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朝鮮強化月間終了 [├雑談]


今回朝鮮関連記事を作っている過程で、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(4-191)「京城日報」

という新聞記事を見つけました  

この記事が紙面に掲載されたのは、1937.5.26-1937.5.29 (昭和12年)。

韓国併合が1910年(明治43年)ですから、統治が始まって27年後に当たります。

著者は、日本航空輸送株式会社京城支店長 神津幸右衛門氏。

「半島民間航空の将来は如何に進むべきか (その一)」

という記事です。

記事について詳しくは直接リンク先をご覧いただくとして、その内容は、

台湾との比較で朝鮮航空事情が如何に立ち遅れているかを憂い(台湾統治は朝鮮より15年早く始まっている)、

「鮮内居住の官民よ、航空開発に全力を傾注すべく、今すぐ立ち上がれ!」とする檄文です。

具体的にこんな数字が挙げられていました。


  面積 人口 定期航路 飛行場
朝鮮 220,741坪 20,791,000人 670km 軍用:2 民間:5
台湾 35,974坪 5,061,000人 464km 軍用:2 民間:5


神津氏によれば、台湾との比較で朝鮮は面積で6倍、人口で4倍も多いのに対し、

航空の実情はまったくお粗末で、遺憾の極みである。としています。

続けて、今後どうすべきかについて氏の提言が熱く語られていました。

こんな記事が紙面に載る時代があった。

今からでは考えられないことですが、統治時代の一面ですね。

今後どうすれば良いかについての氏の提言は要約すれば、

「朝鮮内の定期航空網、飛行場、諸施設を直ちに充実させよ!」 ということで、

定期航空網の運航に当たるのは、幹線は我が日本航空輸送、

そしてローカル線に関しては総督直轄の義勇飛行隊を組織し、これに当たらせるべし。

としています。


この神津氏の提言が掲載されたのが前述の通り1937年(昭和12年)のことで、話が前後してしまうのですが、

1925(大正14)年に朝鮮で最初に登録された民間航空事業団体である「朝鮮航空研究所」が設立されました。

創立者は日本陸軍予備役大尉の西尾三郎氏で、朝鮮内の航空路開設を模索する動きもあったのですが、

残念ながら経営が成り立たず、この研究所は事業中止となってしまいます。

1929年(昭和4年)、慎鏞頊(シン・ヨングウク)氏が「朝鮮飛行学校」を設立し、西尾氏の後を引き継ぎます。

慎氏は千葉県の東亜飛行専門学校で操縦を学んでおり、

朝鮮の航空を発展させたいという願いを持つ人物だったのだそうです。

紙面に熱い提言を記した神津氏の思惑とは少々異なるのですが、

この慎鏞頊氏の「朝鮮飛行学校」は後に「朝鮮航空事業社」と改称し、

1936年(昭和11年)1月に京城~裡里間の週1往復の試験運航を開始。

1938年(昭和13年)5月からは週2往復で京城・裡里・光州間の定期運行を開始、

1939年(昭和14年)からは週3往復となり、朝鮮内の民間定期航空が運航されていたのでした。

一連の朝鮮内の14の飛行場記事の大元となった1943年(昭和18年)4月調べの水路部資料にも、

慎氏の「朝鮮航空事業社」がしばしば登場しており、当時実際に朝鮮内で運航していた様子を垣間見ることができます。


一方、翻って戦時中の内地の民間航空事情はといいますと-

1.大阪の日本航空輸送研究所
1922年(大正11年)開設。国内初の定期航空輸送開始するも、
1939年(昭和14年)、戦争遂行のため国策の大日本航空株式会社に吸収され閉鎖。

2.愛知の安藤飛行機研究所
1924年(大正13年)地元知多市海岸に安藤飛行機研究所を開設。民間パイロット養成に乗り出す。
1926年(大正15年)、名古屋―新宮、昭和3年名古屋―二見―蒲郡間に定期航路を始める。
Wikiによれば、大日本航空設立に合わせ、航空輸送停止。

3.東京航空輸送社
1928年(昭和3年)設立。1929年(昭和4年)から東京-下田間の定期航空営業をおこなった。
1931年(昭和6年)にはエア・ガールの採用も実施した。
1939年(昭和14年)3月27日、国の方針により大日本航空に吸収合併。

