本の57pにある略図には、現在の「三保飛行場」の辺りに滑空場があったことが示されており、

「清水海軍航空隊(予科練)について」という、もう一冊別の本にも基地の略図が載せられているのですが、

どちらも滑空場のすぐ前に「滑空機格納庫」が一棟あったことが明示されています。

双方の略図の中で、「陸上機の格納庫」の記載はこの一棟が全てであり、他に陸上機用格納庫は記されていません。

つまり、書籍に出てくる「根岸飛行場格納庫」とは、この略図に示されている「滑空機格納庫」のことで、

清水海軍航空隊が「根岸飛行場格納庫」を借用していたという可能性が高いと思います。

通常、滑走路のすぐ前に格納庫を設置するのが常だったことも相まって、

  清水海軍航空隊の「滑空機格納庫」=「根岸飛行場格納庫」
∴清水海軍航空隊の「滑空場」=「根岸飛行場」 

という連立方程式が成り立つ可能性が高いのではないか。というのがオイラの考えです。

「根岸飛行場格納庫」には、魚探機と滑空機が仲よく同居していたという記述もありますし。

 

根岸氏が魚群探査飛行のために「根岸飛行場」を使用していたのは、昭和4年まで。

また、根岸氏の跡を継ぐ形で、水上機による魚群探査は昭和18年頃までは続けられたと考えられています。

清水海軍航空隊がここに開隊したのは、昭和19年ですから、

格納庫には、根岸氏が使用していた陸上機か、後を継いだ水上機の魚群探査機が眠っていてもおかしくないことになります。

根岸氏の後を継いだ水上機による魚群探査事業は、三保の真崎(三保半島の突端)に基地が新たに設けられ、

ここに水上機用の離着水エリアが設定され、格納庫も設けられたことがアジ歴の地図で確認することができます。

そのため、「根岸飛行場格納庫」に滑空機と仲よく翼を並べていたのは、根岸氏の陸上機であったかもしれません。

(検索すると、「三保(根岸)飛行場」=「清水海軍航空隊滑空場」=「三保飛行場」と記しているサイト様が1つだけ見つかります)

 

ということで、1923年(大正12年)に開設した「三保(根岸)飛行場」は、

1927年~1929年:「三保(根岸)飛行場」→魚群探査のための飛行場として使用

1944年~1945年:「清水海軍航空隊 滑空場」→三保空の練習用滑空場として使用

1968年~現在:「三保飛行場」→赤十字飛行隊の飛行場として使用

こんな感じなのではないかと。

清水海軍航空隊についての書籍の中で、「根岸飛行場格納庫」という言葉が出てくる訳ですが、

仮に当時の航空隊隊員の間で日常的にこの言葉が使われていたのだとしたら、

隊員たちにも当飛行場開設のいきさつは伝わっていて、

当時から、「ここは元々根岸氏の飛行場と格納庫」という認識があったのかもしれません。

 

実際には清水海軍航空隊が滑空場として使用していた時は、

現代の我々が想像するような舗装された細長い「滑走路」があったのではなく、

海岸線に沿った平坦な場所を「着陸帯」として使用していたので、厳密には、両者はピッタリ重なっているわけではありません。

それでも、根岸氏が開設した飛行場がこの場所で間違いないとすると、

大正時代、約百年近く前に1人の若者が「魚群探査のために」と飛行場適地として苦心の末に開拓した場所が、

その後数度の空白期を経て、使用者を変え、運用機を変え、今日まで飛行場として存続していることになります。

 

D20_0076.jpg

・A地点

「根岸飛行場格納庫」推定位置

 

D20_0079.jpg

・B地点

飛行場があったと思われる辺り

 

三保(根岸)飛行場跡地 map   


      静岡県・三保(根岸)飛行場跡地     
国交省の清水港のサイト・清水港のあゆみの中で、「昭和4年(1929年)水産試験場で開発されたマグロ油漬け缶詰の輸出が始まる。アメリカで大人気」とあるのですが、これは根岸氏の魚探事業で漁獲高が飛躍的に伸びたためとされています

三保(根岸)飛行場 データ
設置管理者:根岸錦蔵
空港種別:臨時飛行機離着陸場
所在地:静岡県静岡市清水区三保

沿革
1923年 三保飛行場開設
1927年 三保飛行場にて魚群探査飛行開始
1930年  魚群探査に三保真崎の水上飛行場が使用されるようになる

関連サイト:
国土地理院 1948年9月当時の写真(USA R1807 2) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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この記事の資料:日本民間航空史話


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中部・2 [■旅行記]

無題.png
①道の駅富士→②三保(根岸)飛行場跡地、清水海軍航空基地跡地、三保真崎水上飛行場跡地→③ビアガーデン→④妹宅泊

 

