So-net無料ブログ作成
検索選択

中種子町営高嶺(高嶺)飛行場跡地 [├国内の空港、飛行場]

  2016年5月 訪問 

無題3.png
1947年9月当時の写真(USA M488 17) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

種子島の増田飛行場についてアレコレ調べている時、まったくの偶然なのですが、

現在の中種子町福祉の里に「高嶺飛行場」なるものがあった。ということを知りました。

そしてそれ以上の情報がないまま現地をお邪魔して、福祉の里の道路で「ここかなあ」などと思いながら写真を撮り、

帰りがけにたまたま立ち寄った中種子町立歴史民俗資料館では飛行場についての詳しい情報はなかったのですが、

後日送って頂いたFAXによれば、「(高嶺飛行場は)高嶺競馬場跡に450mx25mの滑走路を作った」とありました。

つまり高嶺飛行場があったのは、「高嶺競馬場跡」、尚且つ現在は「中種子町福祉の里」ということになります。

上の1947年の航空写真、中種子町福祉の里の場所なのですが、いかにも競馬場っぽい地割が残っています。

高嶺飛行場の開通記念日は1954年12月だったので、ちゃんと計算合ってます。

 

実は高嶺飛行場の開港年は分かっているのですが、今のところ廃港年がどう調べても出てきません。

それで関係ありそうなところからアレコレと類推しなければなりません。

高嶺飛行場は中種子町の町営飛行場だったのですが、町は飛行場が手狭になったことから、

新たに第三種空港建設計画を進めました。

この空港(旧種子島空港)は1962年7月に開港しました。

そして前述の中種子町立歴史民俗資料館から送って頂いた資料の中で、

この旧種子島空港が開港した頃と思われるタイミングで、

「旧種子島空港」のことが、「島内唯一の空の玄関」と表現されています。

どちらも中種子町が計画した飛行場/空港なので、共存は考え難いのですが、資料もそれを裏付けている形です。

つまり、高嶺飛行場は1954年12月開港。

そして遅くとも旧種子島空港が開港した1962年には廃港したことになります。

ということで、この間の航空写真に滑走路が映っているはず! と思ったのですが…

無題4.png
1967年10月当時の写真(KU6711Y(1) C2 6) (「同意する」をクリック→戻る→再度■をクリック。) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

この場所の航空写真は、1947年の次は一気に1976年まで閲覧出来ず、なんと約30年の空白期が存在するのですΣ(゚Д゚;)

高嶺飛行場が廃港したのは、遅くとも1962年と考えられるのですが、それより更に5年後以降の写真しかありません。

で、その写真をよーく見ても、450mx25mの滑走路らしき地割は発見できません。

その代り、競馬場跡地を斜めに分断する道路がやけに目立っています。

この道路は、高嶺飛行場建設前には存在しなかったものです。

(この道路は怪しい)。と思ったのでした。


で、この道路が滑走路だったと仮定して450mx25mの線を引くと、こうなります。

(たまたま撮った場所に無理やり寄せて作図してます^^;)

現在でも競馬場の地割が微妙に残ってますね。

450mの滑走路は競馬場跡の敷地にはとても収まりきれずに大きくはみ出してしまいますが、

この競馬場を左右から挟むように南北に通る既存の主要道を滑走路が飛び出すとはちょっと考えられません。

(この道路が滑走路かも)。というオイラの仮定が正しければ、おおよそこんな感じだったのではないかと。

正確な位置をご存じの方、おられましたら是非教えて頂けると嬉しいです。

 