4.兵庫の日本海航空株式会社
1931年(昭和6年)、兵庫県城崎町の町長が震災復興を目的としてに発足。
中国、関西方面に定期航空便を次々開設、5機の飛行機を運用するまでになったのですが、
国策統制が強くなった1936年(昭和11年)以降業績がかなり落ち込み、
1939年(昭和14年)末に一切の現品を大日本航空輸送株式会社に引渡し、翌年解散。

このように、国内で航空輸送を実施していた民間会社はいずれも同時期に運航停止を余儀なくされています。

前述の熱い提言をした神津氏は、「日本航空輸送」京城支店長だった訳ですが、

氏の提言が紙面に載った翌年の1938年(昭和13年)、

この「日本航空輸送」は、国策の「大日本航空」に改組されます。

そして内地、外地、および国際線の運航は、この「大日本航空」が一手に引き受けることとなり、

当時内地で航空輸送を行っていた四社は、航空輸送を停止したのでした。

また、定期航空輸送ではないのですが、滋賀の天虎水上飛行場のように、

逓信省から委託を受けてパイロット育成を行う民間飛行学校でさえ、

やはりすべての施設を大日本飛行協会に"寄付"したり、

民間の飛行場が末期には事実上軍のものになったという例はいくらでもあります。


慎氏の「朝鮮航空事業社」が終戦時にどうなっていたかは資料がみつからず不明なのですが、

内地では昭和14年に民間の航空輸送会社が消滅している一方で、

少なくとも昭和18年4月の水路部の資料では、一連の14の飛行場の中に、

逓信局、大日本航空等と並んで仲良く(?)慎氏の「朝鮮航空事業社」格納庫が建っている様子が示されています。

内地では、民間経営の航空会社、飛行学校、飛行場の運営が許されず、

次々と国策航空会社や軍に取りあげられてゆく一方、

朝鮮では、朝鮮人による国内定期航空会社が運航していたのです。

表面的にみればその政策は、内地の経営者には容赦なく、朝鮮の経営者には優しく見えます。

この事実を知ったオイラにとっては、内地と正反対のこの政策に一体どんな思惑があったか。というナゾが残りました。

昭和12年の神津氏の提言の中では、朝鮮内のローカル線は義勇飛行隊に当たらせるべし。

としていますから、少なくとも当時の神津氏には、日本航空輸送が運航するのは鮮内の幹線のみで、

ローカル線を運航する意図はなかった。

手を出すつもりのないローカル線を運航するのが「義勇飛行隊」か、「朝鮮航空事業社」か、という違いでしかなかったのか、

それとも傀儡に任せて鮮内の民衆の不満を抑えた方が日本にとって得策だという意図もあったんでしょうか。

尤も、この「朝鮮航空事業社」も終盤は座席の半分が軍に取りあげられ、

民間人の利用はほとんどできなくなっていたらしいのですが。

それでも、内地で戦時中国策により閉鎖を余儀なくされてしまった航空会社、飛行場の経営者が、

以後航空界からすっかり足を洗ってしまった例が多いのに対し(戦後日本を代表する航空会社の礎を築いた人もいる)、

慎氏は戦後の1946年に大韓国民航空社を設立し、変遷を経てこれが現在の大韓航空となります。

内地で自ら育てた航空会社、飛行場が取り上げられた人たちは当時このことをご存知だったでしょうか。

疑問は尽きません。


一連の朝鮮関連の記事を作る途中、県立図書館に立ち寄る機会があり、朝鮮コーナーに行きました。

そこには題名からして日本に対する怨嗟渦巻く本がたくさん並んでいます。

日本統治時代、そこで実際にどんなことが行われていたのか、

ネット掲示板の書き込み程度の情報しか知らぬオイラにとっては、

恨まれても仕方ない部分もあったのだろう。となんとなく考える程度でしかないのですが、

そんなオイラにとって、内地では民間航空会社、飛行学校、飛行場が次々取りあげられてゆく中、

「朝鮮人による朝鮮人の為の航空会社が末期の時期存在していた」という、

ちょっと考えるとアベコベのような現象は衝撃の事実だったのでした。
 

「朝鮮強化月間」はこれにて終了です(一ヶ月もたなかったけど)。

お付き合いいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m

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