二日目

本日は静岡県内にまだまだ周りたい場所があるのですが、午後4時に名古屋の妹宅で待ち合わせですのだ。

 

4:45 起

5:30 出発

6:00 三保真崎飛行場跡地着

図書館でいろいろ資料を見たかったのですが、開館まで撮れるものを撮っておくことに。

 

DSCN0077.jpg

7:30 途中ガストで朝食

9:00 県立図書館へ

一杯コピーした。

11:20 県立図書館には置いてない資料があったので、続けて地元の清水市立中央図書館へ

現地に戻って資料を参照しながら場所を探し、写真を撮ったらもう昼過ぎ。

三保だけで午前中一杯費やしてしまった(・д・川)

静岡県内にまだまだ見学ポイントが残っているのですが、このまま高速に乗って名古屋に向かうことに=(⊃゜Д゜)⊃オリャー!

母から、「夏みかん今が旬だから、私からのお土産に買って持って行ってちゃぶだい」と言われていたので、

丁度屋台を出していた途中のSA(場所忘れた)で二袋購入。

16:00 妹宅着

真っ直ぐ向かえばもっと早く着くはずだったのですが、途中のPAでちょっと仮眠とるつもりでそのまま爆睡してました。

結局父から言われたビール券は見つからなかったため、

言われていた額の日本銀行券を、「これはどこからどう見ても立派なビール券」と言い張りながら渡したところ、

「うん。これは確かに立派なビール券w」と非常に物分かりの良い妹なのでした。

1時間ほと後、帰宅したアニキ共々電車でビアガーデンに向かいました。

以前もどこかでチラっと書いたのですが、旦那のNさんはテツでして、最高十連泊する程の筋金入りの乗り鉄です。

そのNさんから途中の駅構内で、「この駅、どこかの駅と雰囲気似てると思わない?」と尋ねられました。

「…エート。………さ、さあ?」

Nさん。突然「長野県の〇〇駅と似ている」とか言われても、一般人のオイラは知らないよ!(☆Д☆)

まったく、これだからマニアは… (-"-;)

 

DSCN0095.jpg

 

DSCN0099.jpg

分かる人はこの写真で「ああ、あそこか」と一発で分かると思います。

マイちゃんアミちゃんという当ビアガーデン専属? の歌い手さんがいて、熱狂的なオッカケの方もおられ、

すんごい賑やかなビアガーデンでした。

バブルの頃のカバーが多くて、我々世代は懐かしい感じでした(o ̄∇ ̄o)

因みに言っときますけど、オイラは踊ってませんし歌ってません。

本日は妹宅に泊めて頂きました。

 

22:30 寝

おやすみなさい。

(続きます)

 

本日の走行距離:258km


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祝! MRJ 初飛行 [├雑談]

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Photo:(有)オールドマンの旅行代理店・oldman様(以下3点とも)

 

MRJ初飛行

毎度毎度時事ネタを記事にするのが遅くて本当に今更なのですが、ついに飛びましたね~。

初飛行当日、オイラは地元埼玉でセッセと仕事に勤しんでいたのですが、

呑み仲間から「今名古屋?(笑)」とメールでからかわれました。

記念すべき初飛行時の貴重なお写真は、 (有)オールドマンの旅行代理店 のoldman様から頂きました。

国交省に登記された形式は、MRJ-200 JA21MJ だそうです。

 

2015年10月19日RJNA2 201.JPG

 

2015年11月5日RJNG&RJNA 227-1.JPG

この2点は初飛行より前に撮影されたものです。

初飛行の日時については公式アナウンスがあったので、空港周辺は大変な人だかりとなったのだそうですが、

MRJは普段は見えない場所で開発していて、外に出てくる日時についての公式発表もないため、

連日名古屋飛行場に通い詰め、昼食も現地で済ませ、ひたすら待って待ってやっと撮れるという、大変貴重な代物です。

事前に日時が知らされる初飛行写真とは比較にならないほどの時間と根気が必要なお写真。

オイラにはとてもマネできません。 しかもお天気の時のお写真を頂きました。

非常に非常に貴重なお写真です。

 

今後のスケジュール

MRJの今後の予定ですが、型式証明取得、初号機納入に向けて試験飛行を続けることになります。

具体的なスケジュールについて公式サイトによりますと、

今後、国内での飛行試験を継続し、2016年第2四半期からは、

米国モーゼスレイク市(ワシントン州)のグラント・カウンティ国際空港を拠点とした飛行試験を行い、

2017年第2四半期の量産初号機納入を目指すのだそうです。

これから5機体制でガンガン試験飛行を行いますが、

来年に入ると、5機とも揃って渡米し、しばらく国内ではMRJの姿が見られなくなる。ということなのでしょうか。

 