「種子島空港50年の歩み」に当飛行場開設のいきさつが出ていました。

内容を要約して記させて頂きます。

昭和29年5月、南日本航空は、「飛行機による離島交通対策に真剣に取り組む必要がある」という趣旨で、

種子島に渡りました。

先ず旧海軍の増田飛行場に向かい調査を行います。

防風林を数本切れば使用はできるが、道(アクセスが悪い)。ということでココは候補から外し、

中種子町を歩き回って見つけたのが高峰競馬場跡地でした。

ここなら整備次第では申し分のない飛行場ができると踏み、当時の中種子町長と直接交渉を行い、

「自社の飛行機を乗り入れるから競馬場跡に400mの滑走路を建設して欲しい」と依頼します。

これに対し町長は、「私の一存ではいかないので、町議会に図る」と応じました。

臨時議会が招集され、中種子町は島の中心で地の利を得ているので、

必ず種子島全島民の福祉と結びつくはずだということから、全員一致で450mの滑走路建設が決まりました。

こうして町民3,100人の自主的な奉仕作業により、昭和29年12月、450mx25mの町営飛行場が完成しました。

最初に種子島から鹿児島に就航したのは昭和30年3月で、

機種はパイパートリペーサー135型こまどり号とセスナ170B型しろはと号でした。 

昭和33年3月、将来の航空事業の進展上町営高峰飛行場が手狭になり、

松原山の町有地に町民の熱意によって1年の歳月をかけ、新しく種子島空港(1,000mx30m)第一期工事として完成。

路線を不定期運航の免許が認可され、島内唯一の空の玄関として、

町営飛行場から第3種空港として認可を受けたのでした。

 

DSC_0078.jpg

福祉の里付近は現在こんな感じ。

資料によれば高嶺飛行場滑走路の幅は25mとあるのですが、現在の道路は歩道まで含めても10m程しかありません。

オイラはここが滑走路と思うのですが。。。


当記事は一連の種子島島内の飛行場記事として最後のものです。

それで、オイラの種子島の飛行場について当初感じていた素朴な疑問について、ここにまとめておきます。

種子島は、南北約58km、巾は5~10km程の細長い島です。

この小さな島に、旧海軍の増田飛行場、高嶺飛行場、安納飛行場、旧種子島空港、種子島空港と、

5つの飛行場/空港が建設されました。

飛行場適地は自ずと限られるはずで、例え一旦廃止したとしても、再びその場所が使われることが多いはずなのですが、

この規模の島に5つもの飛行場/跡地がある。というのが非常に珍しく、

どうしてこんなにたくさん、しかもバラバラに造ったんだろう。というのがオイラの素朴な疑問だったのでした。

この島に最初に建設されたのは、海軍の増田飛行場。

終戦から9年後の時期、戦後初の飛行場建設のため、真っ先に海軍飛行場跡地に赴いたのは至極自然なことと思います。

しかし建設候補地として、純粋に「飛行機の離着陸に支障がないか」の比重が大きい軍用飛行場に対し、

民間飛行場の場合、離着陸に適しているのは勿論なのですが、果たしてここをお客さんが利用したいと思ってくれるかどうか。

ということも考えなければなりません。

利用客のアクセスがネックでボツになってしまった。というのは、軍用飛行場と民間飛行場の相違をよく示す例だと思います。

ということで、よりアクセスの良い場所を求め、増田飛行場とは別の場所に飛行場ができました。

その後、高嶺飛行場の後を追うように安納飛行場が新たに建設されます。

島の中央部分に飛行場があるというのに、わざわざ島の北部に新たに民間飛行場が建設されたのは、

「第3種空港を我が町に導きたい。そのために先ずは補助飛行場を」という西之表町の思惑のためでした。

ここでも増田飛行場跡地はスル―されてしまいましたが、そもそも増田飛行場跡地は中種子町にありましたから、

「アクセス云々」以前に西之表町の候補地に入る訳がないのでした。

その後の新旧種子島空港がやはり別々の場所に建設されたいきさつについては、

オイラは明確な資料を何も持っていません。

より大規模な施設の適地を求めて移動したのではないかと想像するのみです。


      鹿児島県・高嶺飛行場跡地     

高嶺飛行場 データ
設置管理者:中種子町
空港種別:町営飛行場
所在地:鹿児島県熊毛郡中種子町野間
座 標:N30°31′10″E130°57′15″
標 高:115m
滑走路:450m×25m
方 位:16/34?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1954年 5月 南日本航空、中種子町長と直接交渉
     12月 中種子町営高嶺飛行場開通記念日
1955年 3月 鹿児島便就航(パイパートリペーサー135、セスナ170B)
1962年 7月 旧種子島空港開港

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「種子島空港50年の歩み」


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0