MRJは当初の計画では、初飛行を2011年、初号機の納入を2013年と発表していました。

2015年も末に来てやっと初飛行をすることが出来ましたが、公式発表されている2017年第2四半期のデリバリー開始まで、

残された時間は相当短いです。

787の場合、初飛行から初納入まで1年9か月を要しました。

また、デリバリー開始は結局当初の予定より3年遅れだったのですが、

遅延に次ぐ遅延は訴訟問題にまで発展し、「787はもう飛ばないんじゃないか」なんてまことしやかに囁かれたりもしました。

戦後、ジェット旅客機を続々世に送り出し続けてもう60年近いという天下のボーイングですら、

(たったの)3年遅れでここまでガタガタしてしまいます。

一方のMRJは既に4年遅れ。

世界の航空会社から見れば実績など皆無に等しい新参旅客機メーカーに、これ以上の遅れは許されません。

 

三菱航空機株式会社の今後

「初飛行に無事成功」というのは大きな里程標であり、確かにめでたいことなのですが、

三菱では旅客機製造事業をMRJだけで終わらせるつもりはないと明言しており、

YS-11では一代限りで途絶えてしまった国産旅客機の製造をこの先もずっと継続していく計画です。

航空会社の次期旅客機選定の際、安全性の実績は何より重視されるため、

その実績皆無のメーカーとしては、MRJの更なる販路拡大、そしてその次の旅客機開発まで繋げるためにも、

顧客となり得る世界中の航空会社に対し、MRJのデリバリー、量産、

そしてその後のアフターケアまで順調に繋げて見せることが必須です。

更に、MRJが真の意味で優れたヒコーキなのかどうかということは、実際の運用コスト、使い勝手等運用側からの評価、

機体の問題で重大インシデント、事故が発生するかどうか等々、長い時間をかけて実証してゆかねばなりません。

今後のデリバリー、量産まで、開発、製造には大変なスピードが求められるのですが、

無事にデリバリーまで漕ぎ着けたとしても、その後に設計ミス、製造ミス等が発覚でもしたら、一大事です。

様々な部署でスピードと確実性という、二律背反な環境の中、今後も非常に高いハードルが続々待ち受けることとなり、

関係者のプレッシャーは相当のものと思います。

どうか今後のスケジュールが順調に進み、先ずは予定通りデリバリーの日を迎えることができますように。


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沼津水上飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

無題8.png

前記事の続きです。

昭和4年11月に、東京鈴ヶ森~下田線を開設した東京航空輸送社は、

翌年の昭和5年4月から、下田~沼津~清水まで路線を延長したのでした。

沼津の一体ドコに水上機用の飛行場があったのか、具体的な位置が現在不明なのですが、

再生おじさんから頂いた情報で、米軍作成の地図の中で、沼津市内を流れる狩野川の河口近くにマークが付され、

「Aero Fl」(上図A地点付近)という記載ありました。

再生おじさんどうもありがとうございましたm(_ _)m

1941年の航空写真(下記リンク参照)で見ると、未だA地点の橋はないし、国道414号線の橋もないし、

川のこの部分はほぼ直線になっていて、800m位はとれるので、運航に支障はないかと。

沼津駅も近いので、利便性は申し分ないですし。

実は沼津水上飛行場は、千本浜海水浴場付近の海浜にあったのではないかとするサイト様もあります。

海岸線はどうしても波があるため、現地視察の結果不適格とされてしまう例も当時あったのですが、

沼津は駿河湾最奥なので、海岸線でも水上機の運用は十分可能なのではないかと思います。 

それで今のところ、狩野川か、千本浜海水浴場付近のいずれかが沼津水上飛行場なのではないかと思っております。

情報お待ちしておりますm(_ _)m

ところで路線延長したのは、沼津ともう一つ、清水もありました。

この清水については、11月23日アップの記事で。

 

D20_0050.jpg

・A地点上流方向

 

D20_0054.jpg

・A地点下流方向

 

静岡県・沼津水上飛行場跡地 map   


      静岡県・沼津水上飛行場跡地     

沼津水上飛行場跡地 データ

空港種別:水上飛行場
所在地:静岡県沼津市黒瀬町
座 標:N35°05′53″E138°52′14″
着陸帯:800m?
*座標、着陸帯長さはグーグルアースにて算出

沿革
1930年 4月1日、東京航空輸送社、東京線を沼津、清水まで延長

関連サイト:
みなとしみず/シリーズ「エア・ガール 東京-下田-清水定期航空路」1~5(pdf:4p)  
国会図書館デジタルコレクション(2コマ目)    
国土地理院 1941年4月当時の写真(C54 C6 72) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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下田水上飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

無題0.png

静岡県下田市武ガ浜。

東京航空輸送社は1929(昭和4)年、水上機による東京鈴ヶ森~下田の定期便運航を開始しました。

下田の水上機飛行場については、再生おじさんから情報頂きました。再生おじさんどうもありがとうございましたm(_ _)m 

下田の水上機飛行場は、武ガ浜(上の地図オレンジの矢印)付近にあったのだそうです。

武ガ浜のすぐ東隣(オレンジの矢印のある辺り)は「下田市外ケ岡」で住所が異なりますので、

飛行場のあった場所は、上図A~Bの辺りではないかと思います。

 

東京航空輸送社は、東京~下田の定期便運航を開始した翌年の1930年、下田-沼津-清水と、路線を延長しました。

沼津の水上飛行場については次の記事で。

 

D20_0061.jpg

・A地点。

 

D20_0057.jpg

・B地点。

定期運航を開始した1929年頃の写真は国土地理院で閲覧することが出来ないのですが、

1947年の写真(下記リンク参照)で確認すると、現在よりうんと細長い形なのですがこの辺りまで埋め立てされていました。

 

下田水上飛行場跡地 map   


      静岡県・下田水上飛行場跡地     

下田水上飛行場 データ

空港種別:水上飛行場
所在地:静岡県下田市武ガ浜
座 標:N34°40′26″E138°56′55″
*座標はグーグルアースにて算出

沿革
1928年 9月 相羽有氏、東京航空輸送社設立
1929年 11月17日 東京鈴ヶ森~下田便運航開始

関連サイト:
みなとしみず/シリーズ「エア・ガール 東京-下田-清水定期航空路」1~5(pdf:4p)  
国土地理院 1947年8月当時の写真(USA M415-1 62) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック)  
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十国峠滑空場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2015年7月 訪問 

D20_0046.jpg

静岡県田方郡にある十国峠。

かつてここは「十国峠滑空場」として使用されていました。

昭和10年11月23日、日本帆走飛行連盟関東支部競技大会が十国峠で開催されました。

「帆走飛行」とはグライダーのことで、この大会には世界的第一人者のドイツ人も招聘されたのだそうです。

また、グライダーパイロットとして有名な堀川氏は昭和13年、十石峠山頂から発航したという記録があります。

更に昭和15年、三島商業學校滑空部が十石峠滑空場で滑空訓練を行っていました。

この情報はアギラさんから頂きました。アギラさんどうもありがとうございましたm(_ _)m 

 

D20_0041.jpg

おまけ・ 展望広場の一角に建立する碑。

「小堀春樹君 航空燈台臺建設 偉功記念 樞密顧問官正三位勲一等南弘書」

記念碑移設の由来(全文):この記念碑は亡小堀春樹氏が昭和7年ころ電気事業界をはじめ有志の人々に呼びかけて航空灯台献納会を創設し、その浄財に依つて十国峠外八箇所に航空灯台を建設して、これを政府に献納し夜間航空の安全を企図した功績を記念するため、昭和14年11月この山の中腹に建立したものです。今回故人の30回忌にあたり、近親ら相はかりもと灯台の建設地であったこの地点に移設したものです。ちなみに本灯台は政府において終戦直後、鉄塔その他諸式一切を田方郡達磨山山頂に移し、戸田航空灯台として昭和21年5月1日より今日に至るまでその指名を物語る如く、絶えず光芒を放って空の守りに仕していることを附記する。昭和43年3月11日建之

この場所に終戦直後まで航空灯台が光っていたのですね~。

説明からすると、1939年頃~1945年頃までここに航空灯台があったようなのですが、

国土地理院で写真、地図を検索しても、残念ながらここに灯台があったかどうか確認することが出来ませんでした。

その代り、「郵政博物館」というサイトに、十国峠航空灯台の写真がありました(下記リンク参照)。

 

十国峠滑空場跡地 map   


      静岡県・十国峠滑空場跡地     

検索すると、パラグライダー、ハンググライダーのスポットとして「十石峠」がたくさんヒットします

十国峠滑空場 データ
空港種別:滑空場
所在地:静岡県田方郡函南町桑原
座 標:N35°07′40″E139°02′28″
標 高:755m
*座標、標高はグーグルアースにて算出

沿革
1932年 この頃小堀春樹氏、航空灯台献納会創設
1935年 11月23日、日本帆走飛行連盟関東支部競技大会開催
1938年 堀川氏、十石峠山頂から発航
1939年 11月 航空灯台記念碑を山腹に建立
1940年 当時三島商業學校滑空部が滑空訓練実施
1945年 終戦直後、航空灯台を田方郡達磨山山頂に移動
1946年 5月1日より達磨山に移動した灯台を「戸田航空灯台」として使用
1968年 3月11日 十国峠航空灯台記念碑を航空灯台のあった山頂地点に移設

関連サイト:
郵政博物館/十国峠航空灯台    
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